第2話 俺と尾堂華恋と家庭訪問

 

「ちょっ、ちょっと待ってください」

「安心して。私がちゃんと養ってあげるからね」

「そういう問題じゃなくて」

「すべて私に任せてくれたらいいの。だいじょうぶ。すぐに気持ちよくなるわ」



 うふふと笑うこの女性。さっきまでは普通だった。普通の、それこそどこにでもいる普通の先生をやっていた。普通の先生として普通に家庭訪問に訪れた。


 それがいったいどこでこうなったのか……。


 わかっている。俺の不用意な発言のせいだ。

 俺にとっての家庭訪問は、担任との一対一の面談の場である。ひと通り家庭の現在の状況を伝えて、これからどうしていくかを話しているときに先生がいったのだ。


 困っていることがあるなら何でも相談してね、と。

 できる限りのことはするから、と。優しく包むようにいったのだ。


 うっかりほだされてしまい、つい「先生のような人を奥さんに迎えられたらきっと俺も妹たちも幸せになれるんでしょうね」といってしまったのだ。


 むろん、世間一般でいわれるところの社交辞令であり、お世辞である。ただし成分比率は本音が95パーセントを越えていたことは認める。


 しかしだ。高校1年生が担任教師にいうとなれば、本音成分よりもお世辞成分のほうが強く影響するはずだ。俺の読みではそのはずだった。


 どこの世界に、生徒の本音成分にのみ反応する教師がいるというのか。


 ところが、いたのだ。ここに。俺のうっかり発言を境に、先生は発情した。『華恋かれん』などというおしゃれな名前をお持ちなのに、内に巣食っていたのはケダモノだったのだ。


 この人と初めて会ったあのときから綺麗な人だとは思っていた。担任と知った後も最初の印象は消えておらず、明るくて愛嬌もあり、天然そうに見えて少しだけ計算も入ってて、いかにも世間を知ってる的な大人のお姉さんという感じを持っていた。何があっても守ってくれそうという安心感もあって、将来結婚するなら先生のような人がいいと思った。その部分は本気度マックスで、さっきまでなら全力で自分が抱いた感情を肯定しただろう。


 だが、今は無理だ。だって、ケダモノなのだもの。

 尾堂びどう華恋は俺の担任である。こんなにも近くに、こんな肉食獣がいるなどと誰が想像できるだろうか。



「先生、落ち着いてください」

「華恋と呼んで」

「…………」



 生徒に馬乗りになって何をいうか。やめろ。股間をまさぐるな。でもちょっと期待しているけど……。

 これは危険だ。流されてしまいそうになっている自分が恐ろしい。



「待って、待ってください。心の準備がまだ」

「だいじょうぶ。すぐに真っ白にしてあげるから」



 それはどういう意味ですか。あまりのショックに髪が真っ白になるのか、それとも精気を抜かれて俺自身が灰になってしまうのか、逆にハイになってしまうのか。


 ごくり、と唾を飲み込んだ。


 ダメだ。正常な判断ができない。だいたいにして、内面はともかくとして、外見は間違いなく好みなのだ。異常極まりない現状に抗おうとしながらも、心のどこかで先生ならいっかと思っている自分もいたりする。自覚済みだ。だからこそされるがままになっているわけだが、だけどダメだ。俺にはかわいい妹と弟がいる。こんな聖職者とはおおよそかけ離れた変態を奥さんに迎えたら、悪影響が出るに決まっている。


 でも、だけど、やっぱり好みだ。半ばまで雰囲気に流されて、身体の力を抜いて受け入れる準備をほぼ完了させようとしたときに、ふとリビングの入り口に立つ人物が目に入った。



