3月22日 34

 家まで送るというのを突っぱねたら、じゃあ、着いたら電話して、と約束させられた。南流山はそんなに危ないところじゃないぞ。しかも若い娘じゃあるまいしと口にしようとして、できなかった。

 幼い頃、セックスというのは若い男女のものだと思っていた。そしてまた、若いというのはせいぜい十代二十代のことで、三十代までは弟や妹ができる友達のいることを考えて夫婦のあいだでは存在するのだと想像し、四十代というのはもう、小学生の私にとって、そういうことと縁のなくなる年齢だと勝手に決めつけていた。そして、性愛がいつまで続くものか、あの頃より情報に溢れ誰からも咎めだてなく気をつかわずにそれを知る権利があるというのに、私はわからないままでいる。

 けっきょく、子供のときからちっとも賢くなってないようだ。

 否、どんどんバカになってるかもしれない。

 酔い覚ましに一駅分ふたりでぷらぷら歩いたら思ったより遅くなり、家まで来られたら帰りの上り電車の最終に間に合わない時間になっていた。さすがにそしたら追い返せないじゃないか。というか、そもそも、ついてこられたら押し切られそうだった。

 でも、ついてくるなと言えばついてこないとは知っていた。

 今回で思い出した。しつけの悪い馬鹿イヌに見えて、意外なほど言いつけには忠実なのだ。ミズキさんには彼がさぞかし必要だろうと、納得した。龍村くん曰く、あれでけっこうな戦術家。じゃあ戦略の才はないのと問うと、深町サンとしてはナイほうが都合いいんじゃない、と唇の端をつりあげた。ごもっとも。

 犬というのが女にとって都合のよい理想の男性像の譬えだと言えばそれまでだ。でも、飼い主にもそれなりの覚悟が必要だ。飼うと決めたら、とことん可愛がらないではすまない生き物だから。その点、ミズキさんは情が深い。欲張りと言おうか、いっそ吝嗇なくらい、いちど懐に入れたものを離そうとしない。

 別れ際に、やっぱどっかに泊まりませんか、ときかれた。「やっぱ」ってなんだ。ほんとにそのつもりだったんだな。あまりに直截すぎて聞かないふりで無視すると、このまま帰りたくないんすけど、と口にした。そういうのは妙齢の美女が瞳を伏せてつぶやいてこそ様になるものじゃないかと心中でつっこんで笑いをかみ殺していると、彼が続けた。もうちょっと付き合ってくれたっていいじゃん。

 しつこいというか諦めが悪いというか何というのかは知らないけど、ちらりと斜めに見やると、眉を開いてふっと肩をすくめられた。こちらの視線に怖気づいて慌てるかと思ったのに余裕をかまされて、絶対に、何がなんでもひとりで家に帰ってやるという気分になった。

 だいたい学生の頃から、もっと飲みましょうよ、まだいいじゃんが口癖で、来須ちゃんが講義の予習復習を理由に帰りたがると、熱心に引きとめた。後で彼女がぼやいていた。あたしがいなくなれば自動的に先輩も帰っちゃうからですよ。そりゃあそうだよ、浅倉くんと二人きりで飲んだらキケンだもん。そうこたえると、彼女が恨めしそうに私を見た。

 有楽町駅の改札で別れて、見られていると意識した踵が軽かった。それで振り返ってしまった自分がすこし、浮ついていた。予想通りにそこに立っているひとの姿はことさら愛らしく見えた。この距離でも、顔が明るくなったのがわかる。手をふると、右手をひょいとあげてこくこく頤をひいた。私が階段の影に消えるまで、そこに立っているだろう。

 ひどく感傷的な気分で、別れた男を思い出していた。こういうときに過去を振り返るのは悪い癖だと思いつつ、つきあってすぐのデートでも背中を向けて歩いた忙しがりの素っ気なさ、安心しきってほったらかされて、それがとても頼もしく思えた男の不精を懐かしんでいた。

 愛されていなかったのだと思うと人並みに悲しかったけれど、私はそれを随分と楽しんだ。認めてしまえば、恨む気持ちは影をひそめた。消えはしない。でも、いっそ不気味なくらい薄らいだ。我ながら、気持ちが悪かった。そんなに簡単に忘れていいのかと自問しそうになって、やめた。

