3月23日 午前 65
私が何もかもを手放して膝から落ちると、背後の視線が途切れた。
その刹那、不安定な体勢で抱き支えられて我に返る。
いま、肘をついてこの身体を突き飛ばせばいい。そう感じたくせに、私は動けなかった。
だって、そうしたら、どうすればいいのだ。いま動けば、ミズキさんはそれを察知するだろう。それは、こたえを出すということだ。さっき浅倉くんに言われたとおり、それは、紛れもなくそういう意味だ。
なにも先が視えなくて、どうしたらいいかわからなくて、本能的に身を竦ませ、私は自分のそばにある確かなものに縋りつきそうになり、板の間についた膝に力をいれて衝動をこらえた。Tシャツ越しにその鼓動の速さを肌で聴き、かすかな汗のにおいに何故か平静さを取り戻しながら思うのは、今はまだ、動かないほうがいいということで、私はすでに自分の思考を取り戻し、立て直し、組み立てあげようとしていた。
縋りついていたのは、たぶん、私ではなく、浅倉くんだ。
だから。
完全に、もうひとりの人間の存在が遠くに消えて感じとれなくなったころに、ようやく浅倉くんは腕の力を緩めた。そのときになって気がついたけれど、彼も怖かったのだ。きっと。
「自分が追いかければいいじゃない」
抱き支えられたままそう口にすると、彼は太い眉を寄せた。
「私、お店番するからミズキさんに謝ってくればいいよ」
唇をまげてこちらを憎らしげに見たけれど、上目遣いになっちゃってるせいか、ちっとも迫力がなかった。
「……できるわけないだろ」
完全に不貞腐れて吐き捨てた。子供のような言い種だ。私は笑いと怒りを押し殺すように頤をそらし、斜めに見て問いつめる。
「どうして」
「あんたをとられたくないからだよ」
「よく、わからないけど?」
「だから、同じ女を好きで、今までみたいにいられるわけないだろ」
あまり上手な説明になっているとは言いがたい。とる、とらないって、私の意思は無視してるね。やはり、勝ち負けの感覚なのだろうか。それはそれ、これはこれって割り切れないんだな、このひとたちは。なんだかちょっと可哀そうな、愚かな生き物に思えてきた。
「もしかして、センパイ、嫉妬ってしない?」
抱きつかれたままこたえるのはなんだかおかしいと思いながら、返事をした。
「嫉妬しないのか、誰かを真剣に好きになったことがないのか、そのあたりは判然としないけどね」
うわ~だか、あわ~だかよくわからない弱い叫びが、浅倉くんの喉からもれた。それで両手が離れたのを幸いに、後ろにさがる。
「センパイ……」
「そんな、化け物を見るような顔で見なくてもいいじゃない? 私、今までの人生で誰かが欲しいって思ったこと、ないの。いつも、ちょっとイイなあって思うくらいで相手が口説いてくるし、こっちがそんなでもなくても言い寄られてるうちに断れなくて面倒で根負けしちゃったり」
口を開けっぱなしの顔へと、この空間から脱出したくて水をむけた。
「それより、時間だいじょうぶ?」
やべっ、と浅倉くんが声をあげて時計をみた。それから、ばつが悪そうなようすで口を開く。
「センパイ、申し訳ないけど戸締りしてもらえますか?」
「うん。いいよ」
「あの、店にそれで」
これで話を終わらせるつもりはなかったから、その勢い込んだ口調にはうなずいて安心させてあげることにした。
「すこししたら追いかける」
浅倉くんは見るからに安堵してうなだれ、続いてぶるっと頭をふってから顔をあげ、気持ちを入れ替えたようだった。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
私はそこで膝をついて手をふった。
そう。
こういうのは悪くないのだ。あげた手を膝のうえにおろし、板の目を見つめた。
庭師か。
ここに茶花を地植えしてしまったのは、失敗だっただろうと今はわかる。ミズキさんに、希望をもたせるようなやり方をした。ここで暮らそうという問いに、半分イエスといってしまったようなものだ。馬鹿だ。でも、口をついて出てしまったのだからもう取り返せない。
ほんと、馬鹿だ。
私はただ、自分の家に、今まで丹精して育ててきた茶花を置きたくなかっただけだ。それはつまり、家に戻りたくないというわかりきった拒絶で、ひいては愚痴を聞かされたくないという逃走を意味する。
かっこうつけずに口にすれば、結婚をしなさいと、早く子供を生みなさいと言われるのがイヤなだけだ。大病をした親たちは、私を片付けたがっている。いわゆる世間体もあるのだろうけれど、それ以上に、たぶん、「安心」したいのだ。彼らが。
思わずもれた吐息の大きさに呆れながら、頬にかかる髪をかきあげて空をみた。
春霞。
薄青の空にたなびく雲の向こう、その遥か遠くまで見通せるような気がするのに、目の前のことは、なにも、本当に何もわからない。
困ったな。
二度目の吐息で鼻のずっと奥にある涙の塊をおしながして、立ち上がる。私には、泣いてる暇は、ない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます