硝子玉の春

@erena

第1話

ホー、キョキョッ!

ウグイスの声が、澄んだ空気によく響く。

由衣は自転車のペダルを少し強めに踏んだ。長い黒髪が風にそよそよと靡く。四月上旬の朝はまだ少し寒い。麗らかな日差しが由衣の顔を照らした。

高校生。


思っていたほど、ワクワクしなかった。



楽しかった中学生活を終え、高校生にあがったのが二週間ほど前。塾の教師は言った。


「高校生活は中学の時より、必ず楽しいものになる」と。


色んなところに遊びに行けるし、部活も本格的なものが多くなる。なってみるとその通りだった。しかし楽しい、と言われると違う気がする。




大人しい、とよく言われる。小学生の時はハキハキと自分の考えを言っていた由衣だが、それもあることをきっかけに止めた。人に合わせる、ということを覚えたのだ。自分から意見を言うことは苦手、手を挙げることもない。ただ誰かが出す意見に賛成する。自分から知らない人に話しかけることも少ない。

くだらないと思われても構わなかった。由衣はそれで平穏な中学生活を送れたのだから。


しかし、高校でそれが仇に成ろうとは思いもしなかったのだ。



由衣が受かった高校に、同中の仲間は一人しかいなかった。クラスの人もすれ違う人も、同じ通学路の人も。誰も彼もが初対面。

別に仲間外れにされているわけではない。皆優しいし、気を遣ってくれる。しかし、周りがどんどん馴染む中、誰にもまともに話せなかった由衣は、クラスの中で“クラスメイト”以上の人を作れなかった。

由衣は、一人ぼっちになった。





「淺原さん、このプリント田部さんに渡してくれる?」

そう言われて由衣は我に返った。昼休憩に入ってすぐのことだ。違うクラスなのだろう、ドア近くの席の由衣に身を乗り出すようにしてそう頼んできた女の子に、由衣は慌てて何度も頷いた。

「ありがとう、じゃあよろしくね!」

「うん」

短い返事に愛想笑いを浮かべ、女の子は廊下を走って行った。由衣は渡された紙を見る。


  ーー全国高校生絵画コンクールーー

頑張れ、真奈ならよゆーだよ!


大きくプリントされたその文字の横に、小さく手書きの丸文字。多分さっきの女の子だろう。全国高校生、絵画?

田部さん、絵を描くの上手いのかな。

首をかしげた由衣は紙を持って立ち上がった。

バン、と扉が開く。

「淺原さん!ついでに頑張れって言っておいて!」

「わっ、…あ、うん…。」

それを言うために戻ってきたらしい、先程の女の子に、由衣は体を椅子から浮かせたままコクコクと頷く。

ありがとー、と笑いながら廊下を戻るその子を見送りながらホッと息をついた。


大人っぽいように見えたけど、意外とおてんばな人なのかもしれない。



クラスの人の名前はまだ全員覚えられてないのだけれど、田部さん、という人はすぐにピンときた。

田部 真奈。

まーちゃん、と呼ばれていた。明るい性格で、一週間もしない内にクラスの人気者になった“まーちゃん”は、由衣にとって要注意人物でもある。

権力のある子に嫌われたらまずい。その時点で高校生活一年目は終わったも同然だ。


由衣は深呼吸すると、今度こそプリントを渡すべく立ち上がった。


「あの、田部さん。プリント持ってきたよ」

他の子と喋っていた真奈が、ん?と振り返った。

「…あ、晴のあれね。ありがと、由衣ちゃん」

「うん。…田部さん、絵描くの?」

さっきの子は晴というのか、とぼんやり思いながら、由衣は興味本意でそんなことを聞いた。どうせ席に戻っても一人で暇を持て余すだけだ。これで真奈と仲良くなれれば万々歳だけど。

ふとそんな考えに至り、由衣は自分の図々しさに嫌気が差した。

「うん、…描くよ。まともじゃないって親には言われるけどね。」

カラカラと真奈はおどけるように笑って見せる。へー、と周りの子から歓声があがった。周りから好かれるのも納得だ。由衣は、そうなんだ、とだけ、返した。

絵を描く、というのは意外だったが、しかしそれは由衣の中で“意外”以上の何物にもならなかったからだ。

由衣は歩いて席に戻った。

クラスはいつも通り騒がしくて、由衣は机に突っ伏して、緩やかに流れる時間を待つ。

ホー、キョキョッ!

