アフターグロウ  レベル1 目覚め

羽風草

1 兆し

 高校に通い始めて二年経っても、通学路のこの場所が苦手だ。信号待ちでいやでも人が溜まる場所だから。

 下校途中の常川直人は、あいかわらず間の悪い信号に苛立っていた。早く家に帰って店を手伝いたいのもあるが、人の中というのがたまらなく嫌だ。黒い髪の群れの中で、自分の赤い髪はどうしたって目立つ。

 ここから逃げたい。オレを見るなと叫びたい。

 すこし離れた所で女子二名がくすくす笑っている。すぐ後ろで誰かが咳払いをした。わかってる。自意識過剰だ、気にするな。そういい聞かせながらキャップを目深にかぶり直した。キャップは便利だ。髪も隠せるし、合わせたくない目から逃げられる。あとは信号が変わればいい。人の間をすり抜けて走っていけば、あとは平気だ。

 対向車線側の歩行者専用信号機が点滅をはじめる。もうすこし、あとすこし。

 ふいに視界の隅で、水色がよろけて車道へ出た。ダンプのクラクションが怒鳴り声を上げる。

 違う。水色の園児服を着た小さな子供だ!

「うわっ!!」

 思わず水色の端をつかんで胸に抱きこみ、目前に迫っていた太いタイヤに身を縮めて転がる。小さな頭を包んだ腕がコンクリに擦れた。熱い。

 鼓膜が痛いほどのクラクションとタイヤの悲鳴と人の悲鳴。つい顔を上げると、タイヤの溝までくっきり見えた。

 オレ、死ぬのか。

 緊急事態なのに、寝ぼけたようにぼんやり思った。

 死ぬのか、ここで。

 目をぎゅっとつむった時、もっと奥のほうでなにかが身じろぎした。

 どこかが総毛立つ嫌ななにかが。

 すべてを切り裂く牙と爪を持つなにかが――獣だ。

 眠っていた獣が起きた。起きてしまった。

 え? 獣なんて居たか?

 背中のすぐ後ろをうなりを上げてタイヤが通っていき、自分でもよくわからない思いは衝撃に消えた。

「ばかやろう、死にたいのか!!」

「みのり!!」

 運転手の怒鳴り声と人ごみから上がった母親らしい声に、直人は我に返った。

 腕の中にいた女の子が頭を上げる。子供はまんまるな瞳をしていた。

 ああ、オレ生きてる……。

「みのり、みのり!!」

「ママ!!」

 人ごみから出てきた母親が、駆け寄る子供を抱きとめる。直人は腰が抜けたようにへたりこんだまま、ぽかんと親子を見つめた。

「兄ちゃん、よくやったな!!」

 人ごみから声が上がる。信号待ちしていた人たちを含め、たくさんの通行人が直人を見ていた。

「大丈夫か」

「怪我は」

「そんな頭してても、やる時はやるんだな」

 頭と言われて、ぼんやりと考えた。頭ってなにが。頭に手をやり、髪の感触に青ざめる。

 見られたくない髪を見られていた。それもこんなにたくさんの人に。

 直人は周辺を見渡したが、愛用のキャップは飛んでいったらしく、どこにもない。

 たくさんの視線に、逃げだしたい衝動が一気に突き上げた。身体の節々が痛んだが、痛さにかまう暇はない。直人は自分の荷物を手早く拾う。

「そ、それじゃオレ、急いでるんで」

「あっ、待って!」

 直人は立ちあがるなり駆けだした。車道を横切り、いつもの道ではなく横道を目指して。



 道に面している部分はほとんど窓で、店内の観葉植物により温室にも見える喫茶店『グリーンフォレスト』。両親がいない今は姉が厨房を担当し、住み込みの吸血鬼がひとり、ホールを担当している。

