第9話 俺とお父さん聖和と彼氏の佐藤


 気まずい。非常に気まずい。

 この空気はあれだ。娘がはじめて彼氏を家をつれてきたときに、たまたま早く帰宅していた父親と鉢合わせしてしまったような重たい気まずさだ。そうなると聖和が父親で俺は娘ってことになるから語弊はあるのだが、ずばりそんな空気なのだ。


 そして彼氏役は佐藤つゆみだ。佐藤と聖和が、食卓を挟んで向き合っている。


 どうぞ、といってお茶を出した。このまま台所に戻りたかったのだが、聖和が机を人差し指で数回叩いて座れと無言の圧力を与えてきた。何やら不機嫌らしい。


 佐藤はうつむいている。雫はこちらの様子を気にしつつ、ソファーの間のガラスのテーブルでお勉強中。邦志は床に腹ばいになって塗り絵に励んでいる。


 カオスだ。

 仕方なく佐藤の横に腰を下ろした。



「どういうことか説明してもらおうか」


 聖和が静かな声でいった。


「すまん。なんかいえなかったんだが、一昨日の夜にお前から電話があっただろ。あのときにここにいたのがこちらの佐藤さんだよ」

「佐藤つゆみです」



 佐藤が伏し目がちに自己紹介した。その姿はまさしく彼女の父に初めて会ったときの彼氏のようだった。緊張した面持ちで硬い挨拶だった。聖和はそれを一瞥しただけで俺に目を戻してきた。



「なぜ黙っていた」

「だからなんかいえなかったんだって」

「隠す意味はないと思うが。それともあるのか」

「あるというかないというか……」佐藤を横目で見て、覚悟を決めた。「実はいうとだな、もしだぞ、もし万一佐藤さんが聖和に気が合ったら変な誤解が生まれるんじゃないかと心配して……」



 なぜか佐藤に睨まれてひるんでしまった。

「生まれるんじゃないかと、の続きは何だ」と聖和がいった。俺としては、おまえこそなんだといいたいわけで。そんな空気じゃねえだろ、今は。



「黒尾くんはそんなつまらないことを考えてたんですか」



 いつもののほほんとした佐藤の声ではなかった。見た目から想像できないくらい強い声を出した。それに他人行儀な言い方でもある。普通に責められるよりも心に刺さった。



「なるほど。たしかにつまらない気を回したものだな」



 なぜか聖和が佐藤に同調した。

 気づいたら俺が責められている。往々にしてこういうことがある。


 聖和は呆れ目、佐藤は怒り目。ならば俺のすることはひとつだけだ。



「ごめんなさい」


 頭を下げた。


「たしかに隠すことではなかったのかもしれない。それは俺だってわかってるんだよ。ただ俺は万が一を考えてだな、よかれと思って━━」

「言い訳しない。そういうところだよ、黒尾くんのダメなところは」


 ピシャリと言い放つ佐藤に、聖和が、まったくだ、と同意するように頷いた。


「仁にはそういうところがある」



 どういうところだよ……。それをいわせないだけの威圧感を横から感じる。事実、佐藤に睨まれていた。



「わたしが赤羽くんを好きだとしても、それはわたしの問題だよね。黒尾くんが気にすることではないよね」

「そうだけど」

「言い訳しない」



 またもピシャリとやられてしまった。聖和はうんうん頷いて、もっといってやれとばかりに黙して語らずを決め込んでいる。


 いつの間にやら結託してやがる。


 やはり共通の敵ができると、反目していた敵同士は手を結ぶものなのだろうか。そんなことを考えていたら佐藤が、叱られて意気消沈しているいたずらっ子を見るような困った顔をした。どうして怒られるとわかっているのにやるのかと問うような顔だ。



「ねえ、黒尾くん?」



 佐藤のその口調は諭すように静かで、徒労感もこもっており、俺としては非常に不満だったのだが、どうしようもなく自分が子供のような気分になってしまった。



「もしだよ、もしわたしが赤羽くんを好きだとしてだけどね、わたしの行動のせいで赤羽くんに誤解を与えてしまったとしても、それはわたしの問題だよね。黒尾くんに責任はないよね」

