第19話 訳ありソーサラー(4)

「冒険者だったの。でも、私は二人のこと、ほとんど憶えてない。おかしいよね。お母さんは私がもっと小さい頃に、事故で死んじゃって、お父さんたちは、ダンジョンにばかり潜ってたみたい。私は小さい頃から叔父さんの家に預けられてることが多かったの。でも、その日は、おうちで待ってた。それは憶えてるんだけどね」

 紅子は一度、ふうと息をつき、テーブルに頬杖をついた。

 長い黒髪が、さらっと肩に落ちる。

 窓に面した席には、眩しいほどに日が差し込んでいる。

 雲ひとつない良い天気だ。

「あの日は、雨だったな。私は、一人で退屈で、てるてる坊主作ったんだ。二人が雨の日に、ダンジョンに行くときは、いつもそうしてたの。ダンジョンって全部地下にあるって思ってたから、雨がいっぱい降って中に水が入ったら、二人が溺れちゃうって思ってたんだ。一人でヒマだったからね、ティッシュが一箱無くなるまで、いっぱい作ったよ。そういう、つまんないことは、憶えてる」

 少女の目許に、長い睫毛の陰がくっきりと映った。

「私は、6歳だったかなぁ。叔母さんが作って置いてくれてたご飯が、ラップかけてテーブルに並べてあって、私は一人でずっと、テレビ観たりお絵かきしたりして、二人を待ってたの。でも、いつまで経っても、二人は帰ってこなくって。次の日の朝に、叔父さんと叔母さんが来たと思うんだけど、あんまり憶えてない」

 それは幼い頃の記憶なのだから、無理もないだろうとシオンは思ったが、彼女は悲しそうに笑った。

「行きがけにね、『こっこ、行ってくるよ』ってお兄ちゃんが言ったような気がするんだけど、顔も、声も、全然思い出せないの。なんでかなぁ。自分の家族のことなのに」


 少し微笑みながら、彼女はテーブルを見つめた。父と兄のことを思い出しているだろう。

 彼女の話を聞いて、シオンも桜のことを思い出していた。


(じゃあね。シオン)

 そう言って、大人の男でも持ち上げられない大剣を軽々と担ぎ。

 仲間の車に乗り込んで行ったのが、最後に見た姿だ。


 忘れることはない。

 声も、姿も、表情も、鮮明に思い出せるけれど、いっそ忘れてしまえればと、何度でも思った。

 だから。

「思い出したくないことも、あるだろ。いくら、家族のことでも。大事な思い出でも。忘れてしまっていたほうが、いいこともある」

 そうシオンは言った。

 同じ喪失を味わった者なら、分かる。

 忘れたいから、忘れた。忘れようとした。それぐらい許されていいだろう。そんなことまで気に病んでいたら、残された者は悲しみに押しつぶされ、生きていくことさえ出来なくなる。

「うん……そうかもしれないね」

 紅子はシオンを見て、やはり微笑んだ。

「それでも、憶えていたら、よかった。二人の顔が、おぼろげにしか思い出せないの。特に、お兄ちゃんの顔は、思い出そうとしても、そこだけ何にも無いの。叔父さんと叔母さんが、残していたら悲しいからって、写真とかも全部捨てちゃったから……お兄ちゃんの友達とかも、全然分からないし、ほんとに、何も分からない。叔父さんたちは、お父さんとお兄ちゃんの話をしたら、怒るし……」

 明るい紅子の声が、小さくなるのが痛々しかった。

 忘れようとしても、忘れられないシオンと、忘れたくないのに、忘れてしまった紅子と、どちらも悲しい。比べられるものではない。

「だから、私が思い出さなきゃ、思い出の中に、お兄ちゃんの顔が無いの。それが、とても悲しいの」

「それが、浅羽がダンジョンに行きたい理由なのか?」

「……そうなのかな。分からない。ただ、ダンジョンには行きたいの」

 紅子が顔を伏せる。長い髪が白い頬を隠す。

「何かを、探しているのか?」

「……うん……そうだね……」

「浅羽?」


 まただ。

 また急に、紅子の目がどんよりと濁った。

 父と兄の話をしているときは、辛そうではあったけれど、その瞳に悲しみと、彼らを思う懐かしさが、表れていた。

 今は、何も無い。

 黒目の大きな瞳は光を失い、塗りつぶされたような漆黒だった。


「浅羽、どうしたんだ?」

「……私、ダンジョンに、行きたいの」

「どうして?」

「どうしても。行かなきゃ。だから、冒険者になるの」

「どこのダンジョンなんだ?」

「……分からない」

「分からないって、お前……」

「でも、行けば分かるの」

「浅羽……?」

「だから、行くの」


 絶対に、さっきまでの紅子ではない。

 そうシオンは思ったが、目の前に居て話しているのは、たしかに紅子だ。

 でも、あんなに朗らかな彼女が、いまは決められた言葉しか言えない人形のように見える。

 彼女のような少女が、人が変わるほどの、それほどの決意で、挑まなければならないダンジョンとは、どんな場所なのだろう。

 しかも、彼女本人にも分からないなんて。

 もっと詳しい話を聞いていいものか、一瞬悩んだ。


「はぁーい。お待たせしましたぁ~」

 間延びした高い声が響き、ミサホが食事を運んできた。

「カツ定食のキャベツ大盛りと~、デミオムランチのごはん大盛り~、お待たせしましたぁ~。アツアツだから、気をつけてくださいねぇ~」

「わあ、美味しそう!」

 と紅子が嬉しそうな声を上げる。

 暗い部屋に電気のスイッチが入ったかのように、その表情はたちまち明るく華やいだ。

 それはもう、シオンの知っている浅羽紅子だった。

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