「聖和……」



 救いの天使。赤羽聖和が立っていた。俺の幼馴染にして、親友にして、従兄弟いとこだ。とんでもない現場に出くわしたことで聖和は立ち尽くしている。


 尾堂先生、あらため、野獣先生が不思議そうに俺の視線の先を追い、固まった。



「すまない。出直そう」

「待て。誤解だ」


 踵を返そうとした聖和を呼び止めた。


「状況をよく見ろ。そしてこの人をよく見ろ」



 聖和が恐る恐るといった感じで、俺に乗っかっている女性を見て目を見開いた。



「尾堂先生……?」

「ええっと、もしかしてその制服は」



 野獣先生はこの現実を受け入れたくない様子だ。

 しかし、どんなに残酷であろうとも、今を受け入れて進むしかない。それが人生だ。



「天王寺高校の生徒です。ちなみにクラスは違いますけど俺と同じ1年です」

「そう、なのね」


 野獣先生が何事もなかったように立ち上がり、聖和の下に向かった。


「ちょっとこっちに来なさい」


 その腕を取り、戻ってきた。


「2人ともそこに座りなさい」



 突然の命令形。学校でのあのお姉さんキャラはどこにいったと思わないでもないが、有無をいわせぬ雰囲気をまとっており、対面のソファーに座らされた。形は清く正しい三者面談だ。


 野獣先生が小さなせきをした。



「あなた、お名前は?」

「赤羽聖和です」

「そう。あなただったの……我が身がかわいければ、今見たことはすべて忘れることね。私にはあなたのすべてを知るだけの情報網があるのだから、そのことをよく考えてみることよ」


 野獣先生は一切の前振りなしにいきなり脅しにかかった。


「それはどういう意味でしょうか」


 動じることなく聖和が訊いた。


「赤羽くんが忘れるというのであれば、こちらからは何もしないわ」



 教師という以前に、人として最低のことを平然といっている。

 生徒を脅す教師。もはや最低を極めているといってもいいだろう。



「忘れてもかまいませんけど、その前に聞かせてください。どうしてじんを襲ったのでしょうか」


「そうねえ」と野獣先生は考える素振そぶりを見せた。


「本気、といったらどうするのかしら」

「ならば仕方がありません。何もいいません。誰にも話しません。お約束します」

「そう」



 野獣先生はぽつりといって、優しく微笑んだ。ただし目には狂気が宿っていることを俺は見逃していない。



「私は本気よ。何だったらあなたも加わってもらってもいいわ」

「ここはお互いのために仁で手を打ちましょう」

「おい、待て。いろいろと待て」



 何やら唐突にわかりあったような雰囲気を振りまきだしたのだが、親友を売るとは何事だ。



「ねえ、聖和くん。君は何をいってんの?」

「仁にはこれくらい強引な人のほうが合っている。それに尾堂先生は学校でも評判の人だ。面倒見もいい。安定した収入もある。何よりもおまえの事情を知りながら受け入れてくれようとしてくれているんだ。拒否する理由はない」

「あるだろ。教師と生徒って、問題大ありだろ。そもそもバレたら尾堂先生はどうなる。漫画やアニメじゃねえんだ。性に奔放なだけでも大問題なのに、生徒に手を出そうとしたなんてことが外に漏れてみろ。シャレじゃ済まんぞ」

「そうか。こんなときでもおまえは先生の立場を心配するんだな」

「そういうところがあるのよね、黒尾くんって」

「先生もやめてください。そもそも問題はそこじゃないから」

「そういいながら、黒尾くんも男の子よね」


 とかいいながら、野獣先生の視線が俺の股間に向かってきた。ぞくぞくするような感覚を味わい、というか、さらに先を味わいたいと思ってしまったが、それはそれとして手で股間を隠した。



「お願いだから普通の相手を見つけてください」

「その相手がいなくて困ってるの」


 聖和が野獣先生を見つめてた。


「そうなのですか。綺麗なのになぜでしょうね」



 そんなもの聞かずともわかるだろうに。見た目はまだしも内面がこれだからだ。ケダモノだからだ。並みの男は逃げるに決まっている。


 野獣先生が怪しく輝いた瞳を向けてきた。



「何かいいたそうね」

「いえ、別に……」



 曖昧に濁しておいた。

 聖和が俺と先生を交互に眺めた。



「始まってしまったことは仕方がないとして」

「何も始まってねえよ」

「仁だけなんですか。それともすべての生徒が対象なんですか」



 俺の発言はなかったものとされた。だが聖和の質問には俺も興味がある。別に先生の性癖にとやかくいうつもりはないし、それで先生に向ける目の質を変えるつもりもない。ただの変態。それでいいじゃない、とも思うが、健全な思春期小僧としては気になるところだった。