「そりゃそうだけど、関係なくはないだろ」

「関係性の話じゃなくて、責任の話をしてるの。どうしてそんなに人のことばかりに気にするの? そんなの……あんまりだよ」



 佐藤の瞳にうっすらと涙がにじんだ。聖和が目を開けて、思案するように佐藤を見つめている。


 しばらくして聖和は立ち上がった。



「雫、お兄ちゃんたち大事な話があるんだ。悪いけど邦志を連れて少しの間部屋に戻ってくれないか?」

「いちゃダメなの?」


 近づいてきた聖和を見上げて雫がいった。


「話せる時が来たらちゃんと話す。今はそれで許してくれないか」



 聖和はしゃがみこんで、優しく雫の頭を撫でた。


「ん」といって突き出された雫の小指を見て、聖和が微笑んだ。小さな小指に自分の小指を絡めて指切りをした。



「約束を破ったらハリセンボンだから」



 おしゃまな雫はそういって、寝転んでいた邦志を起こし、手をつないでリビングを出ていった。


 そんなのほほんとした愛らしい場面を佐藤は完全に無視して、今も俺に視線を刺してきている。俺として、あれを見て心を洗えといいたいところだったのだけど、いえるわけがなかった。


 足音が遠ざかるのを待ち、聖和が戻ってきた。



「佐藤さんでしたね」



 聖和が呼びかけてくれたことで、ようやく佐藤の視線は外れた。でも安心するのはまだ早そうだ。聖和は怖いくらいに真剣な顔をしている。



「少しだけ事情を話しておきます。仁とこの家にまつわる話です。決めるのはそれからにしてください」

「お、おい」

「仁は黙っていろ。黙って聞いていればいい」



 いつにない厳しい口調だった。

 こいつは本気だ。もちろん冗談で俺の過去を話すようなやつではないからそうなのだろうが、ただいつもと違い、話すことによって起こりえる責任を請け負う覚悟をしているような気配を持っている。


 聖和は、いつもどこかで責任を負うことから逃げているような気がしていた。ただそれは、もしかしたらそれは俺と雫たちの仲を壊さないように、聖和なりに距離をとっていただけなのかもしれない。そんな気がした。


 だったら俺も覚悟を決めようじゃないか。



「わかった。任せる」



 聖和が頷き、佐藤を見つめた。佐藤は逃げず、真っ直ぐに聖和を見ている。



「これから話すことは同じ中学の人も知らない。仁の担任もここまで詳しくは知らない。知っているのは俺を含めて一部だけです。そのことを踏まえて聞いてください」


 佐藤が強く頷いた。聖和も小さく頷き、息を吸った。


「仁は、母親に捨てられました」










 あの人は出ていった。俺が小学生になったばかりのときだった。


 直接の原因は俺の父親だったらしい。結婚してからもあちこちで女を作るような放蕩者ほうとうものだった。それもあって、男と駆け落ちした。そのこと自体はよくある話だ。ただ、俺を置いて行くと同時に土産も残していった。


 この家は父方の家だった。つまり黒尾家ということだ。俺が生まれたときにはすでに祖父は他界していたらしいが、当時はまだ祖母がいた。それも介護の必要な人だった。


 あの人が出ていき、父親は滅多に帰ってこず、祖父はいない。誰が祖母の面倒を見るかといえば、この家には俺しかいなかったのだから決まっている。


 こうして俺は、小学一年にして祖母の介護をすることになった。家事もやらねばならなくなった。祖母の介護のためにデイケアも頼んでもいたが来てくれるのは日中だけだ。それも毎日ではない。何度も毎日来てくれないかと頼んだが、答えはいつも決まっていた。



「お父さんがいるのだから、お父さんに頼みなさい」



 そのお父さんが女と遊んでて帰ってこないから頼んでいるんだと何度も頭を下げて頼みつづけた。そのうち邪険にされるようになった。



「お父さんがいるだけ君は恵まれているんだ」



 突き放したような言い方だった。責任者の人はまったく取り合ってくれなかった。わかったら二度と来るなといわれているような気がしたことをはっきりと覚えている。


 ただ働いているおばちゃんたちは違い、仕事以外でたまに顔を出してくれたりもしたが、それも最初だけだった。デイケアセンターのほうからそういうことはするなと厳重にいわれたらしい。


