3月23日深更 36
「わからない」
反射的に口を出たこたえは、一笑された。
「わからないっていうのは便利な言葉だね。姫香ちゃんみたいなひとが口にするとすごく可愛げがあって、それでなんでも許してしまいそうになる」
自分の身体が冷たくなるのを感じた。そばにあった膝掛けをひっかけたところで。
「怒った?」
「いいえ」
首をふると、ミズキさんが喉を鳴らして笑ったようだ。それから、
「怒ったほうがいいよ。姫香ちゃんはもっと、自分を大事にしたほうがいいと思う」
「ミズキさん?」
意味がわからなくて、声が苛立ったのに、
「それでいい」
電話の向こうで、満足そうにこたえた。
「ミズキさん」
彼が一瞬、間をあけた。もう一度、名前を呼ぼうと口を開いたところで、その瞬間にはもうすっかり態勢をととのえたようで、いつもの声で事務的な応対をした。
「じゃあ悪いけど、浅倉に電話してもらえる? 出なくても、出ても、僕のケータイに電話して」
「浅倉くんからは?」
言ってから、しまった、と思った。私の悔恨を悟ったように、相手はため息をついて応対した。
「それはどっちでも」
「わかった。それじゃ」
いらないことを、口にした。その愚かしさを認めたくなくて、でも認めないとならなくて、こちらから、罰を引き受ける覚悟でうなずいて電話を切った。
そしてすぐさま、連絡する。呼び出し音が続く。留守電に切り替わるかと思った瞬間。
「ハイ?」
寝ぼけたような、はっきりとしない声がこたえた。一気に、それこそもう、何がなんだかわからないくらいの勢いで、まるで迷子の子供を見つけた気持ちで叫んでいた。
「今、どこにいるのっ」
「え、あ、その、友達のとこですけど、なんかあったんですか?」
がっくりきた。なんかって、なんだ! こっちが聞きたいよ、もう。
人様の家でこんな時間に電話でしゃべっていいだろうか。けれどもう今さらだ。いや、やっぱり聞かなきゃ。
「お友達、起こしちゃうとこ?」
「や、だいじょうぶですよ。今、隣の部屋で働いてるから」
のんびりした声だった。
いつも、そうなのだ。浅倉くんはなんでか、いつもそうなのだ。こちらが切羽詰っているときに悠揚とした、太平楽な、そこになんの根拠があるかちっともしれない、それでもなにかこの声が聞こえているかぎりは大丈夫だっていう乾いた声で話すから……。
ごそごそと音がして、ベッドか布団かわからないけど、その上に身を起こしたようだ。きっと、胡坐をかいて髪をかきあげて頭をふっているに違いない。
「センパイ、どうかした?」
少しは頭がはっきりしてきた声だった。私は一息ついてから、背筋を正して言い切った。
「どうもこうもなくて、ミズキさんから無断外泊だっていう連絡があったの。すごく心配してるから、彼に」
「ミズキ?」
冷たい、歪な声だった。自分の身体が震えたのがわかったけれど、言うべきことは言ったほうがいいと思っていた。
「ミズキさんから留守電、山ほど入ってるんじゃないの? 一緒に暮らしてるんだから他所に泊まるならメールのひとつ」
「センパイ、自分が何やってるかわかってる? 今日オレ、好きだって言ったよね。ミズキとの関係だってきいた」
「それとこれは」
「別じゃないだろ。それでなんで、ミズキに電話しろって、あんたから言われないとならないんだよ」
また話の途中で遮られ、呻くような、息苦しいような声で問い詰められた。
「いったいどういうつもりで」
「どういうって、だって」
「だからっ、なんでミズキから頼まれて、オレに電話してくるんだよ。ミズキのほうが好きなら好きでいいけど、こんなやり方しなくてもいいだろ。オレのことはだったら、ほっとけよ」
正直、嫌な感じの電話になるだろうとは予測したけれど、まさかこれほど苛立った声を聞かされるとは想像もしてなくて。
「……だって、ミズキさん、泣いてたから」
言わないでおくつもりだった。でも、胸苦しくてもうこれ以上、こらえられなかった。ほんとはもっと違う言葉で、ミズキさんの弱さをばらすようなことじゃなくて、伝えようと思っていたのに。
「泣いてって……センパイ、あんたが泣いてるんじゃん」
電話の向こうで、浅倉くんが呆れ声でため息をついた。しゃくりあげていたのは、たしかに自分のほうだった。
「ごめん。センパイ、泣かないで。お願い」
ひどく情けない声が聞こえた。そもそもこんなことでなんで泣くのか、自分でもわからかった。こんなに自制心のない、涙腺のゆるい女だっただろうか。
「ミズキさんが、泣いて、電話かけてきたから……」
バカみたいにくりかえすと。
「それはわかったから」
「わかってないよ」
浅倉くんは、なんにもわかってない。
泣きやもうとすると、ひゅう、と喉がなった。彼は無言だった。
「浅倉くんは、なんにもわかってない」
八つ当たりめいて相手を責めるつもりはなかった。でも、ミズキさんの気持ちを抱えていることができなくて、これ以上は秘密にできなくて、苦しかった。一緒に暮らしてるひとに片想いするなんて、仕事でもプライヴェートでも昼も夜もそばにいて、それでその相手がそれを知らなくて……私には完全に想像の外でしかなかったけど、でも、楽なことじゃない。それは、容易に察せられた。
「……つらい?」
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