3月23日 午前 60
言葉につまったら負けだと思った。けれど、さすがにすぐさま言い返せるほど自分が潔癖じゃないと、知っていた。指先が冷たくて、なのに頬から耳のあたりは熱かった。らしくないくらい逆上せあがっている。
彼は、まっすぐに私を見つめて口にした。
「僕は自分でも正しくないことをしてると思うよ。僕はきっと、間違ってる。でも僕はそういう人間で、この先の人生を共にしたいと思う相手にそれを誤魔化していいところだけ見せておこうとも思わないし、そこまで厚顔無恥にはなれないよ」
私はその視線をよけて、よけたことに気がついてどうにか顔をあげ、思っていることだけを意味もなく告げた。
「ミズキさんが優しいだけのいいひとだなんて初めから思ってないよ」
「うん。僕はそういうことを瞬時に見抜ける、計算高くて冷酷な君が好きだ」
開き直られて、ムカツクままに声をあげる。
「じゃあなんで手の内を見せたりするの。私をなめてるってこと?」
私が本気で腹を立てているというのに、彼はそこで微笑んでこたえた。
「君にだけは優しくする。誓うよ」
「それ……私に優しくしてほしいってことと同じでしょ? しかも今まであんなに優しくしてくれてその時にはそんなこと言わないで、おかしいよ。だいたい誓うとか言い出すときってたいていウソだし、いま私に優しくしてないって自分で思ってるからごまかして言ってるんじゃない」
ミズキさんは怒らなかった。ひどく面白いことを聞かされたような顔をしていた。このくらいのことは言い返されると想像していたらしい。かえって喜ばせてしまったかもしれない。
今の私は、知らない間にかさんでいた「甘え」という借金を一時に取り立てられているようなものだ。いつもなら、こんな下手はふまない。相手の気持ちを探り、用心して、こちらに踏み込ませるような真似はしない。だから。
もう、どういえば相手が引き下がるか考えようとすることも上手にできていなかった。いや、そうじゃないか。集中力が切れかけているだけだ。つまりは、ミズキさんのほうがやはり上手だということで、けれど、私にも言えることはある。
「ミズキさんは自分にそこそこ都合いい、自由にできそうな柔な異性を見つけてそれで舞い上がってるだけだと思うし、そうじゃなきゃ、自分の弱いところや痛むところを理解してくれる私を自己愛のかわりに優しくしたいだけだよ」
「君、それだけのことを言えて、自分のことヤワだと思ってるんだ」
目の前のひとが感動していた。
「だって、事実だもん」
目を眇められて、すこしだけ鼓動が早くなる。相手がミズキさんだからこれしきのことでキレるとは思わない。でも、急所をつくと手酷く反撃されることがある。私は視線をはずし、思いついたことを問う。
「ミズキさん、武道かなにかの経験があるよね」
「護身術程度にはね。今もジムに通って鍛えてるよ」
彼はそこで、ふと何かを気にするようなそぶりで横をむいた。それからこちらを向いて、
「僕と結婚することで、君になにか不利なようなこと、あるかな」
ミズキさんが楽しそうに口にした。
「僕は絵をかく君が好きだから、君の時間を搾取するような真似はしない。子供が欲しくないっていうならそれでもいいよ。ここは日本だから夫婦同伴でパーティーに出ろとも言われないし、僕の仕事に関わってもらわなくても平気だ。もちろん助けてもらえればうれしいけどね。親戚付き合いが面倒だっていうならべつにそれでかまわないよ。母は事実上、桂の家とは断絶してるし、君がそうでも誰も非難しないし、僕が、させない」
そんなんで、このひとにとって私と一緒になる理由があるのだろうか?
「じゃあ、なんで」
「僕が仕事をしていく上での条件だけでなら、君よりずっと都合のいい女性はいる」
「そりゃそうだよ。私はなんにもできないもん。家柄がいいわけでもないし、私と結婚して得することなんて何もない。そんなこと、とうにわかってるよ」
「わかってないよ」
辛抱強い声で、彼が囁いた。
「君はなにもわかってない。わかりたくないから認めないだけだ。なんでそんなに僕と結婚したくないのかちゃんと考えて」
考えろと言われて、唇を噛んで呼吸を制御しようとした。こんな乱れた息継ぎでは、相手にやられっぱなしなだけだ。でも、これだけやられたら、相手の痛むところに打ち込んでもいいはずだ。
「……浅倉くんのことを、言ってるの?」
「さあ、どうだろうね」
ようやく視線をはずされて、私はすこし楽になった。瞬きしないひとにこちらの呼吸をはかられ、目の動きを追いすがられて、思考を透写されるのはとてもキツイ。守勢にまわっていることに嫌気がさして、私は、吉と出るか凶と出るかわからないものの、これだけは聞いておきたいと思うことを問いかけた。
「浅倉くんと私、どっちが好きなの」
「比べて欲しいの?」
揶揄が含まれるかと思ったら、意外に冷静だ。となれば、私も冷徹に返す。
「浅倉くんはあなたのお父さんじゃないし、私も正直、ひとの面倒をみられるほどの器じゃない」
「君たち二人を父親と母親に見立ててるつもりはないよ」
「そういう可能性はいちおう、考えたのね?」
「まあね」
自覚があるなら、まだ、いいか。
おそらく、そうしたこちらの安堵をくんで、 ミズキさんは口許を緩めた。互いの了承があるというのは果たしてこの場合、いいのか悪いのか判断に困る。そう思った隙に、
「君を、他の男には何があろうと渡したくない。浅倉に負けたくないって思う分、自分に靡けば嬉しい」
「勝ち負けの対象ですか?」
呆れて問うと、ミズキさんが肩をすくめた。それから横をむいたままで口にした。
「もしも君が浮気したら殺したくなるから」
「誰を」
念のため、聞いておこう。
「相手の男はもちろん、君も」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます