家族エンジン

南 圭司

第1話 俺と入学式と白いハンカチ

 この俺が高校生になる。しかもこんなにも穏やかな気持ちで入学式に参加することになるとは、中学の時は想像もしていなかった。


 県立天王寺高等学校の1年3組が俺のクラスになる。事前説明会に参加するついでに、ひと回りしておいたから、自分の靴箱やクラスを探して構内をさまようということはなかった。


 生徒用玄関は本校舎とパソコン室や視聴覚室などの専用の教室のある専門校舎を繋ぐところにある。本校舎の右側だ。3組は1階の左端寄りにある。通りがかったついでに5組を覘いてみた。聖和はまだ来ていないようだった。


 後ろのドアから教室に入った。どのクラスもそうだったが、3組もまた黒板の前に女子がたむろしていた。女子パワーに圧倒された男子生徒は、教室の後ろや廊下に立っている。どうやら席順が黒板に張り出されているらしいのだが、女子の放っているキャピキャピしたオーラに近づく勇気がなく途方に暮れているところらしい。


 彼らがいうには、『渡り鳥化現象』が起きているとのことだ。その意味はすぐにわかった。小走りにやってきた女子グループが、そこに加わったのだ。すると、ほかのグループが次のクラスを目指して出て行く。


 女子の渡り鳥化現象。つまりあの中には3組ではない人も多数いるということだ。


 知らず、ため息が漏れた。少しは周囲のことも考えろといってやりたいところだ。



「よう、苦労人。数日ブリーフ」



 飯塚いいづか正樹が声をかけてきた。隣の席の男子としゃべっていたらしい。その男子のことは知らないが、正樹とは小学・中学ともに同じだった。



「おまえの席はそこだぞ」



 正樹が自分の2つ後ろの席を指さした。


 正樹の苗字は飯塚で、頭文字は『い』。俺の苗字の頭文字は『く』。中学の入学初日、あるいはクラス替えのときもそうだったが、席順は決まって『あいうえお順』だった。高校でもそうなのだろう。


 正樹は廊下側の前から2つ目の席に座っている。俺はその2つ後ろ。出席番号は正樹が2番で俺が4番ってところか。まあ妥当なセンだろう。サンキュー、と答えて中学から使い倒している学生かばんを机に置き、椅子に座った。



「ねえ、彼って苦労人なの?」



 正樹としゃべっていた男子が声を潜めて訊いているのが聞こえた。正樹の隣の席に座っている。


 せっかくその男子が声を潜めているのに、正樹は気にしたそぶりも見せず、カカッと笑って「違う違う」と手を振りながら陽気に答えた。黒板前を占拠している女子の内、幾人かが振り返った。



「いや、そう違いはしないけど、苦労人ってのはこいつの名前だよ」

「えっ。彼の名前ってクロウニンなの?」



 失礼にも初対面の俺を指さして、驚いた顔を正樹に向けている。正樹が腹を抱えてケラケラと笑った。



「そんな名前だったら面白いんだけどさ。なあ?」

「俺に聞くな。それから別に面白くはない」



 鞄からノートと引き用具を出しつつ、つんけんと答えてやった。正樹は笑顔のままその男子にいった。



「こいつは黒尾じん。読みを変えたらクロオニン。それで苦労人ってわけさ。小学校以来のあだ名なんだが、これがまた事実、苦労人なんだよなあ」



 正樹ごときに、しみじみといわれてしまった。少し相手してやるかと思い、顔を上げた。



「正樹に心配される日が来ようとはな。世も末だと実感してしまったよ」



 正樹が驚いたように振り返った。



「なんでだよ」

「あ、すまん。間違えた。おまえがこの高校に受かった時点でわかっていたことだった」

「余計酷くなってる」

「ふむ……今年は定員割れだったのかもしれない」

「倍率は2倍、通常通りだったぞ」

「ほほう。そういえば正樹の父親は政治家だったか」

「どこの情報だよ。オヤジは普通のサラリーマンだ。だいたい一緒の高校に行こうといったのはおまえと聖和せいわだろう。だから頑張って勉強してこうしてここにいるんじゃないか」