 野獣先生は足を組んだ。タイトなスカートが少しめくれて、白い内腿が露わとなった。うっかりその奥を想像してしまい、唾を飲み込んでしまった。


 しまったと思ったが遅かった。先生に見つめられていた。



「どう答えようかしら」


 俺を見つめながら、いたぶるように野獣先生はいった。


「教師として答えるなら母性を刺激された。女として答えるのなら本能よね。今回はその二つが合わさった結果かしら」

「教師と母性の関係について殊更ことさらにツッコむつもりはありませんが、あなたは本能のままに襲うんですか」

「私ってダメな男に弱いのよ」

「…………」



 俺はダメな男なんですか。そうですか。それはそれでショックだよ。



「ということは仁みたいな人がタイプということですね」


 聖和がいった。


「ちょい待て。俺みたいな人ってどういう人だよ」



 突然の横やりに思わず訊いてしまった。聖和が今さら何をいってるんだといわんばかりの呆れた顔をした。



「世話焼きで、家事が得意で、自分のことよりも妹と弟を大事に思ってて、傷つけられる痛みを誰よりも理解しているから誰よりも深く相手を思いやることができる。そんな男だよ、おまえは」



 臆面もなくいわれて、柄にもなく照れてしまった。


 昔からこういうやつだった。聖和が女性だったら間違いなくホレているところだ。そんなことを考えた場面は、これまでに幾度もある。幸か不幸か男だから変な気を起こしたことはないが。



「頑張り屋さんで、ちょっと頼りないところがそそるのよね」



 あなたは黙ってなさい。視線で咎めてやったが野獣先生はおかまいなしに微笑んでいる。聖和が野獣先生に同調するように深く頷いた。



「思い込んだら一直線。頑固というか強情というか、致命的に助けを求めるのが下手なんですよね」

「はいはい。もういいって」



 この手の話題は流すに限る。自ら打ち切らせてもらった。



「それはともかくとして、さっきのことはなかったことにしましょう。それがお互いのためです」

「性欲を向けてくれた人を前に、そういう態度はよくないと思うがな」

「冷静に性欲とかいうな。それから、さすがにそれは先生に対して失礼だと思うぞ」


 ふむ、と聖和が考え込んだ。


「なるほど。となると、性愛が妥当か」

「俺はおまえを打倒したいよ」



 学校の女子は聖和の顔面に騙されているが、こういうやつなのだ。昔からそうだった。モテてモテて真のハーレムさえも夢ではないのに、未だにこいつは彼女というものを作ったことがない。なぜかと聞いても興味がないとしか答えないから、本当の理由は知らない。ただ深くは訊けないでいる。


 別に聖和に男色の毛があるのではないかと疑っているわけではない。そういうことではなく、作らないだけの理由があるような気がするのだ。



「とにかくだ。先生は大人だ。性癖について俺たちがあれこれいうべきことではない」


 ただし、と先生を見ていった。


「俺は答える気はない」

「ふうん」


先生の視線が再び俺の股間を直撃した。


「まあいいけど、でも安心したわ」

「何がですか」


と、股間を手で隠して尋ねた。


「黒尾くんも男の子だったってわかったもの。ちょっと心配してたのよね」

「……何をですか」

「もしかしたら興味がないのかなあって思って。女の子に」


 すーっ、と聖和の気配が遠ざかった。


「ちょ、何いってんですかっ。聖和も何離れてんだよ」

「いや、いいんだ。仁がそっちの人間だとしても僕たちの関係が壊れるなんてことはない。ただ、すまない。僕にそっちのへきはないから応えようがない」

「俺もないわっ」


 ガオッと吠えて、先生を睨んだ。


「いったい何をいってるんですか」

「だってえ、黒尾くんって人気あるじゃない? それなのにそんな素振りを見せたことないし、担任として確認しておきたいなあって思うわけよ」

「どんなわけだよ……いえ、わかりましたけど、だったら普通に口で訊いてくださいよ」

「いいわよ?」


 そういって尾堂先生は立ち上がった。


「じゃあ脱がせてあげるわね」

「そっちの意味じゃねえっ。聖和も出て行こうとするな」

「いや、いかに親友といっても、さすがに見たいとは思わんぞ」

「やかましい。まずは助けろ」

「すまんな、仁。先生の補助をしろといわれても……」

「だからそういう意味じゃねえっ」



 さあ、とかいいながら先生がなおも迫る。普通に口で訊くってのはそういうことなのかと叫びつつ、野獣先生を追い払い、聖和の勝手な想像をどうにか破壊して着席してもらった。異様に体力を奪われてしまったのだが、こんなにも疲れる家庭訪問は人生初だ。