 直人は店の看板が出ていることを確認して、店の裏手へ回った。家の玄関がそこにある。こじんまりとしたガーデニングにはやわらかな午後の光が当たり、花が揺れていた。

 息が上がって胸が痛い。でも逃げおおせた。あの視線もここまでは来ないだろう。息を整えると、ドアを一気に開けた。 

「ただいま!」

「おかえり、直人。息切らしてどしたの」

 玄関から続く店の厨房から、姉の元気な声が上がる。明朗な声に、直人はそこでやっとほっとした。

 事故のことは内緒にしておく。唯一の家族が知ったら怒られるか悲しませるだろうから。

「別になんでもない。今行くから」

「宿題してから来なさいよ」

「今日無いよ」

 いつものように返事をして、自分の部屋に飛び込んだ。だいじょうぶ、バレていない。

 学ランを脱いで、店の制服に着替える。白いシャツと緑のタイに緑のエプロンをかけた。グリーンフォレストの洗い場担当の姿になる。洗面所で肩にかかる髪を縛り直す。家では髪を隠す必要はない。手を丁寧に洗い流し、水を一杯飲みした。

 よし。

 店に行くと、姉の奏が鍋から顔を上げて笑顔を見せた。直人も笑い返す。

「姉ちゃん、お待たせ」

「帰ったばかりだし、ゆっくりしてきていいのに」

「オレは店のほうがゆっくりできんの。それに姉ちゃんひとりじゃ大変だろ」

「大丈夫だよ。でも直人に手伝ってもらえるのはうれしい」

「へへっ」

 直人は店に出るのが好きだ。家業を助ける充実感はもちろん、姉の役に立てるうれしさもあるが、じつは姉を堂々と独り占めできる場所だからだ。美人で小柄で器量よしの姉に、商店街の親父達の間に隠れファンクラブがあることを知ったのはつい先月。姉のモテっぷりは弟としても頭痛の種になっている。

 ただでさえ邪魔者がいるというのに、これ以上変なモノにつきまとわれては迷惑この上ない。

「じゃあ洗い場に入るから。一輝じゃ無理だし」

「無理だな。むしろしたくない」

 カウンター裏の洗い場に立つと、その邪魔者が使用済みの皿を脇に置いた。直人は袖をまくりながらくすくす笑う。

 うす茶色の髪と瞳、整った顔と細い身体。レジに立っているだけで女性客が来る。名前は真田一輝。すこし変わった吸血鬼で、噛みついて血を吸わずに、指先から生気《エナジー》を吸う。十字架や太陽は平気なくせに水が大の苦手。これだけは直人がただ一つ、一輝に勝てる点でもある。

「情けねえの」

「黙って働け、ガキ」

「へいへい」

「奏さん、三番にデザート。バニラです」

「はいな。飲み物は」

「ブレンド。こっちで出します」

 一輝は手際よくカップを取り出し、コーヒーを注いでいく。慣れたもんだ。その姿に、直人は内心舌打ちした。こいつが来る前はオレの仕事だったんだけどな。まあいいや、一輝なら譲ってやる。

 三年前、初対面の直人に突然喧嘩をふっかけてきたくせに、どういうわけかそいつは今、ここに住み込みで働いている。当時、経営戦略だという奏に直人は大反対した。しかし雇ってみると客足が格段に増えたため、さすがの直人も一輝効果を認めざるを得ない。それに味にうるさい一輝のブレンドしたコーヒーは、評判がいいのだ。

「オレも飲みてー」

「仕事のあとにな」

「やたっ」

「だから今はきっちり働け」

 一輝はそう言うと、トレイに受け取ったアイスとコーヒーを乗せた。喧嘩をふっかけてきた時は最低なヤツだと思ったが、つきあってみると結構イイヤツだ。直人のどんな相談でも適当ににごさず、聞いてくれる。

 ふと一輝の視線を感じ、直人はきょとんと見返した。

「なんだよ。行けよ、アイス溶けるぞ」

「直人。家に戻れ」

「なんで」

「右腕の手当てしてこい」

 言われて直人は右腕の外側を見た。見事な擦り傷から血がにじんでいた。なんとなく痺れているだけで気にも留めていなかったが、たぶん帰り道にやったんだろう。

 奏が横から顔を出してきた。

「どうかしたの」

「なんでもねえよ」

 奏に見せたら心配をかけさせる。それだけはしたくない。

 直人は右腕を隠した。しかし手首を取られてしまった。

「直人、どうしたのコレ!?」

「ちょっと。その。転んだ」

「ちょっとの傷じゃないでしょう! ほらおいで! 一輝くん、ちょっとの間だけお店お願い。私、直人の手当してくる」

「姉ちゃんいいよ、大丈夫だって。オレ一人でできるってば」

「きちんと手当しないと化膿しちゃうでしょ! ほら来なさい!」

 直人は一輝の苦笑に助けを求めながら、引きずられるように厨房を後にした。



 居間のソファーに腰を下ろし、直人は怪我のいきさつを話しながらおとなしく手当を受ける。奏は慣れた手つきで包帯を巻いていった。昔から直人が怪我をしたら奏が手当し、直人が空腹を訴えたら奏がおやつを作った。