 大人の世界を知った気がした。秩序を乱してまで他人のために動きはしないのだ。


 もう人に頼るのはやめよう━━そう思った。期待すると落胆も多いし、体力と時間の無駄だと思ったのだ。

 だって、俺はそんな中でも祖母の身の回りの世話をしていたのだ。余計なところに回す労力はなかった。


 さすがに小学一年の俺では祖母を風呂に入れることはできなかったから、毎日濡らしたタオルで祖母の身体を拭いた。

 着替えも手伝った。

 しもの世話もした。


 問題は食事だったが、デイケアの人が食事を作ってくれていたし、それ以外の日は聖和の母親の紅葉もみじおばさんが来てくれていた。


 紅葉おばさんは、俺を産んだあの人の実妹じつまいになる。親身なってくれていたことは理解している。


 でも、ただでさえ慣れないことの連続で大変なのに、紅葉おばさんの後ろめたそうな、そして申し訳なさそうな目に辟易して、堪え切れなくなり、もう来ないくれと頼んだ。


 それからは料理もするようになり、介護もやり方さえ覚えたらどうにかなった。自分の不器用さ加減に嫌気がさしたことも、一度や二度ではないが、それでも子供ながらにどうにかできていたのだ。


 そのときの俺はまだ介護を舐めていた。子供でも出来るのに、どうして世間の大人たちは介護ごときで愚痴をこぼすのだろうと思っていたくらいだ。


 だけど、すぐに思い知ることとなった。祖母の痴呆は緩やかではあったが進行していた。


 時に俺を兄様にいさまと呼び、時に俺におっぱいを飲ませようとし、時に俺に初恋の人を重ねてくる。


 祖母は、毎日、そして徐々にその頻度は増していき、ついには一日の中で何度も人が変わった。妹になり甘えてきたり、母親になったり、乙女になったり……祖母は過去を追体験していたのだろうと思う。


 その相手をしているのは、孫の俺だ。祖母のように過去に帰ることのできない、小学一年の俺なのだ。


 今ならば痴呆症に対する知識も多少はある。祖母が甘えてきても適当に相手をすることもできると思う。だがあのとき俺は、小学1年の知識しかなかった。介護の経験もなかった。


 祖母が気持ち悪くてたまらなかった。


 毎日震えていた。肌をさすられて悲鳴を漏らしたこともある。逃げようとして捕まり、泣きながら謝ったこともある。祖母に近づくのが嫌で嫌でたまらなかった。


 それでも放っておけば家中に糞尿の匂いが充満してしまう。

 ときたま父親が酒に酔って帰ってくることもあったが、必ず新しい女を連れていた。その女が臭いなんていおうものなら拳で父親に殴られた。


 元々は温厚な人で暴力をふるうような人ではないのだが、深く酔っているときは別だ。


 最初に父親に殴られた翌朝のことは今も覚えている。素面しらふに戻った父親は、俺が頬につけていた青痰を見て、誰にやられたのかと詰問してきた。答えられずにいたら警察に行くぞといい、慌てて説明した。原因が自分にあると知ったときの父親のあの悲壮な顔は、今思い出しても笑ってしまう。


 一度そういうことがあってから、父親はますます家に寄りつかなくなった。


 だが、あんな父親でも俺のことを気にしてくれていたようで、気づいたら足がうちに向いてしまうらしい。そんなときは必ず酔っているから朝起きて、自分で不思議がっていたものだ。


 そういうどうしようもない父親ではあったが、俺は父親が嫌いではなかった。そもそも父親とは思っていなかった。たまにやってくる親戚くらいの感覚だったように思う。


 ただ、どうしても許容できなかったのは女を家に置いて行くところだった。突然、この人が新しいお母さんだといわれて、そのたびに受け入れる子どもがいたら連れてきてもらいたいものだと思う。是非とも友達になりたい。


 最初の数回で、その人たちを母と見る努力をやめた。早い人はその日のうちにいなくなったし、長い人でも三日だった。それに俺には祖母の介護という仕事があった。正直あれらの女に気を遣うのも億劫だったのだ。


 そんな日々が1年ほど続き、祖母は亡くなった。老衰だった。


 ところが、あのときの俺は驚くくらい本当に何も知らなかった。


 日が昇る前に祖母の部屋に行き、水を飲ませようとした。何かがおかしいとは思った。肌に触れたときに冷たいなあとも思ったが、死んでいるとは思わず、いつものように水差しを差し出した。