何処かでウグイスが鳴いた。



帰り道途中にふと思い付いて寄り道をした。自転車を降りて数分、由衣はサクサクと草を踏みしめながら歩く。元々田舎にある由衣の高校は、山に入る道が幾つも道路沿いに隣接している。その気になれば、散歩気分で散策することも出来るのだ。

少し曇ってはいるが良い天気だった。由衣はあちこちを眺めながら上に上に登る。そんなに高い山じゃないから、もうすぐ頂上だろう。

少し疲れて、由衣は大きく深呼吸した。キンと張りつめた空気が喉を通り、肺を冷やす。

あせびが咲き乱れ、風が木々を揺らす音だけが耳を支配している。





ーーいや、それだけではない。川の清流が聞こえる。木々の葉を潜り抜け、日差しが道を照らしては陰らせる。熊笹がガサガサと鳴り、何かが通りすぎる。狸か鹿か、それとも熊だったりもするんだろうか。


様々な音と色に支配され、由衣はその全てがグルグルと回りながら自分に迫ってくるような感覚に浸る。光と笹の緑が混ざる、清流と木々が一心同体となりリズムを奏で始める。



ーーカチャリ。


突然明らかに、自然のものではない、プラスチックが擦れるような音がした。音と色の中でたゆたっていた由衣は、誰かに見られているのかと急いでそちらに目をやる。

カチャカチャと音は続く。どうやらこちらに気が付いてはいないらしい。

由衣は安堵の息をつきながら上を眺めた。多分、もうそう遠くない頂上から聞こえている。

誰が上にいるのか気になった。

「…よしっ!」

一人小さく気合いを入れて、由衣は残りの山道を駆け登り始めた。





「あれぇ!?由衣ちゃんじゃん!」

目を真ん丸にして叫ぶその子に、此方もゼイゼイ息を吐きながら目を真ん丸にした。 


頂上に居たのは制服を腕捲りした真奈だった。小さな椅子に腰掛け、パレットを無造作に地面に置き、そして立て掛けられたキャンバスに向かっている。先程のカチャカチャという音は、パレットと筆が当たった音らしい。顔に緑と青の絵の具がついていた。

由衣の中で、今日学校でした会話と、今の状況が重なる。


「ここで、描いてたんだね。」

言ってから、先にあいさつした方が良かったかな、と思い直した。しかし真奈の方はそんなことお構い無しといった呈で、そうそう、と笑う。

「ここ綺麗でしょ?なんかこう、ザ、自然!みたいな感じでさ。捗るんだよね。」

由衣は興奮して頷いた。そして初めて、真奈の絵画の趣味が自分の中で“意外”以上のものになった気がした。

由衣も自然が大好きだった。だからこそこうして足を運んだのだ。真奈もそうなのだと思うと、由衣は嬉しくて嬉しくて仕方なかった。

「そう、すごく綺麗。光と草が遊んでて、川は自由に歌ってるでしょ。私そういうのが凄く好きで…」

そこまで言ってから、我に返った。

「…遊ぶ、歌う?」

真奈は首をかしげる。由衣はどんどん顔が赤くなるのが分かった。と、同時に、自分のコンプレックスになっている出来事が鮮やかに頭の中で思い返され、膨らんでいた気持ちがスッと収まった。

「…ごめん」

掠れた声で、それだけ返した。血が頭からどんどん下っていく気がした。立ち眩みがして、由衣は倒れるまいと俯き必死に目を見開いて、視界が元に戻るように専念した。自分でもおかしい表現だと分かっている。しかし他人にそれをさらけ出してしまったのは久しぶりだった。由衣は真奈がおかしそうに笑うのを待っていた。

「なんで?いいじゃん、それ!」

予想外の態度にえ、と間抜けた声があがった。それが自分のものだと気が付くより早く、由衣は問い返していた。

「だって、変じゃないの?」

「変じゃない変じゃない!良いよそれ、詩人みたいで格好良いね!」


由衣ちゃんもっと常識に縛られた感じの人だと思ってた!


