3月22日 33
一度、会ったことがある。男友達がお姉さん目当てで家に遊びにきたと自慢して私たちにでかでかとシスコンの判を押されていたけれど、ご本人を目の前にしたらそれも無理からぬ、と納得した。なんだかやたら迫力のある美人で、正直、アサクラ君と似てないなあとまで感じていると、オレはじいちゃん似なんですよ、とぼやかれた。彼いわく、お姉さんはどちらかといえば顔はお父さん似で性格は誰にも似ていないカリスマだそうだ。
「目鼻立ちしっかりしてるから化粧するとすごくケバくなるんすよ。服もよく選ばないとミズっぽく見えるっつうか。ほんとは赤が好きなんだけど、赤い口紅すると派手すぎて店屋の奥さんっつう感じじゃなくなってさ」
ヴェルサーチが驚くほどよく似合っていた。あのお姉さんと街ですれ違ったら、私なら絶対に振り返っていつまでも見続けてしまう。実際のところ、私の視線の欲望は彼女の身につけたお洋服やお化粧による吸引力ではないはずだ。
けれど、今ここで浅倉くんが言いたいのは「記号」なのだろう。人間誰しも記号にしか欲情しないと言い切っていいものか。でも、男はわかりやすいものを好む。というかそれにしか反応しない。そう考える自分は、浅倉くんの言うことを理解してるわけだ。
「女の人がどんな化粧しようがなに着ようがほんとはそれでいいのに、周りは勝手にそういうイメージで見て変なこと言う奴がいるんだよ」
選ばれる側、判断される側、つまりは見られる側であるという意識は、つねに自分を疲弊させる。こちらも、同じように見ているのだ。女も負けずに、情け容赦なく見かけで選んでいることを否定しない。それなのに何故か、視線の力というのはいつでも男に分があるようだ。私の視線は私だけのものでしかないけれど、「彼」のそれは違う。
逃げ切れない――
あるとき、清水義範さんの本を読んでいて、ひっそりとため息をついたことがある。小学生の頃、清水さんは国語が得意ではなくて、女の子たちはよくできた。彼にはよくわけのわからないルールを彼女たちは知っていて、そのせいで国語ができるのではないか……。
私は、ひとりで本を閉じて切なくなっていた。身に覚えがあるのは、出題者の意図をよむ習性だ。純粋に問題をといているのとはきっと、微妙に違う。
厳然とそこにあるものに敏感であることが、なんだかさもしく思える。容姿に不自由だと自身ではっきり思い、せめて多少は見られるようにしておかないとさらに不利を被ると感じるこころは、はたして美しいものだろうか。それはなにか、努力という名の放つ輝かしさとは自ずと違う種類のものじゃないのかしら。
それは素晴らしい人生のための前向きな努力と同じだろうか。勉強やスポーツができることを善しとして頑張るのと似ている?
同じだと、すなおに感じられればいい。美人で綺麗なほうが得だと、すなおで従順なほうが可愛がられると……つまりは「男」や「社会」の機嫌をうかがう自分の卑屈さに呆れる。
「センパイ、どうしたの」
だいじょぶ、と眉を寄せて問われた。顔をあげて、だいじょぶじゃないよ、と言って慌てふためかせてみたくなった。
でも、そうはしない。
昔、飼っていた犬がときどき、こういう顔をした。ペットという言葉通りにこちらの愛撫に目をつむり漫然と身を委ねているというのに、ふとしたときに、触らせてやっているのだとばかりにチラとひとの顔を見る癖のある、やたら気位の高い犬だった。
国の天然記念物に指定されている北海道犬で、中型ながら自分より大きな秋田犬やシェパードでさえ恐れるに足らずというふうに睥睨した。それでも犬らしい健気さと、私のほうがまるで体力がないと知っている獣特有の賢明さで、長距離散歩の途中、土手でのびている私を見おろしておとなしく横に寝そべり、その気性の表れであるきつく巻きあげた見事なしっぽをくるりくるりと揺らしたりした。
高校受験の前日、アイスバーンで私が転んだときの顔は見物だった。何事にも動じることのない犬のくせに、振り返って吃驚していた。私が動けると知るや、困った、しまった、という顔で近づいてきてすぐにはご機嫌をとらず、ようやく上半身を起こした私の周囲をめぐり、様子を見た。前方からひとが来るのに気づいて行き過ぎるまでずっと、もう私が立ち上がったというのに尻尾を向けたまま微動だにしなかった。それから、家へ戻ると言うようにリードを引いた。