 当然ながら飲むわけがない。しょうがないから水を飲んでもらうために介護ベッドの背もたれを上げるべく、ベッド脇についている手動のハンドルを必死で回した。


 自分で飲めなくなったら上体を上げて、水を口元に持っていくようにとデイケアのおばさんに教わっていた。そうしないと水が気管に入ってしまうからだ。


 普通の人ならなんて事のないことだ。むせるだけで、しばらくしたら元に戻る。ところが吐き出す力がない老人にとって致命的なダメージを与えることがあるらしいのだ。


 朝から全身を使ってハンドルを回し、ふと見たら、祖母が宙に浮いていた。


 実際には死後硬直で固まってて、頭と足で支えられた状態だったから浮いているように見えただけなのだが、あのときの俺は究極のアホだった。祖母が死んでいるとはつゆも思わず、すげえ、と声を出していた。


 ついに祖母が能力に目覚めたと思った。すげえすげえ、と手を打ち、宙に浮いている祖母にそのままでいてくれと頼み、廊下を走った。これを聖和に見せてやろうと思ったのだ。


 今考えると本当に恥ずかしくなるが、あのときの俺は真剣だった。聖和に見せてやりたいと思っていた。本当に超能力者は存在するんだということを教えてやりたかった。


 電話すると紅葉おばさんが出た。俺は興奮して話した。うまく伝わらないことにもどかしさを感じつつ、一生懸命見たことを話した。あれを見たら紅葉おばさんも信じてくれるに違いないと思って、興奮ごと電話越しに伝えた。


 すぐに聖和たちはタクシーでやってきた。玄関を飛び出して早くと急かしたが、誠二おじさんは泣きながら頭を撫でてきた。紅葉おばさんも泣いてて、強く抱きしめられた。聖和と聖和の妹の百合ゆりは悲壮な顔をしていた。


 わけがわからなかった。誠二おじさんが祖母の部屋に入っていくのを、おばさんに抱かれたまま見送った。祖母は超能力を身に着けたのに、どうしてこの人たちは泣くのだろうと本気で思っていた。


 ところが、そんな俺でも救急車が来たときに、何かとてつもないことが起こったに違いないと直感した。


 救急隊員がやってきて祖母を見てすぐに医者を呼びましょうといった。そのときに、祖母が死んだことを知った。


 俺が小学二年の時だった。


 紅葉おばさんは俺を抱きしめてずっと泣いていた。ごめんねごめんね、と何度もいっていた。


 しばらくして医者はやってきた。年老いた人だった。おそらく町医者だったのだろうと思う。その人が祖母を動かそうとした。


 あのときに感じた恐怖は今でもはっきりと覚えている。



「やめろ」と叫んだ。

「ばあちゃんを連れてくな」と必死で訴えかけた。



 まったく聞き入れてはもらえなかった。あたりまえだ。死んでいるのだから。でもそれは今だから理解できることだ。


 介護は本当に大変だった。もう二度とやりたくないと思っていた。でも、祖母がいなくなったら俺はどうなる。ひとりだ。この広い家にたった一人になる。それが心底恐ろしかった。


 今思い返しても、あのときの俺はどこかおかしかった。それこそ、狂気に憑りつかれていたように思う。どうしようもなく医者や救急隊員が憎くて、気づいたら紅葉おばさんを振りほどいて、殴りかかっていた。


 だがしょせんは子供だ。誠二おじさんにあっさりと取り押さえられた。それでも暴れに暴れて、そこに救急隊員も加わって床に組み伏せられた。それでも叫び、今度は自分で床に頭を打ち付けて……気づいたら病院にいた。祖母の葬式もいつの間にか終わっていた。



 気を失う前後のことは覚えていない。ただ起きたときにすさまじく頭が痛かったことは覚えている。頭は包帯で包まれていた。父親は見舞いに来ず、来たのは聖和たちだった。


 紅葉おばさんは左腕に包帯を巻いていた。きっと俺が暴れたときに負った傷だろうと思い謝ったが、紅葉おばさんは自分の怪我を治すことに専念しなさいと優しくいった。


 退院後は聖和の家に引き取られたものの、やっぱり聖和の両親の俺を見る目はおかしかった。今でもそれは感じている。それが聖和の家に俺が近づかない原因なのだ。


 あの目に耐えられなくて夜中にこっそりと抜け出し、自分の家に向かった。もしかしたら父親が戻っているかもしれないと期待しながら、夜道を走った。


 自分でもよく家に帰りつけたものだと思う。執念だったのかもしれない。


 そうして帰りついた黒尾家が黒い牢獄のように見えた。電気はついてはおらず、精気すらも感じなかった。


 家の鍵は持っていなかった。トイレの窓から入った。家には祖母の匂いが残っているだけだった。


 あれからだ。聖和が毎日のようにうちにやってくるようになったのは。


 父親は素面しらふでもたまに帰ってくるようになったが、必ずといっていいほど女を連れていた。そして女を置いて消えて、また現れる。そんなことが繰り返されてしばらくしてからだ。女の顔が全部同じに見え始めた。