 奏は直人の話に心配するようすはなく、逆にうれしそうに聞いていた。

「これでよし、と。それで、その子は」

「たぶん怪我してないと思う。親のトコに走ってったから」

「そうかあ。良かったね、直人」

「うん」

 子供が無事で本当によかった。今になって心から思う。

「じゃあ脱いで」

「うん。……え!?」

 直人は動揺し、赤い髪もそれに合わせてゆらめいた。留めていた髪ゴムが弾け飛び、ライオンのたてがみのように広がる。直人の髪は感情が高ぶると勝手に動いてしまうのだ。集中すれば伸縮自在だが、とっさのときには制御できなくなる。たとえば、今のように。

 髪を乱しながら赤面して聞き返す弟に、姉は当然といった顔で弟のシャツの裾に手をかける。

「転がったんでしょ。腕がこれなら、背中も怪我してるかもしれないじゃない。早く脱ぎなさい」

「いや、いいよ! 痛いところはないし!」

「だめ! ほら早くしなさい! 時間ないんだから」

「姉ちゃん、もういいってば! 時間ないんだろ、店戻っていいよ」

「直人の怪我のほうが大事なの! 言う事ききなさい! 脱いで!」

 床に転がって逃げようとしたところで、手がシャツを捕らえてめくろうとする。阻止しようとシャツを押さえた時、上に覆い被さってきて羽交い締めにしようとする。

 ノックの音がして、ふたりは動きを止める。

 ドアが開いて、レジ担当が顔を出す。

「奏さん、客は全員帰……」

「一輝!」

「一輝くん!」

 床に半脱ぎの弟を押し倒す姉に、居候は表情を変えずに尋ねる。

「止めるべきか? 手伝うべきか?」

「止めろ!!」

「手伝って!!」

 姉弟は同時に叫んだ。



 客のいない店で、背中に湿布を貼られた直人は洗い物を片づけていた。奏はテーブルを拭き終え、直人の前に腰を下ろす。

「でも直人、すごいわねえ。そんなドラマみたいなトコ、姉ちゃんも見たかったなあ」

「もういいって」

「だって飛び出した子を身を挺して守るなんてカッコイイじゃない! そんな人見たら、姉ちゃんだったら惚れちゃうかも」

 すすいでいた皿が洗い桶に勢いよく滑り落ちた。髪ゴムで縛られた赤い髪が束縛を抗いはじめる。

「バカじゃねえの、そんなヤツいねえよ!」

「目の前にいるじゃない」

 拾った皿がふたたび落ちる。

「直人に惚れちゃったらどうしようね、姉ちゃん。結婚する?」

 髪ゴムが切れた。

「姉ちゃん!!」

「冗談だよっ。血はつながってなくても弟だもん、結婚なんてねえ」

 笑い転げる奏を横目に、直人は真っ赤になってポケットから新しい髪ゴムを出した。いちいち縛らなければならない、勝手に動く忌々しい髪だ。

 奏の言うとおり、姉弟でも血はつながっていない。直人は捨て子だった。赤ん坊の頃に段ボールに入れられてたのを奏に拾われたのだ。

 奏とずっと一緒にいた。両親が死んだあともずっと守られていた。

 いつからだろう。奏を誰にも渡したくないと思うようになったのは。こんなに欲張りになったのは。

 とうの昔から、オレのほうが姉ちゃんに惚れていた。姉ちゃんとキスする夢を見て気づいた、自分の心。

 あんな事故じゃなくても、姉ちゃんがとんでもないことでピンチになった時、オレは絶対に助けに行きたい。犯人を倒して姉ちゃんを守って、それで死んでもかまわない。そんなこと、あるわけないけど。

 もしも本当にそんなことがあって運良く救うことができたら。そんなことがあったら、告白してもいい。

 姉ちゃんの顔を見て、こう言うんだ。ずっと昔から好きだったんだ、姉ちゃん――。

「……言えるわけねえだろ」

「なにが」

「なんでもないっ!」

 奏の声に直人は自問自答が口から漏れていたことに気づき、首を激しく横に振った。なに考えてたんだ、オレは!