「その勉強を教えたのは誰だったかな?」

「その節はお世話になりました」



 正樹はことさらに頭を下げた。そして顔を上げると同時に、にかっと笑った。



「いやあ、正直うちの親も、俺が天王寺高校に受かるとは思ってなかったみたいなんだよなあ。すげえ喜ばれちゃって、俺以上に浮かれてんの」

「……それはよかったな」

「ほんと、仁と聖和のおかげだわ。でも一番頑張ったのは俺だけどさ」



 ひゃっひゃと笑うこの男はどうしてくれようか。俺にはこいつを煮て食う資格はあると思う。


 それにしても、せっかくの門出だというのに正樹のせいでまったく新鮮味がない。もはや中学の焼き写しだ。というわけで、正樹の隣の男子を見た。



「黒尾です」



 軽く辞儀をした。



「富永です。阿倍奈あべな中出身です」



 自己紹介を終えたところで富永を交えてしばらく正樹で遊んだ。


 ふと、正樹の奥に白い物が目についた。黒板の前では今も女子がおしゃべりに興じているが、そこから一歩下がったところにハンカチらしきものが落ちている。


 正樹の抗議を無視して立ち上がった。拾おうにも、女子に近い。前かがみになったばかりに痴漢呼ばわりされては適わない。ちょっとすみません、と近くの女子に声をかけた。彼女たちが振り返った。ちょっと待ったとの意味を込めて、軽く手をかざして、落ちていたそれを拾い上げた。


 思ったとおりハンカチのようだった。気づくのがおそかったらしく、上履きで踏まれた跡がある。ただ入学初日というだけのことはあり、上履きは新しく、汚れはそこまでひどくはない。それでも波打った黒い線がついている。


 もちろんその汚れも気になるが、何よりも俺が気になったのは、ハンカチの縁だった。隅を摘まんで開き、それをじっくり見た。


 縁は赤い糸で縫ってある。ソーイングの基本のひとつ『並縫い』だ。お世辞にもうまいとはいえない。幼稚といってもいい。ひと針ごとの長さはバラバラで、真っ直ぐではなく、右に左に歪んでいる。全体を見ても、端から糸の間隔は狭まったり広がったりしている。さらに何度も針を入れなおしたのだろう。素地きじが痛んでいる。



「雑巾?」



 女子のひとりが不思議そうにいった。姐御あねご的な雰囲気を持つその人は本当に雑巾だと思ったのだろう。たぶん、まだ中学の時の感覚が抜けていないと思われるが、雑巾を持って来るようにいわれてたかなと考えるように首を傾げている。


 ただ、その声に応じた笑い声の主たちは、本当におかしそうに笑い声をあげている。



「これはプレゼントだと思うよ」



 雑巾と勘違いしている少女にいいつつ、笑った女子にいってやった。

 モデル体型というのだろうか。まあ、美人の部類に入れて間違いない。髪は長くて、艶がある。丁寧に手入れをしているようだ。見た目はきつそうだが、繊細な人なのかもしれないと感じた。


 驚きに見開かれた目をしっかりと見つめ返してから、そのハンカチに目を落とした。



「素材は薄手のタオル。手縫いで、縫い目からすると作ったのは幼い子供。園児か小学校低学年……初めて作ったんだろうと思う。針が何度も指に刺さっただろうに、高校に入るお姉ちゃんかお兄ちゃんを想って一生懸命作ったんだろうね」

「なんか、おかしなこといって悪かったわね」



 口調はぶっきらぼうだが、心は伝わってきた。笑っていた女子たちも気まずそうに口を閉じている。



「いいなあ」

「……えっ?」

「だって手作りだよ、これ。しかも何度もやり直してるみたいだし。子供ってすぐに飽きちゃうのに、何度もやり直して、そしてちゃんと仕上げた。それくらいこのハンカチの持ち主のことが大好きなんだろうね」