 息が乱れた。ついでに野獣先生の呼吸も別の意味で乱れているようだが、スルーさせてもらう。



「とにかく問題なのは先生に彼氏ができないことでしょ? だったら俺たちが見つけてきてあげますよ。先生の理想的な相手をね」

「理想の相手だったらそこにいるんだけどなあ、って先生は思うんだけど」



 いや、だから俺を見るな。エロビデオじゃないんだから教師と生徒ってのは本当にあり得ないって。


 聖和はあまり気にしている様子はない。というか、野獣先生と俺がそうなってしまえばいいとさえ思っている節がある。なぜここまで頑ななのかはあえて訊かないが、まだ俺に彼女を作るとかそういう気持ちはない。


 これは野獣先生が相手だからというわけではない。誰が相手であってもそんな気持ちにはなれないのだ。



「ところで先生、次の面談があるんじゃないですか」


 あっ、と野獣先生がおっしゃった。壁にかかっている時計を見て、慌てて立ち上がった。


「もうこんな時間。急がなきゃ」



 床に落ちていたカバンをひったくるように持ち、「この話はまた今度、ゆっくりとね」とウインクを残して去っていった。


 一応俺も立ち上がって玄関まで見送ったが、「脱ぎたての下着が欲しいのならあげるわよ」とかいわれたが、丁重にお断りしておいた。



「本当にあの人は何がしたいんだか」



 先生の香りの残るソファーに座った。まだ温かさが残っている。ちょっと興奮したのは内緒だ。


 向かいに座ったまま、聖和が大きく伸びをした。



「時間を忘れるほど、仁と過ごしたひと時が貴重だったということだろう」

「それは違うと思う」



 どうしても俺と先生をくっつけたいらしい。


 しかし。断言してもいい。それは違う。

 本当に最初はいつもどおり親身になってくれる頼もしい先生だったんだ。心からいたわってくれていることは伝わってきたし、俺の夢を応援してもくれた。


 俺の感覚では、野獣先生は先生というよりももっと近しい存在で、お姉さんといった感情で先生を見ていた。そういう意味では先生に好意を持っていたことは確かだ。そこによこしまな想いがなかったのかといえば、あったと答えるしかない。


 年の近いお姉さん先生が担任なんだ。アッハウフフの関係になった場面を想像したことも一度や二度ではない。


 認めよう。好意の中に、性的な意味がなかったとはいわない。もしも野獣先生が野獣ではなく、お姉さん先生として迫ったとして、そのとき俺は拒否できただろうか。


 考えるまでもない。おそらく、などという曖昧な言葉は不要だ。後のことなど考える余裕もなく、流れに身を任せていただろう。そして事後に、先生とどう付き合っていけばいいのかわからず悶々としたに違いない。


 しかしあんなケダモノが顔を出したとなれば話は別だ。あり余る精を余さず搾り取られそうな気配さえ感じていたんだ。あるいは先生は俺がそう感じることを見越して、意図してそう振舞ったのかもしれないとも思う。


 きっと、そういう誘いに平気で乗るような相手にああいうことはしない。そう思う。



「さて、どうする?」


 聖和は訊いてきた。


「どうって、何のことだ?」

「尾堂先生の彼氏探しだ。仁が先生と付き合いたいというのなら協力しないでもないが」

「それはないな。好きか嫌いかでいえば好きなんだろうけど、ただやっぱりなあ。それに先生も本気ってわけじゃないだろうし」

「僕はそれでも付き合ってみればいいと思うんだけどな」

「アホか。もしもこのことが公になってみろ。先生が苦しんでいる姿は、なんか見たくないんだよ」

「まあ、わからないでもない。ならば探すしかないな」


 聖和はにやりと笑った。


「尾堂華恋にぴったりの相手を探すぞ」



 珍しくやる気をみなぎらせてらっしゃるようだ。ほんと物好きだよな、こいつって。



「おまえは女子かよ」



 時計を見て立ち上がった。そろそろ妹が帰ってくる時間だ。今日は友達のあかりちゃんが来るといっていたから、お菓子の準備と手作りジュースの用意を始めた。聖和はテレビをつけてニュースを見ている。すっかり休日のお父さんと化していた。


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