真奈はそう言ってカラカラと笑った。由衣はポカンと立ち尽くす。そんな風に言われたのは初めてだった。親にも友人にも、常々変わっている、と言われ続けてきたのに。

真奈は由衣の視線に気付くと、ニッと此方に笑いかけた。


「意外だった」




こっち来なよ、と言われて、由衣はおずおずと真奈の隣に座る。

「本当に変じゃない?」

「変じゃないって!しつこいー!」

しつこい、と言う言葉に少し動揺したが、当の真奈は満面の笑みで由衣を見ていた。由衣もつられて笑った。真奈はそれを見ながら、ふと呟く。

「…ていうかね、私も似たような感じなのよね。」

どういうことだろう。真奈の話すところは何度か聞いているが、自分のように変わった表現は見られなかった。それとも真奈も、その話し方を隠しているんだろうか。由衣がどう返事をしたものか迷っていると、見なよ、と真奈は持っていた筆でキャンバスを指した。

何気なくそれを見て、由衣は言葉を失った。


そこには、頂上からの景色そっくりの絵が描かれていた。見下ろせる校舎、芽吹き始めた新芽、生き生きとする木々。輝く太陽。精々学校の机ほどしかないキャンバスだというのに、そこには深い奥行きがある。

しかし由衣が驚いたのはそこではなかった。

本来ならば初々しい緑の新芽は、キャンバスの中で花のような赤に変わっていた。校舎も、灰色ではなく空のような青色。太陽は薄い緑、木の枝は根本から枝先にかけて灰色から白のグラデーションになっている。

どう?と真奈は笑った。

「お母さんも友達も先生も、おかしいって言うんだけどね。魂の色、とかって言えば良いのかな。鮮やかで綺麗で…好きなんだ。」

真奈は笑う。キャンバスに向けられるその視線には、純粋で澄んでいた。


由衣は信じられなかった。キャンバスの中で、確かにそれらは美しく、そして確実に息をしていた。全てが生き生きと、思い思いに個性を発揮していた。

しかし。


「…普通じゃ、ないじゃん。」

嫌われたらまずい。そんなこと構っていられなかった。キャンバスに向かっていた真奈の視線が由衣に移る。それは先程のように澄んではいなかった。

由衣は拳を握りしめる。冷たい感情が沸き起こっていた。何故か分からないが、真奈に全てを否定された、そんな気分になった。

普通じゃない、と由衣は繰り返す。

「…新芽は緑だよ。校舎は灰色でしょ?木だって茶色だし、こんな風に色が薄くなったり濃くなったりはしないんだよ。」

由衣はそこまで言って、初めて嫌われたらまずい、というのを思い出した。真奈は一瞬、どうしようもない、と言うように視線をさ迷わせた。

由衣もどうしようもなかった。


暫く沈黙して、真奈は急にふっと笑った。

「…だよね。よく言われるもん。」

自分から言ったこと。しかし由衣は、それを否定したくなった。


重い沈黙が二人の間を流れる。しかしそれはこの山の中で、本当に二人の近くにしか漂っていないようだった。周りは先程と同じように、由衣が大好きな川や葉の擦れ合う音がしていた。


ホー、キョキョッ!


ウグイスが、鳴いた。





次の日、由衣は学校を休んだ。熱がある、と親に嘘をついて。

「安静にして、ちゃんと寝るんだよ。」

それだけ言って、両親とも家を出た。


外は雨が降っていた。シトシトと響くその音を窓越しに聞きながら、由衣はぼんやりとリビングに向かう。


あの後、ろくに話もせず二人は山を降りた。

「また明日ね。」

別れ際、そう言う真奈の顔はいつも通り明るかった。由衣もいつも通り静かに、「うん」とだけ返した。ふと見上げると、山だと思っていたそれは、どちらかというと丘に近かった。


由衣は自転車を押しながら帰った。




テレビをつけてみたが、由衣が好きそうな番組はやっていなかった。

名も知らない芸人が何か言うのを聞きながら、由衣はソファに深く腰かける。机の上に、冷めたお粥と、すぐそばに走り書きの字で“お昼に食べてね”というメモが置いてあった。

