3月17日 7
「それ、なにかの隠ぺい工作?」
「なんでそういうこと言うの」
不審そうな、または怒りだしそうな気配が仄見えた。私はなんて失言の多いひとなんだろうと反省し、ごめんなさい、と頭をさげて謝罪した。彼はとくに気を悪くしたふうでもなく、謝ってもらわなくてもいいよ、と口にした。
ゲイだってばれないようにするとか、結婚しろとのご親戚の圧力とか、いろいろなことが頭を駆け巡ったけれど、けっきょく何も言えなかった。彼が、そのことをオープンにしていないと知っていた。それに、そういう思考パターン自体が構えのある、変に気をつかったいやらしいものだという自覚はある。でも、一度そういう経験をしたことがあると、このひともそうなのかなって予断をもってしまう。
大学のクラスメイトに、フランス語のよくできる、華奢な眼鏡をかけた、抜群にセンスのいい男の子がひとりいた。大多数の華やかな女の子たちからも、その影で地味にひっそりと生息する幾人かの男の子たちからも、浮いていた。
出会って半年もたったくらいのことだ。ときどきランチを一緒にしてもらえないかと頼まれた。べつにそんなこと頭下げて頼まれなくてもと笑って気軽に返したあと、でもどうして、と訊くとうつむかれた。他の学生に変に思われたくないという呟きが、ぽつんと落ちた。
なんの気なしに尋ねた自分がひどく思慮のない、浅墓な、愚か者だと思った。彼は彼で、利用してごめん、と頭をさげた。その首筋から頬のあたりまで赤かった。思い返すと、お互いにあまりにも不器用でどうしようもなく不躾だった。でも、もっと上手く立ち回りなさいよ、と過去の自分たちに声をかけようとは思わない。双方、妙に思いつめる生真面目な質だったから。
そんなわけで、おごるから、とつけたされた私は首をふった。男に奢ってもらうの嫌いなの、と言うと彼は目を大きくした。どうしてと訊かれたのが今度は自分で、納得のいく返答をもたなかったせいで、下心がイヤだとか男が女に奢らなきゃいけない謂れはないとかなんだとか、くだくだと意味のあるようなないようなことをくりかえした。それで、なんということなしに気まずい雰囲気がなくなったことにふたりして安堵した覚えがある。
今も、なんとなく、あのときと似た感じがある。私はたぶん、ミズキさんに対して身構えている。ゲイであると告白されたせいで、自分勝手にイメージを作り上げてしまっているらしい。たいそう厭らしいことだ。
「今さらだけど、僕は女性も好きなんだよ」
なんだかとってつけた感じだった。私がそう感じているとむこうも悟って、自身を茶化すような、嘲笑う口調でいいついだ。
「僕が大学を中退したのって、女の子にふられたせいでね」
「DJにハマッタせいじゃないの?」
たしか、東京芸大の箏曲科というところだとこないだ教わった。
「それは表向きの理由。ふられて大学辞めたんじゃカッコつかないよ。もっと言えば、その子のほうが僕よりずっと才能があって三味線も胡弓も素晴らしくて、何より花が咲くみたいな音が出せて、天狗になってた自分が馬鹿らしくなったせい」
これは、私を慰めようとしているのだろうかといぶかしむ。ミズキさんは、今はもう足を崩してあぐらをくんでいた。それからちょっとだらしなくテーブルに肘をついて何処か遠くを見やる視線で告げた。
「その彼女が離婚したいってこないだ僕のところに連絡してきて」
話しが見えなかった。こういう話し方をするひとだとは思っていなかったので、焦る。
「CD何枚も出して海外公演にも行ってるみたいで、あの頃、パンプスなんて履いてなかったのに」
これはもう、聞くしかない。なるほど、彼の調子がおかしかったのはその、〈運命の女〉のせいか。それは言い過ぎかしら。でも、ちょっとゴシップはいった気分で聞いてしまう。
「ほんとに好きだったんだよね。もう、手も握れなかったくらい。それがさ、いきなりホテルに呼び出されて離婚したいって言われて泣かれても、こっちはどうしたらいいのかわからないよ……」
もの思わしげに、声がそこで途絶えた。
それってもう、その女のひとはきっと、ミズキさんに助けてもらいたい、つまりはミズキさんと一緒になりたいっていう意思表示じゃないのかしら。そこまでじゃなくても、まあ、甘えたいというか。
「そうね。たしかに、付き合わなかったひとのほうがよく思い出すってことあるよね」
「それは君がいつでも理性に従って、面白くない男のほうを選んでるからだよ。だいたい浅倉とつきあわなかったっていう時点で、君って自分のことよくわかってないなあっていう気がするもん」
もんって、なに? というかその言い方ってけっこう気に障るんだけど。
「ミズキさん、ボケっちぃの浅倉くんよりその女のひとのことを真剣に考えたほうがいいんじゃない?」
「浅倉はボケじゃないよ」
何も知らないくせに意見をするなと叱られるかと思いきや、意外なところにひっかかる。きりっとした反論に、こちらも相応の返答をする。
「そうかな。一年以上いっしょに住んで、ミズキさんの気持ちに気がつかないなんてのは、ボケっていうよりちょっとアブナイひとだと思うけど」
ミズキさんが深いため息をついた。それ見なさい。浅倉くんは妙にはしっこいようで変なとこ、鈍感なのだ。なにしろ私に彼氏がいると気づかずに告白してきた前科がある。
「姫香ちゃん」
彼は顔をあげて、こちらをまっすぐに見つめてきた。
「本当に、ここに住む気はない?」
「なんでそんなこと言うの」
「姫香ちゃんと一緒にいたら楽しいから」
「あのねえ、子供じゃないんだから住みましょうっていって住めるわけないでしょ」
お泊まり会とは違う。いくらルームシェアが流行っているといっても、男ふたりとは抵抗がある。いや、そうじゃないか。はっきりいえば、このひとたちとはイヤだ、が正解。
「じゃあ僕と結婚して」
じゃあってなんだ。じゃあ、って。まったく。甘えた口調に私がキレた。
「ミズキさん、なんなのその意気地のなさは。そのひとからまた逃げる口実なの?」
怒るかと思ったのに、彼は傷ついた顔をした。いけない。失敗した。
「……そうだね。ごめん」
彼は前髪をかきあげて、立ち上がる。
「ご飯、つくるよ。好き嫌いはない? 若狭グジが届いたんだ」
「ミズキさん」
立ち上がりかけたところを、肩に手をおかれた。
「座ってて」
「私」
「いいから」
優しい、言い聞かせるようなテノール。
独りになりたいという意味だと受け取って、そこに座りなおす。磨りガラスの引き戸が音をたてて閉まるのを背中で聞いた。
きっと、昨日今日は厄日に違いない。
私も両肘をついて、ため息をついた。これから一体、どうなるんだろう。どうなるじゃなくてどうすると考えなさい、というひとがいるけれど、それは私の生理じゃない。
あ。
うそ。
なんか今、変な感じがした。
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