3月22日 30

また、無言。

「アサクラ君?」

 彼は私の腕をはなし、さっきよりも大きな身振りで首をふってから太い息を吐いた。

「……なんでも、持ってるじゃん」

「浅倉くん?」

 顔をあげると、彼はこちらを見ていなかった。うつむいて、自分の足許を、尖った靴の先あたりを見ていた。私もつられて下をむいた。そこに、なにか大事なものが落ちているような気がした。もちろん、なにもない。

 何も。

「世間のことはどうでもいいよ。言いたいことわかるけど、ほんとはどうでもよくないけど、今はもう、そっから出たんだからさ」

 出たの? 出て、ないよ。そう思ったのに、言えなかった。

「なんでもっていうか、誰もが持てるかどうかわかんないもの、センパイはちゃんと持ってるのに」

「は?」

「自分なんてって言いながら、ちっともぜんぜん、何にもないなんて思ってないくせに」

 それは、そうかも。

 でもたぶん、それは浅倉くんが思っているのとは、微妙に違う気がする。

 誰も、この世の誰も私を大事にしないのだとしたら、自分がしてあげる以外、ないじゃないか。もうこの年になって独り者でろくなキャリアもないと、家族や男や世間に認められて大事にされることなんて滅多にナイわけだから、私が自分で、自分のことをかわいがってあげる以外、どうでもいいって投げ出さないようにしてあげないとならないもの。

 死ぬわけにはいかないんだから。

 誰からも愛されないからって死ねるほど狂気のロマンチストでもないし、肌寂しくもない。それに、生きてることがそれだけで幸せだってこと、私はなんだかちゃんと知ってるんだもん。

「オレ、なんでこんなメンドクサイ、厄介な人好きになっちゃったのかなって考えると」

 それは私のことか。

 むっとして顔をあげると、浅倉くんは笑って私の頭にキスをした。びっくりして頭に手をやって一歩退くと、また笑った。

「そういう諦めの悪いとこ見ると、オレ、ああもうしょうがないなあって、この人絶対、地球最後の日だろうと自分が幸せになれるよう何がなんでもツッパッテルだろうと思うと、たまらない気持ちになるんすよ」

「そんなのあた」

「当たり前じゃない」

 さらりと、それでいてこれ以上なくはっきりと断言された。

「すごく傷つきやすくて疑り深くて、なのにぜんぜん諦めてないんだなあって思うと、オレ、真面目に感動するっつうか」

「ウソ」

「うそじゃない。でも、恋愛だけは逃げる」

 あまやかな言葉の応酬を、彼はそこで打ち切った。身を凝らせると。

「いつでも自分を安全なところにおいて」

「そんなこと」

「来須の気持ちも、気づかなかったんじゃなくて気づきたくないから別の名前をつけて安心した」

 ズキリと胸が痛かった。目を背けたところを、視線がおってきた。

「オレのことも、そうでしたか?」 

 ここは正直にこたえるか。

「……好かれてたのは知ってたよ」

「ですよね。オレ、センパイが近くで寝てるときずっと眠れなくて起きてたし」

「でも、朝方はグーグーいってたよ?」

 それには、笑ってこくこく頭を揺らした。

 雑魚寝というのにいつまでも慣れなくて、かといってそれが嫌いというのでもなくて、右に左に寝返りをうち次々に眠りに落ちていくひとの寝息を聞きながら、寝たふりをして横になって目を閉じていると、部屋の外に出て行く二人組みの忍び足を耳にして、それが恋人同士でなかった場合には居心地の悪さになんとなく笑ってしまいたくなるような気持ちで、ああ、またアサクラ君もまだ寝てないなあ、と思ったりしたものだ。

 彼はお行儀よくやっぱり寝たふりでそういうカップルの姿を見送ってからむくりと起きて、こちらを見おろしてきたりした。私は目を開けて秘密を知るもの同士の顔でうなずきあい、彼がなにか言いかけるそぶりに気がつかなかったふりでそのまま、眠いのだというふうに目を閉じた。頬のあたりにその視線を感じ、すこし意地になって眠ったふりをしていると、起きてるんでしょ、と囁かれることもあった。そういうとき、それでも瞼をあげないでいると、諦めたのか、ぱたりと横になってこちらに背中を向けた。それから、妙に熱っぽいため息をつかれた。

 たまに、起きてキッチンにでも立とうものなら、すぐ後をとことこついてきて追い抜き、冷蔵庫からペリエを取り出した。緑色の壜をこちらにぐっと突き出すように向けて、私が受けとって蓋をあける間に、グラスに氷を入れてくれた。そして自分は水道水をごくごくと喉を鳴らして飲んだ。その度に動く喉仏が不思議で、私はグラスの縁に唇をあててその冷たさを感じながら、彼の横顔を見あげていた。

 あの頃からなんだかやさぐれていて、まだまだ頬が丸く可愛らしい新入生のなかで、浮いていた。隠れてタバコを吸っていたのを見つけて取り上げると、二十歳でやめるから勘弁して、と両手を合わせた。ぺこぺこ頭を下げるのがかわいくて、大学生だしべつに問題ないと思いながら散々おどして、約束を守れるか皆で賭けをした。

 本当にやめたのには驚愕した。男どもには疑いの目をむけられ異端審問のように執拗に責められて所持品検査をされた。それでも後ろ暗い所がひとつもないとわかると、ふかしてただけじゃん、と喫煙者からパッシングを食らい、一部の生真面目な女子たちにはえらいと称えられた。私のいないところでは堂々立派なスモーカーだったと知ったのは、皆がやめられないほうに賭けていたからだ。吸っているのはにおいで察していたけれど、それほどとは思わなかった。

 来須ちゃんと本人だけが賭けに勝って、焼肉屋さんで奢られて、歩けなくなっていた。

 私は、賭けなかった。局長権限を最大行使して施設備品管理局室を全面禁煙にしたのだから、さすがに賭けに乗る立場ではないと自重した。表向きは安全上の理由で、本音をいうと自分が苦手だったからだ。

 それなのに、酒井くんはわざわざあの部屋でタバコを吸った。やめてというと、肩をすくめて窓を開けた。まだ世の中、分煙という言葉さえ守られることなく、喫煙者が文字通りこれほど煙たがられる前のことだ。ふとしたときに髪や服についたタバコの臭いが鼻先を掠めると癇がたった。ヘビースモーカーとは付き合えないと、犬のような自分を笑った。

「センパイ、みんなで泊まった次の日の昼休みに、よく施設管理室で寝てたよね」

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