 本当に羨ましい。というか妬ましい。

 くそ、なんちゅーもんを見つけてしまったんだよ、俺は。


 あ、ごめん、といいながら正樹が立ち上がった。



「ええっと、これは本来俺の仕事じゃないんだけどさ……仁の世話は聖和の仕事だろうが。やつはどこにいんだよ」

「聖和なら5組だ」



 せっかく教えてやったのに、正樹は激しく舌打ちした。



「使えねえやつだな」

「まあ、そう自分を責めるな」

「俺じゃねえ。聖和のことだ。だいたい自分で自分をけなす馬鹿がどこにいんだよ」

「…………」



 無言で、じーっと見てやった。やめろっ、と手をかざして正樹が叫んだ。



「そんな目で俺を見るな」

「そんなことより、これを見ろよ。心が洗われるようだろ?」



 ハンカチを広げたまま正樹の前に突き出した。



「別に洗われはしないが、それよりこの空気をどうにかしてくれ」

「おまえは心が尖っているようだな。癒しが必要のようだ。だからこそ、このハンカチを見ろ。俺は全力で癒されてるぞ」

「おまえと一緒にされてもなあ」



 そういって正樹はため息をつき、俺の後ろに目を向けた。



「こいつには小学1年の妹と4歳の弟がいて」

しずくは2年になったぞ」

「あっ、そうか。もう2年なんだ。早いな」

「だよな」



 正樹としみじみ頷き合った。



「あっ、それで、こいつはその妹と弟の世話をしてる。その関係で、究極の兄馬鹿なだけだから気にしないでくれ」



 付き合いが古いだけに、正樹もなかなか俺のことを理解しているようだ。感心だなあ、とか思ってみたが、この後を考えると超面倒くさい。


 背中にもわっとした熱気を感じた。質問が飛んでくる━━。そんな気がした。



「正樹は俺の親友だ」



 そう言い捨てて、横を通りざまに正樹の肩をポンと叩き、後ろのドアから逃げた。教室を出るときにちらりと後ろを見たら、正樹が女子に囲まれてハーレム化していた。ちっとも羨ましいとは思わなかった。


 可哀そうだったのは正樹の横の席になったばかりに巻き込まれている富永くんだ。囲まれているのではなく、その女子の囲みの中に埋没している。


 そして二人の尊い犠牲を利用して、今が好機とばかりに座席を確認しに行く野郎ども。入学初日にして、1年3組の男女の力関係を見た思いがした。


 間違いなく、このクラスは『かかあ天下』になる。そんな予感しかしない。


 陰鬱としたものを感じつつ、踏まれたハンカチを洗おうと男子トイレに行ってみたが、そこは野郎の花園と化していた。仕方なく校舎の中央に向かった。そこには専門校舎に向かう渡り廊下があるのだが、渡り廊下の手前にちょっとした広場がある。ジュースの自動販売機が3基置かれてあり、床置型ウォータークーラーが5機と手洗い場もある。さっそく新入生たちがジュースを求めて集まっているが、手洗い場は空いていた。


 他人のハンカチだろうと躊躇なく濡らした。ただし繊細に洗わなければならない。これはそういうモノなのだ。自分のハンカチをポケットから取り出して、ちょろちょろと流した水にさらしつつ、自分のハンカチで何度も叩いて汚れを流していった。



「朝からおまえは何をしているんだ」



 横から聞き覚えのある声がした。顔を見る間でもない。



「よう、遅かったな」



 作業を続けながらいった。



「10分前だ。問題ない。それよりおまえは何をしている」



 赤羽あかばね聖和せいわが俺の手元を覗き込んできた。



「ハンカチか」

「ああ。とても大事な、そして憎いハンカチだ」

「憎い?」



 聖和が眉をしかめて、訝しむように俺を見た。その目を見つめて、濡れたハンカチを聖和に見せつけた。



「見てみろ、このハンカチを。手縫いだぞ」



 聖和の表情が動いた。



「雫が作ってくれたのか」



 その言葉に、心臓が跳ねた。腕が震えた。膝が震えた。

 この白いハンカチに罪はない。しかし、どうしようもなく握り潰してしまいたい衝動に駆られてしまった。



「おまえはいってはならんことをいってしまったぞ、赤羽聖和くん」

「違うのか。まあなんでもいいが」

「よくねえだろ」



 睨みつけた。



「そういうところだぞ。興味のないことに興味を持とうとしないのは、おまえの悪い癖だ」

「なるほど。おまえにだけは絶対にいわれたくない台詞せりふだが、たしかにそのとおりだ。一時はどうなることかと思ったが、仁も高校に入って変わったということか。ならばちょうどいい。来月のゴールデンウィークに家族で旅行に行こうという話になっている。おまえたちも来い」