「どうせバカなこと考えてたんだろ。どうぞ」

「うるせえよ!」

「ありがと、一輝くん」

 にらむ直人を一輝はちらりと見るだけで、人数分のコーヒーをカウンターに並べて腰かけた。奏への想いは誰にも言ったことはないが、きっと一輝にバレている。そう思う。



 時計は午後四時を指していた。客足が途切れたこの頃は、三人のお茶の時間になっている。洗い物を済ませた直人が椅子を引っぱってきて、三人そろって他愛もない話をするのだ。

 今日は奏が気になる話を持っていた。

「この前お店に来た友達で、真里亜っていう子がいたの覚えてる?」

 直人は首をかしげ、一輝はうなずく。

「直人は覚えてないかな。ロングヘアでおしゃれしてた子。彼にオーダーメイドで作ってもらったって、王冠の指輪を見せてたじゃない」

「ああ、うん。いたいた」

 先月だったか、奏の友達が数名来たことがあった。うち一人に、濃い化粧ときついコロンをつけて、ダイヤとサファイヤを散りばめた王冠の指輪を見せびらかしていた女がいた。奏とは顔見知りていどの仲らしい。

「あのね。友達から電話が来て知ったんだけど、真里亜、ずっとマンションに帰っていないんだって」

 一輝は空のカップを置いた。

「彼女なら帰っていなくても不思議じゃないでしょう」

「知ってるの?」

「あの後、飲みに誘われまして。一度だけ会いましたが、選ぶ店からして派手でしたからね。男友達もかなりおられるようでしたし」

 奏は心配顔でうなずく。

「私もそう思ったんだけど、どうやら今回はちょっとおかしいらしいのよ」

 真里亜は特定の友達に連日電話をかけては、あったことを自慢するように報告していたという。連れだった男の経歴、行った場所、買った物、夜の会話まで細かく報告しては好き勝手に批評を述べる。電話を受けるほうはたまったものじゃない。

 しかし、ある日から電話が途絶えた。話につき合わされたほうは解放されたと思っていたが、2週間も無いとなると今度は不安になってきた。嫌な予感がしてマンションに行ってみると、郵便物は放置されてうっすら埃がかかっていたという。

 元々派手に遊んでいた真里亜のことだ、なにか事件に巻き込まれていないとも限らない。まずは友人間で行方を知る人がいないか聞いて回った。そのひとりが常川奏だったのだ。

「どうせ気まぐれで海外にでも行ったんじゃないかと私は思うんだけど。でも旅行の自慢電話がないみたいで。一輝くん、その時の真里亜はどうだった? なんか言ってなかった?」

「特に気になるようなことは……。なにか思い出したら言います」

「うん、お願い。真里亜のことだから元気だとは思うんだけどね」

 直人は聞いているだけで不安になってきた。犯罪に対してのんきに構えている自分が身につまされる。さらに奏はどこかのんびりしていることも気にかかってきた。自分が学校に居る間に、店に強盗が押し掛けないとも限らない。

「姉ちゃんも気をつけろよ。いつもぼーっとしてるから」

 奏は口をとがらせた。

「なによう。直人こそいっつもぼーっとしてるじゃない」

「してねーもん」

「本当にそう思ってる?」

「え」

 見透かすような言葉に、直人はぎくりとする。

 しかし味方がいた。いつも奏に加勢する一輝だが、今回はめずらしく直人と同意見らしい。

「奏さん、こういうことは紙一重なんですよ。いつ誰が見ているかわかりません。店に出ている時は私がいるから心配ないと思いますが、外を歩く時は防犯ブザーくらい持ち歩いたほうがいい」

