3月23日 午前 64
「ミズキさん、普通そういうこと言わないんじゃないのっ」
反射的に声をあげた私の剣幕にも相手は冷静だった。
「僕にとってはこれがふつうだし、べつに普通じゃなくてもかまわない。それに、知りたいと思ってたことじゃないのかな」
立ち上がった浅倉くんの顔を一瞥してから、すうっと視線をはずして庭を見た。
心臓が痛かったのは、自分が緊張しているせいだった。浅倉くんの背中はぴくりとも動かなくて、ミズキさんの瞳の向こうを追うと低い木があった。
「この庭もいい加減、ちゃんとした庭師さん呼ばなきゃいけないね」
そのつぶやきで話題がかわりに、私はあからさまな安堵をおぼえて肩を落とした。けれど、浅倉くんは動かなかった。
「ミズキ」
「浅倉と話すことはないよ。無断外泊の謝罪はきちんと姫香ちゃんから聞いた。でも、約束は約束だから、できれば早いうちにここを出てって欲しい」
「ミズキさん?」
私が、縁側で腰をあげた。
ミズキさんは時計を見て、浅倉くんにいつものビジネスモードで口にした。
「開店時間まであと一時間、ないよ」
それが時任洞の始まりの時間だと、私はよく知っていた。
「ミズキ」
浅倉くんが低い、いつもの掠れた声で名前を呼んだのに彼はまるで聞こえないという顔をしていた。
「姫香ちゃん、僕も出るし、これからどこか出かけるなら近くまで車出すよ」
視線は目の前の浅倉くんを完璧にスルーしていた。すごい集中力だと感心し、これは芝居の一幕かとふざけた気持ちで立ち尽くす。
「出かけない? どっちにしても、この家の鍵はもってて。僕、今日は夜もずっと仕事の予定だから、君の気持ちが決まったら連絡して」
それがどんな意味なのか、私はようやくぴんときた。浅倉くんも同じだったようだ。目が、あった。ミズキさんとじゃなくて、浅倉くんと瞳を見交わしてしまったことを、失敗だと感じていた。
だから、次の言葉は聞くのが辛かった。
「僕は言うだけのことを言った。あとは、姫香ちゃんが自分で決めて。期限は設けても意味がないしね」
「決められなかったら、どうするの? それでずっと連絡しなかったら」
自分では精一杯の覚悟で口にしたつもりだった。それなのにミズキさんは私を見あげ、なぜか嬉しそうに目をほそめた。
「それも覚悟の上だよ。君以外のひとと結婚したいと思えないからしかたないね」
「追い討ちを、かけてるね」
「かけてないよ。姫香ちゃんに小細工は通用しないのは経験済みだから。僕は本心しか語ってない」
「イラストの仕事はどうしたらいいの?」
まずはそこを問いただしたいという、自分のエゴに驚いた。でも、私にとっては生命線で、ソコを切られるのは何より辛かった。HPに自分の絵をあげてもらえる会社があるというのはほんとに有り難いというのが、画廊巡りをしてよく理解できた。これからの絵描き人生で、ミズキさんの応援があるのとないのじゃ全然、違う。
「君のバックアップは続けるよ」
私の心配を見透かしてまず、そうこたえた。言い終えて少しのあいだ視線をずらし、自分自身か私かわからないながら、何かをおかしがるように口許を緩め、いったん唇をひらいてからまた閉じて、私の目を見て続けた。
「それはビジネスだからね。画廊と相談してマージンは貰う。それに、HPの件ならデータで送ってくれても事足りるし、デザイナーから連絡するのも可能だけど、まあ現実、そうは都合よく人間関係切れないって」
最後のほうはゆっくり、安心させるような声音で口にした。それはすでに、私にむけての言葉じゃないように聞こえた。でも、私は隣の浅倉くんを見ないようにつとめていた。
それからミズキさんは、そういうことだから、と背中をむけて手をふった。
「ちょっと、ミズキさん?」
縁側からおりようとして、よくよく考えればジャケットは居間にあると思い出す。捨て科白のあとこの場から都合よく消えるわけにはいかないのが救いにも思えた。けれどなんど名前を呼んでも振り返りもしないので、居間に先回りしようとしたところを、浅倉くんに腕をつかまれる。
「なによ」
こちらが険悪な声を出したのに、浅倉くんはなんだかひどく静かな顔をしていた。毒気にあてられたせいか覚悟を決めているせいか、よくわからないけどやけに落ち着いていた。
「追いかけるならちゃんと、イエスかノーか決めないと」
「あのね、ひとをさんざん追いつめて泣かせたくせに、言うだけ言って逃げようってところが気に入らないの!」
「や、それは逃げてるわけじゃなくてそうするしかないっつうか……」
「もうっ」
私は声をあげて腕を乱暴に振り払おうとして、それができなくて目をむいた。
「行くなよ」
反撥心を煽られて息苦しいくらいの気持ちで右手を引きはがそうとすると。
「行かないで」
今度は目を閉じて、泣きそうな顔で口にされた。怯んだすきに腕の中に抱きこまれた。
身動きできないまま、背中全部が耳になったみたいに、家のなかのかすかな音まで全部、拾おうとする自分がいた。
玄関の戸が開く音。廊下を歩く足音。居間の引き戸のたてる乾いた音。
動きがとまった。
こちらを、たしかに見ているという視線に、心臓が痛いくらいに脈打っていた。身をよじって逃れようとすると、さらに力をこめられて、苦しくなって、呻くように痛いと声をあげた。
「はなして、浅倉くん……」
何度か、きれぎれに名前を呼びながら、もう、なにをどうしても自分の意思が通らないのだという、そのことの異様さに震えていた。強く暴れれば、手をはなしてくれるかもしれない。そう思うのに、自分の背中を貫く視線に縫いとめられて、動けない。諦めという思考の断絶に身を焼かれ、遠くにある物体の熱量を惜しみ、それにまして熱をもっている生き物の狂おしい、なにか間違っているという気がする、無遠慮な放射を浴びながら目を閉じた。
もう、なにも、考えたくない。
かんがえ、られ、ない……
そして――
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