 終わったな。

 本当にそう感じたのがそのときだった。誰か他のひとと並べたてられるくらいには、整理がついてしまっていた。

 吐息をつき、ゆったりとした気分で浅倉くんの顔を思い浮かべようとして、胸下に突き刺さるのがミズキさんの横顔だった。刃物の冷たさはないものの、異様に尖った痛みを覚えて、階段で足を止めた。やだ。苦しくて、一瞬とめた呼吸をもてあました。

 すると、後ろをのぼっていたショートカットのお姉さんが突然立ち止まった私に驚いてブーツの足をとめた。私が胸をおさえて背中を丸めたので、そのひとがこちらを見ているのがわかった。蹲ったら、だいじょうぶですか、と問われそうな雰囲気だった。

 ゆっくりと深呼吸して、バッグを肩にかけなおした。だいじょうぶ。どこも身体は痛くない。感覚的な、妄想じみた痛みだ。

 背筋をのばし、なんでもないです、ありがとう、という顔を向けた。相手も、ルージュをひいた大きな口をほんの少しだけ緩めて了解した。

 こんなことで通じ合えるのが、女同士のいいところだと思う。ひたすら獏を懐かしむ自分を叱咤して、ホームに入ってきた電車を見やる。走るのはやめて、降りてくる人並みに紛れ込む自分の小ささをいとおしんだ。

 誰も彼も、家路に急ぐわけじゃない。

 人気のなくなったホームで頬を撫でる髪を手でおさえながら、私はひとりものの孤独を存分に楽しんでいた。


 家について、電話ではなくメールを入れた。距離をとりたかったところもあるけれど、電話だと、長くなってしまいそうだった。 

 横顔をうかがい見たとき、こけた頬のせいで余計、やつれていたように思った。瞳に力がなかったのも気になった。ネット販売のほうは、ほぼひとりで処理してると言っていた。再会してこのひと月、彼が細切れの時間から誘ってきているとわかっていたし、心配した。

 それなのに、三十秒とたたないでケイタイが鳴ったのでがっくりして肩が落ちた。

 耳許で声を聞くと、何をされたのか思い出しそうになる。

 あんなふうに想いを打ち明けられたのはひさしぶりだった。あさましいことに、私はそれを悦んでいる。元カレといたとき、別れた奥さんとはどうだったんだろうと考えることを戒め、そうやって当時は意識して抑えこんでいた寂しさに気づいたりして、バカみたいだと泣きたくなった。

 ひとから好きだと言われるのはうれしい。

 でも、それはいつものことなのだ。

 電話をとりあげたところで、切れた。私はすぐに折り返し、相手に喋らせる隙を与えず今日のお礼をかんたんに述べてから、ごめんね、ちょっともう眠くて、と断った。浅倉くんは、疲れてるとこ長々とつき合わせてすみませんと謝り、余計なことを口にせず、おやすみなさいと言ってくれた。察してくれてありがたかった。

 浅倉くんも、忙しいみたいだから休めるときにゆっくり休んでね。

 私はそれだけ言って、相手がなにか言おうとしたのに気づいていて強引に、オヤスミナサイと電話を切った。

 この一ヶ月、なんだかこんな電話ばかりしているようだ。相手の話をきかないのは人間としてなにか絶対に間違ってる。最低だ。

 でも……。

 私は、ミズキさんと一生つきあいたいと思っていた。

 彼は、時任獏に似ていた。あのちょっと芝居がかった話し方をするところ、声の抑揚をかえて言いたいことを伝える癖、私の話を楽しそうに聞いてくれる表情や言いにくいこともきちんと口にしてくれる態度。ふとしたときに譬えようもなく寂しそうな顔を見せて、喉からみぞまちまで、きゅうううっと狭くなって泣きたいような気持ちにさせられることも、獏を思い起こさせた。

 もしも浅倉くんと一緒になったら、彼は今までのように私を受け入れてくれるだろうか。

 社交的でオトナな彼のことだから、表向きはかわりなく、一切のわだかまりも感じさせず、優しく接してくれるにちがいない。

 それでも私は、私には、彼に線を引かれたのがわかる……わかるだろうと、思った。

 自惚れかな。

 口のなかだけでひとりごち、お風呂を入れようとバスルームにむかった。

 こないだ買ってきたバスソルトを開けて、気分を一新しようっと……。


 そのときの私は、愚かしいことに、その後の怒涛の展開をまったく予期していなかったのだ。


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