「卵でもかけようかな。」

試しに由衣は声に出してそう言ってみた。そうすることで、少しは明るい気分になれないかと期待した。

──しかしその声は、雨と騒がしいテレビの音に混じって、無機質な部屋に寂しく響いた。

由衣はため息をついて背もたれに身を預ける。

テレビの中で、『凄いですネェ!』と先程の芸人が、何かの商品を誉めちぎっていた。

なにが凄いのかは、よく分からなかった。




ピン、ポーン。


インターホンの音に由衣は飛び起きた。いつの間にか昼を過ぎている。どうやら寝てしまったらしかった。

走って玄関まで行ってドアを開ける。そこに、昨日プリントを渡してくれと頼んできた子が立っていた。晴ちゃんだ、とまだ寝ぼけている頭のどこかで思った。

「由衣ちゃん、だよね。私、分かる?礒野晴っていうの。昼休みだから忘れ物取りに行くついでに寄ったのよ。これ今日の宿題と手紙ね。」

晴はハイ、と笑顔でファイルに入ったそれらを渡してきた。

ありがとう、と言いながらそれを受け取って、由衣は上目遣いに晴を見た。昨日のこと、真奈ちゃんはこの子に話してないんだろうか。そんな考えが頭を掠めた。

暫く適当に話に相づちを打ちながら晴を見つめるが、やがてどうやら知らないらしい、という結論にいたる。晴からそんな話題は出てこなかった。

「私ん家由衣ちゃんの家に近かったんだね。由衣ちゃんのクラスの担任が頼みに来たよ。びっくりしちゃった。」

晴は目を見開いて、いかにも驚いたような表情をつくる。由衣は愛想笑いを浮かべることしか出来なかった。それから晴の話が途切れたのを見計らって、こう聞いた。

「晴ちゃんて、真奈ちゃんの絵のこと知ってるの?」

晴は一瞬目を丸くした。それから少し間を開けて、知ってるよ、と返してきた。

由衣は晴が変わってるよね、と言うのを想像した。そう願った。


「綺麗だよね。」


しかし、晴の口からはそんな言葉が出た。 

由衣は黙りこむ。晴の顔を見れば、それが嘘でないことくらい分かった。

「由衣ちゃんも見たんだね。良いよね、あんな絵がかけるなんてさ。」

そうだね。凄いね。

そう言わなければならない。先程の芸人の顔が思い出される。『凄いですネェ!』という大袈裟な声と共に。


「…そうかな。」


そう呟いた由衣に、晴は首をかしげた。

それから、あー、と納得したように頷いて、苦笑いした。

「確かにね、色使い独特だよね、真奈は。私も初めて見たときはびっくりしたもの。」

由衣は俯いて、それを黙って聞いた。真奈と晴に申し訳なくて、まともに顔を見られなかった。晴はその様子をじっと見て、それから「でも」と話を続けた。

「なんか側にいて分かったのよ。真奈は自分の価値観を大切にしてるんだ、って。」

「価値観?」

そう、と晴は頷いた。

個人個人の価値観って皆違うでしょ、と。

「同じものを見てても、同じものを聞いてても。それぞれ違う感想を抱くでしょ?でも誰かがこうだって言うと、後は皆その意見に賛同する。他と違うって怖いから、仕方ないと思うんだけどね。」