「興味ねえよ」

「おまえというやつは……さっきの今だというのに、真っ向から否定してきたな」

「興味ないものはない。行くんなら勝手に行け」



 そして、作業に戻った。

 まったくおまえは、とかいって聖和がため息をついた。



「とりあえず考えておいてくれ」



 はいはいと適当に答え、白いハンカチを自分のハンカチで軽く叩き続けて、ようやく満足がいくまでに汚れが落ちた。蛇口を閉めた。



「これで元通りだ。聖和、ハンカチ貸してくれ」



 濡れた手を突き出した。



「2枚もハンカチを持ってて、さらに人からハンカチを借りるやつなど、そうはいないだろうな」



 そういいながらもちゃんと貸してくれる。聖和はいいやつだ。



「それで、そのハンカチはどうした」

「教室で拾った」



 そこから教室で起こった一件を話した。正樹を生贄いけにえに捧げたことも話している。

 聖和がゆるゆると首を振った。



「さっそく問題を起こしたのか。仁らしいといえばそうなのだろうが、少しは自重したらどうだ」

「周りが敏感に反応しているだけだろ?」



 手を拭き、ハンカチを返して、洗い立てのハンカチを再度チェックした。

 汚れなどひとかけらも見当たらない。まさに完璧だ。


 そのときチャイムが鳴った。聖和が時計を見て「8時半5分前だ」といった。予鈴らしい。



「先に戻る」

「おい、聖和。今日も来るのか」

「ああ。直接行く」



 そういって聖和は颯爽と去っていった。



「あの、すみません。さっきの人ってお知り合い何ですか」



 女子だ。女子に囲まれてしまった。いつもどおりだ。



「1年5組の赤羽聖和。好きな教科は数学。好きな食べ物はスイーツ。特にケーキには目がない。彼女はなし。好きなタイプは物静かな女性。一見すると冷たそうに見えるが、意外とミーハー。芸能関係の話が好物だ」



 余さず情報を提供して差し上げた。女子連中が若干引いている様子だが、まあいい。こんな有象無象のことなど知ったことではない。


 囲みを抜け出そうとしたときに、薄手の黒いシックな服を着た美女が現れた。左の胸に赤いコサージュをつけている。誰かの保護者だろうか。それにしては若い。大学を卒業したばかりといわれても納得してしまう。多く見積もっても25歳だろう。彼女は俺を見て、そして視線を俺の手元に落とした。



「そのハンカチは落とし物よね?」

「え、はい。そうですけど……」



 この人のハンカチなのかと疑ってみたが、どうもしっくりこない。大人な女性はにっこりと微笑んで手を伸ばしてきた。



「渡しておくわ」

「……持ち主を知ってるんですか」



 彼女は何も答えず、ただ笑みだけを向けている。やわらかい包むような笑みだった。


 手放すのは惜しい。でも、このハンカチを作った子の気持ちを想うと渡さずにいられようか。その手にハンカチを乗せた。ただ、手放す前に今一度彼女の目を見つめた。



「絶対に還してあげてください。きっと持ち主もショックを受けてるはずですから」



 ええ、と答えて軽く頷いた。やっぱりこの人は持ち主を知っている。知りたい、と思ったが、答えてくれるとは思えない。もしかして近くにいるのかもしれないと思い周囲を見回して愕然とした。


 女子に囲まれていた。あらゆる方角から好奇の目が向けられている。これは知りたくない情報だった。


「お願いします」と伝えて、こそこそと退散した。ひそひそ声が追いかけてくる。教室に帰り、席についた。


 因果応報とはよくいったものだ。2つ前では正樹が机にぐったりと伏せているが、今の俺にはあいつの気持ちが痛いほどわかる。そうせずにいられないほど疲れている。


 本鈴が鳴ると同時に先生が入ってきた。



「はい、みんな座ってね」



 さっきの黒服美人だった。

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