犬に気遣われてるよ。そう思う気持ちはあちらのほうが何倍もの速さで年をとる事実に目隠しされた。夕焼けほども美しい橙色の毛並みを一撫でしてから、いつものコースより遠回りして歩いた。気になるらしくチラチラ振り仰ぎ見る視線に苦笑した。
落ち込んでいるとき相手をするには骨が折れた。こちらがいくら玩具で遊ぼうとしても、遊ばれてやっているという顔ではなく、ひどくまっすぐに目をむけて、珍しく、甘えるように鼻で鳴いて擦り寄ってきた。俊敏さが持ち味だというのにそういうときは飛びつくのではなく、ゆっくりとうかがうように脚をすすめ、私を座らせようとした。手を舐めながら甘噛みして、撫でてくれと頭や脇腹をこちらの腿に優しくぶつけてきた。
私の演技は通用せず、騙されたふりをする芸当は相手にはない。犬だってちゃんと人並みに以上に賢くて、都合が悪いとごまかしたり知らん振りをしたりするくせに、やっぱりそこは人間のようにはできないのだと、犬にはそういうウソがつけないことが可哀そうで、そのことが切なくて、息苦しいほどいとしくなった。
なんて美しい生き物なんだろうと、いつも思っていた。
どんなに熱心に洗ってもすぐにむっと鼻をつく獣臭ささえ、草いきれのなかではすごく自然だった。体の力を抜いて横になっていながらも、いつでも警戒を怠らない猟犬の本能は健在で、立てた耳や黒々と濡れた鼻は、私がまだ感知できない遠くのひとの足音や犬の気配をひとつひとつ丁寧にさらっていた。
そのしっかりと太くかたい胴に手をまわし、耳の後ろを指で探ってやりながら、川面を眺めるのが好きだった。光を弾く艶のある長い毛の内側の、密に生えたやわらかな亜麻色の縮れ毛をかきわけ、雪原をはしるこの犬がどれほど赤く輝いているか想像して目を閉じた。
身罷ったとき、アイヌの神様ヒグマと戦える、あんな偉大なものを恐れず立ち向かえるほどの力を、この坂東平野で、狭い家の庭で費えさせてしまったことを申し訳ないように思った。
愛していると誰にも恥じずに言えたのは、飼い犬だけというのは、なんだかおかしい。
いや、他にも、時任獏がいたか――彼女だけは、もしかすると、アイシテイタと言っても許されるかもしれない。
気がつくと、浅倉くんに耳の後ろのにおいをかがれていた。犬じゃないんだから、と片手で頬を押しのけようとすると、ひょいとよけられた。
「センパイ、いい匂いする」
ものすごく素の声だから困るのだ。これじゃ弟に、焼肉屋行ったとかタバコ臭いとか鼻をうごめかして言われるのと変わらない。
「香水つけてるから」
耳の後ろにはつけてないけど、膝裏には出掛けにつけなおした。
「うん、でもなんかくさくない」
「天然香料だから香りがやわらかいんだよ。かわりにすぐ飛ぶけどね」
ふ~ん、とわかったようなわからないような顔をして、あのころと違うにおいだ、とつぶやかれた。そのまま視線が落ちて、彼は鼻のしたに手をやって、そりゃそうだな、とひとりごちて苦笑した。
なんだかひどく憎たらしかった。
よくよく思い返してみると、浅倉くんは私が今日、申し出を断らないと踏んでたわけで、しかも勢いにまかせて「お持ち帰り」するつもりでいたのだろう。たとえ交際をOKしたって展開として早すぎるし世の中的にはアリでも、私にはそういうの、無理だから。
そのくらいのこと十分わかってるだろうに……
私はなにげないふりをして一歩すすんで、バッグ、と一言のべた。ここは次を言わせず言い切るぞ。
「ストール入ってるの、寒くなってきたから」
浅倉くんは無言でバッグをさしだしてきた。わたしはそれを受け取り、畳んで入れていたオフホワイトのシルクカシミヤストールを取り出して羽織った。たぶん、気がつくはずだ。
「帰りますか」
正解。
深くうなずいてのち、顔をそむけて息をついた。正直、ほっとした。
「遅くなっちゃいましたね」
彼が時計を見て、そう、言った。
そのまま私の手をとって、非常口の扉を開けてくれた。どこかで隙をみて離そうと考えながら、手ぐらい握られてもいいと思った。ふりほどくタイミングを見失っていたし、酔いが醒めてきたのか少し冷えた指先に温もりがあるのは心地よかった。すっかり相手のペースだと思うのに腹が立たない。それは、悪い気がしなかった。
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