私もそうだもん、と晴は笑う。あなたもでしょ、と聞かれて、由衣は戸惑いながらも頷いた。やっぱり、と晴は笑う。


「大抵そうだよね。…けどさ、真奈は違うの。ちゃんと言いたいこと言うし、誰かと意見が違うのもしょっちゅうよ。けど本人ではそのことを気にしてないの。」


由衣はそれを聞きながら、昨日何故自分が真奈に否定されたか分かった気がした。晴は最後に言った。


「それってとても凄いことでしょ」


由衣は力強く頷いた。

そう、真奈ちゃんは凄い。




学校が終わったのを見計らって、由衣は家を出た。まっすぐに自転車で、昨日のあの山を目指した。


カチャカチャと音が聞こえている。真奈はもう来ているのだと分かると、急に息が苦しくなった。やっぱり、帰ってしまおうか。

迷って暫く行ったり来たり、結局決心を固めて山頂に向かった。昨日のことを謝ろう。謝って、そして伝えよう。自分が悔しかったこと、中学にあったあの事件も。


「あれ、由衣ちゃんじゃん。」

昨日ほど驚いてはいなかったが、真奈は似たような口調でそう言った。昨日のキャンバスに、昨日と同じような体制で向かっていた。

熱はもういいの?と聞かれて、由衣は慌ててうん、と頷いた。

それから思い直して、

「…嘘だから」

と呟くように言った。真奈は一瞬目を丸くして、それからそうなんだ、と笑った。

真奈も晴もよく笑うんだなと冷静に考えながら、由衣は乾いた唇を舐めた。

「…昨日のこと、謝りに来たの。ごめんね。」

あー、あれ?と、真奈はおどけたように言った。

「良いよ別に。しょっちゅう言われるもの」

「良くないよ」

良くない、と由衣は繰り返しながら首を振った。良くない。それは由衣が自分に言い聞かせているのでもあった。真奈は良いって、と言いながら困ったように笑う。

それから少し黙って、キョロキョロした。

「あ、…あそこ。」

由衣は真奈が指差した方を見る。少し視界が開けて、なだらかな丘になっているところだった。真奈はパレットを閉じながら由衣に笑いかける。

「休憩。ちょっと座ろうよ。」

うん、と由衣は頷いた。真奈はずっと昨日も見た椅子に腰掛けていたけれど、それについては言わなかった。



「私ね、小学校の頃はこんなんじゃなかったの。」

二人で足を投げ出して座って、由衣はそう切り出した。

「結構なんでもハキハキ言えてたし、人と違うことなんか、気にならなかったの。」

だけど、と由衣は拳を握る。声が少し震えた。

「中学にあがってすぐね、言われたの。言葉の使い方がおかしいって。」

川は歌ったりしないし、草も光も遊んだりはしない。クラスの皆だけでなく、作文を見た教師も親もそう言った。

急に怖くなったの、と由衣は自白する。

「みんなと違うってことが怖くなったんだ。仲間外れみたいな感じがして。」

そうなんだ、と真奈は呟いた。由衣は少し気持ちを落ち着かせてから、だからね、と一番言いたかったことを切り出した。


「真奈ちゃんが“人と違う”ってことを全く気にしてないのが、羨ましかったんだと思う。それで、自分が否定されたように感じたの。」




真奈は、そうなんだ、とだけ繰り返した。

由衣は深呼吸して息を落ち着かせる。誰かにこんなことを話したことは今までなかった。自分がそれを恐れているのを、知られたくなかったのだ。

由衣は丘から先程真奈が居たところを見下ろす。キャンバスは日差しを浴びて色彩鮮やかに輝いていた。真奈は黙って由衣を見た。

「…凄く、綺麗。真奈ちゃんの絵。…びっくりした。」

改めて昨日言えなかった感想を伝えると、真奈は満面の笑みを浮かべる。

「真奈で良いよ。」

よろしく、と差し出された手に一瞬たじろいで、由衣はそっとそれを握り返した。


「…よろしく、…真奈。」


「よろしく、由衣!」


ホー、キョキョッ!

ウグイスが鳴く。

二人は急に可笑しくなって笑い始めた。草原に体を投げ出して、手足をばたつかせながら、日が暮れるまで笑い続けた。







由衣は一人、教室の前に立っていた。朝のホームルームの直前、既にほとんどのクラスメイトが集まっている。ドア越しに聞こえるざわざわした話し声に、由衣はゆっくりと深呼吸した。


 変わる。自分は変わらなければならない。それは真奈との約束であり、自身への挑戦であるのだ。

自分の思ったことをそのまま言うのが、どれだけ難しいことか、由衣も分かっていた。当たり前のように出来ていた前と、無難、傍観者の立場を知ってしまった今、その違いは大きい。

だが、それがいくら楽だからと言って、このままで良いと感じたことなどないのだ。


──変わりたい。


由衣は勢いよくドアを開いた。


パッと射し込む日の光。若草の匂いが、鼻孔をくすぐる。周りの視線が、ちらりと由衣に向かった。


「…おはよう。」


シン、とクラスが静まり返った。普段は黙って入る由衣だから、無理もない。戸惑うようにちらちらと目線を交わすクラスメイトを、由衣は息を止めて見つめていた。


「おはよう。」


不意に声があがった。一斉に視線が向かったその先に、真奈が笑顔で立っていた。驚く周りを満足げに見回して、真奈はもう一度声をあげる。


「おはよ、由衣」


固まっていたクラスメイトの内、一人が「おはよう」と小さく言った。

続いて、別の声が「おはよう」と少し大きな声で言う。


おはよう、おはよー、おはよう!


最後は“おはよう”の合唱になり、どこからともなく拍手が沸き起こった。


「由衣ちゃん、おはようって言うの初めてじゃない?」

「おはよー由衣ちゃん!」

「こっちおいで、話そうよ」

クラスメイトの一人が言って、手招きをした。由衣は戸惑って、頬を真っ赤にして真奈を見る。


──私は、変われたんだろうか?


由衣の視線だけの問いかけに、真奈は大きく頷いた。

「一緒に話そう」

もっと色々なことを話して、もっと色々なことを体験しよう。

由衣は机に鞄を放り投げて、皆の元に走った。


















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