 あの人だった。俺を生んだ人……。出ていく前の鬼のような顔。俺を邪魔者と見定めているようなそんな顔が彼女たちの顔に張り付いていた。


 祖母に言い寄られたとき以上に気持ち悪かった。彼女たちを見るたびに吐くようになった。


 学校にも行けなくなり、街をふらつくようになった。商店街の人たちと顔なじみになったのはそのときだ。


 これまでにも、何度もあの商店街は使っていたが、やっぱりあのときの俺はおかしかったのだろう。


 最初に俺に気づいてくれたのが、魚屋のオヤジさんだった。元漁師で、いつも覇気にあふれていたオヤジさんに腕を引かれたら普通は泣く。俺も恐ろしくて泣いた。


 でも違ったんだ。オヤジさんは、店の奥に俺を引きずり込んで怒ってくれた。



「悪い奴がいるならおじさんが倒してやる。安心して話してみろ」



 そんなことをいってくれた大人は初めてで、安心して泣いたのも初めての経験だった。


 夢中だったように思う。

 あの人のこと、祖母のこと、父親のこと、父親が連れてくるあの人の顔をした人たちのことを泣きながらしゃべった。


 きっと要領を得なかったと思う。だが、オヤジさんは黙って聞いた後で一言、わかった、といった。


 わかったといってくれた。


 俺は、俺の言葉を聞いてくれる大人がいるということを、そのときに初めて知った。

 後で聞いた話だが、オヤジさんたちは、みんなうちの事情を知っていたらしい。だがその家で何が起こっていたのかは知らなかった。


 オヤジさんは店を飛び出していき、しばらくしてある人を連れてきた。商店街の顧問をしているという弁護士事務所の若い弁護士だった。


 設楽祇しだらぎ押田おしだ法律事務所という弁護士事務所に所属している先生で、名前は押田幹夫みきおという。共同経営者の押田源治先生の息子だ。


 幹夫先生との付き合いは今も続いている。商店街の人と親しくなったのもあのときからとなる。


 幹夫先生が何をしてくれたのかは今も知らない。ただ父親は仏頂面を引っ提げつつも、しばらくおとなしくなった。ひとりで家にも帰ってくるようになった。だけど、あくまでも、しばらくだ。


 あの人の放蕩癖が簡単に治るなんて俺はこれぽっちも思っていなかった。だから父親が女を連れ込むようになってもショックはなかった。ただ、やっぱり女を見るたびに吐いた。


 そんなことを繰り返していたあるとき、父親がある人を連れて現れた。これまでの女とはまったく違うタイプの人だった。これが俺の転機となるのだが、今はまだ語ると気ではない。


 俺を置いて出ていったあの人が、今どこで何をしているのかは知らない。






「あのとき、僕は逃げた。仁をひとりにしたことを今でも後悔している」



 聖和は、自らの罪を告白するようにいい、話を締めた。


 別に俺は聖和が逃げたとは思っていない。誰だって老人の介護は嫌だろう。俺だって聖和の立場だったら逃げたと思うし、それが普通だと思う。


 佐藤は黙って聞いていた。何を想っているのかはその表情から窺うことはできなかった。



「まあ昔のことだ。聖和が気にし過ぎてるだけで、そんな大層な話じゃないって。佐藤も笑ってくれていいぞ」


 そういって、佐藤の肩を軽く叩き、立ち上がった。


「私にはわからないよ」


 佐藤がぽつりといった。


「全然わかんないよ」

「わからなくていいんだよ。それが普通だ」

「普通ってなに? 黒尾くんにとって普通って何なの?」



 佐藤も立ち上がり、わかんないよといってぼろぼろと涙を落とした。それでも真っ直ぐに俺を見ている。同情の涙ではないようだ。憐れんでもいない。本当にわからないと訴えかけている。