「はいはい。もうみんな過保護なんだから」

 奏は肩を上げて息をつく。

「でも大丈夫よ。これでも私、お店潰しに来たヤクザを追っ払ったんだから」

 過去の大事件をケロリと暴露する奏に直人は吹きだし、一輝は目を剥いた。

「姉ちゃん、いつ、そんなことあったんだよ! オレ知らねえぞ!!」

「あったのよ。シゲちゃんにも助けてもらったんだけど」

「静子さんがですか」

「うん。たまたまシゲちゃんが来てる時だったの。シゲちゃん、もう来るんじゃねえぞって叫んで、すごくかっこいかったんだから!」

 シゲちゃんは近所に住むおばちゃんで、本名を稲葉静子という。太めの体でどすどす歩き、声も大きな豪快名物おばちゃんだ。商店街の人は誰も静子さんと呼ばず、シゲちゃんと呼んでいる。

 特に常川家と仲が良く、奏が生まれる前からのつきあいらしい。両親亡き後は残された子供ふたりを親のように見守っている。おばちゃんからいつも頭をなでられている直人は、ここんとこ照れくさくてしかたない。一輝が来てからは、熱烈なデートの誘いに余念がなく、さんづけで名前を呼ぶことを強制し、笑って承諾させるほどの押しの強さだ。

 あのシゲちゃんが居たなら暴力団も逃げたかもしれない。直人はいろいろ想像して苦笑する。

「シゲちゃん、すげえな」

「いいよねシゲちゃん! 気っ風がいいっていうのかな。元気があって、存在感もすごくあってさ。いいよね、憧れちゃう。私もあんな風になりたいなあ」

 そこにいた男ふたりは即抗議の声を上げた。

「恐いこと言うなよ! 絶対ああなっちゃだめだからな!!」

「やめてください! 奏さんには無理です!」

「なによう、ふたりして。そんなに反対しなくてもいいじゃない。一輝くんまで無理だなんて言って」

「静子さんの迫力は体格もありますから」

 ふてくされるやり手店長に、ホール係が諭し、洗い場担当もしみじみと頷いた。

「シゲちゃんだからってのはあるよなあ。静子って名前なくせに全然静かじゃねえし」

 奏が納得したようにつぶやく。

「そうねえ。直人の言うとおり名前ってそういうのあるかもしれない。直人は名前のとおり素直だし。なんでも顔に出ちゃうの」

「ごちそうさん。洗い物すっから」

 直人はなんとも居づらくなり、空のカップを持って席を立った。奏への想いも顔に出ているんだろうか。

 奏と一輝はくすくす笑う。

「そうそう、真里亜もそうなんだよ。真里亜もシゲちゃんみたく、名前と正反対なタイプ」

「へえ。そうなんですか」

「聖書の聖で、ひじりっていうの。読みはヒジリマリアだけど、字を見ると」

 聖マリア。それも、男と遊ぶのが大好き。

 聞いていた直人が吹きだし、奏もつられて笑いだした。

 しかし、一輝は違った。目を伏せ、なにか考えこんでいる。強ばった表情はなにかを抑えているようで、直人は思わず声をかけた。

「一輝?」

「ああ。いや、なんでもない」

 上げたうす茶色の瞳が寸前まで紫色をしていたのを、直人は見逃さなかった。一輝は怒ると吸血鬼の性質が現れ、うす茶色の目が紫色に変色する。怒りを抑えているのか。なにを怒っているんだ、一輝。

「どうしたの?」

「いえ。昔、同じ名字の知り合いが居たなと思って」

「ふうん。めずらしい名前だし、遠縁の人かもね」

「ええ」

 のんきな会話を聞きながら、直人は内心やれやれと思っていた。

 一輝は自分のことはいつもはぐらかす。こっちはいろいろ相談しているだけに、おもしろくない。

「昔ってどのくらいだよ。まさか戦前」

 立ちあがった一輝からカウンター越しでゲンコツをもらい、直人は苦笑する。もういつもの一輝だった。

 奏も笑いながら腰を上げる。

「もうすぐ夜ね。シチューの仕上げをしないと。お仕事しましょ!」



 誰もが今日と同じ明日が来ることを疑わない、やさしくて平和な時間。

 これがあっけなく壊れる時が、夜が訪れるごとく静かに近づいていた。

 同時に直人の奥の奥の奥にある静かな所で、起きた獣はまどろんでいた。

 まどろみながらうかがっていた。

 自分の身体を。周囲の気配を。

――覚醒の時を。

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