 綺麗な涙だと思った。俺には真似できそうにない。



「俺にとっての普通は、そうだなあ」


 なんだろうと考えているときに、横から聖和がいった。


「この家には不幸が集まってくる。仁はひとりでそれと立ち向かってきた。それがこいつにとっての普通だった」



 ふむ。納得してしまった。パチンと指を鳴らして、聖和を指さした。



「それだな」



 仁っ、と聖和が怒鳴って立ち上がった。椅子がひっくり返った。



「おまえは」

「なんだよ」


 自分でも意外なほど冷たい声が出た。


「いや。すまない。━━佐藤さん。そういうことです」

「どういうことだよ」

「おまえは夕食の準備でもしたらどうだ」

「いわれんでもやるっちゅーの。っていうか、おまえが俺を呼んだんだろうが」

「いいからさっさと行け」



 なんだよ、と舌打ち交じりにいってカウンターを回った。


 聖和がとにかく座ろうといって、佐藤を座らせた。佐藤はまだ泣いている。聖和がカウンターに置いてあったティッシュの箱を取り、佐藤の前に差し出した。


 さりげない気遣いだな。まさしくイケメン。そして俺はイクメン。まあ、どうでもいいことではある。


 だが、事実だ。

 聖和が椅子を起こして座った。



「本来であれば話す必要のなかったことかもしれない。だけど、あなたは知っておいたほうがいい。そして、もうここには来ないほうがいい。浮ついた気持ちでここに来てもあなたが苦しい思いをするだけだ。そう思ったから話しました」



 佐藤はティッシュには手を伸ばさず、涙を落ちるままに任せてうつむいている。無言だ。



「さきほど話したことは、あなたが生きる上で不必要な話です。この家を出た後で忘れてください。仁に同情する必要もない。余計な詮索もしないでもらいたい。あわれみもなぐさめも不要です。あなたがすべきことは、すべてを忘れることです」



 それがあなたのためだと聖和は力を込めていった。


 佐藤が何かをいったらしいが、俺には聞こえなかった。聖和にも聞こえなかったようだ。「何でしょうか」と訊いた。


 意を決したように佐藤が顔を上げた。



「まだあるんですよね」

「あるとは?」

「それだけじゃないんですよね。だってまだ雫ちゃんと邦志くんの話が出てきてません」


 聖和が目を見開き、俺に視線を送ってきた。


「聖和、気をつけろよ。その人、見た目ほど純粋じゃないぞ」



 佐藤がむっと睨んできた。



「黒尾くんはあっちにいっててください」

「晩御飯の支度中でーす」



 適当に答えたら、呆れられたらしい。佐藤はティッシュを手にして涙を拭き、聖和を見た。



「詮索はしません。でも、それだけでも教えてください」



 佐藤の口調はやわらかい調子に戻っていた。

 そういえばうちの書庫で佐藤が読もうとしてた本は推理小説だったな。まさかのミステリーマニアか。面倒なやつに話を知られてしまったかもしれない。


 まあ、もしものときは聖和に責任を取ってもらおう。どう責任を取ってくれるのかは、あとのお楽しみってことで。



「なるほど。たしかに佐藤さんは一筋縄ではないかないみたいですね」


 聖和が疲れたように吐息をついた。


「続きはあります。ここまでは『別れる運命にあった者たちとの闘い』です。そう思っていただいて差し支えはありません。そしてここからは『繋がる運命にあった者たちとの闘い』となります。本当に大変だったのはここからです。ですが根幹は変わりません。仁が人を避けるのは、さっき話したことが原因です」



 たしかにそうかもしれない、とこっそりと納得してしまった。もっとも人を避けているつもりはないが、聖和にはそう見えるのだろう。


 別にそう思われてもいい。俺にとって大事なのは雫と邦志だけだ。そこにちょびっとだけ潤いがあればいい。甘い潤いは不要だが、正樹や野獣先生みたいな面白キャラがいてくれれば十分だ。


 冷蔵庫を開けて、今日の献立を組んだ。



「これ以上のことは僕が話すことではない。知りたいのであれば仁に訊いてください。ただし、あいつが簡単に口を割るとは思わないことです」



 まったく、そのとおりだ。よくわかってらっしゃる。


 聖和が話したのは、俺が許容できるギリギリだ。ここから先は過去の話ではない。鮮明に残る俺の想い出になる。誰にも話すつもりはない。雫のことも邦志のことも、そして静音さんのことも……。


 今でも思い出すと胸が苦しくなる。それでも俺にとってはかけがえのない想い出だ。話せるわけがない。


 その日、佐藤は何もいわずに帰っていった。聖和は彼女を送っていくといって帰った。





 結局佐藤は何をしに来たのかしらと疑問に思いながらも晩御飯を作り、いつもと同じように兄弟水入らずで一日を過ごした。

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