迷宮のドールズ
オグリ
第1話 ワーキャットの少年(1)
(大丈夫よ)
声が聴こえる。
それは、耳で聴こえるものではなく、記憶だ。
もう記憶でしかないその声は、いまでも、鮮明に、鮮明に蘇る。
(なんにも、怖いことなんて、ないのよ)
優しく、力強い。
呪文のように、その記憶は蘇る。
――ああ。そうだ。
今度は、記憶の声ではなく。
心の内に、自分の声でそう響かせた。
大丈夫だ。
オレは、もう。
行かなきゃ。
ギィギィと騒ぐ声がする。
ネズミだ。
こちらの足音に気付いているはずだが、逃げる様子も無い。
耳障りな声は、先からかすかに聴こえてくる。
ネズミの鳴き声と、自分達の足音。
それ以外に音は無い。
ダンジョンとは魔物の腹そのものだと、昔の冒険者が言ったらしい。
敵は、獲物が腹の中に落ちてくるのを、闇に潜みじっと待っている。
対して、侵入者である自分たちは、音を立てずに忍び込むことなど不可能だ。
着込んだ鎧や武具が擦れ合う音。その身に着けたものの重みで、いっそう大きくなる足音。
それらをいやおうなく響かせながら、静かなダンジョン内を進む。
お前たちの餌はここだと、飢えた魔物たちに知らせているも同然だ。
しばらく、長い一本道が続いていた。
飽きるほどにひたすら続く真っ直ぐな道を、どれくらい歩いただろうか。
ランタンも懐中電灯の明かりも、通路の果てまでは届いていない。
目では見通せないが、この道の先はおそらく曲がっているか、分岐になっているだろうと、シオンは思った。
少なくとも、何十メートルか先で右に続くのは間違いない。ネズミの鳴き声がするのは、その右側からだった。
鳴き声がするとはいっても、人間の耳で捉えることは出来ないだろう。
ランタンの明かりも届かないほどの距離があるのだ。
そのうえ自分を含む四人のパーティーは、大きな足音を立てて歩いている。その足音に、小さな鳴き声などかき消されてしまう。
それほどの些細な音を、人間ではない
それは、敵の気配だ。
「――右にいる」
足を止め、シオンは呟いた。
後ろからついてくる者たちも、足を止めた。
ただのネズミなら無視して通り過ぎるが、ダンジョンに居るネズミは、もちろんただのネズミではない。
そもそも普通のネズミなら、人の足音に気付けば、とっくに逃げている。
侵入者の匂いを嗅ぎつけ、自らのテリトリー内で獲物の到着を待ちわびている連中。
大きさは、ドブネズミの十倍はある。小型の犬か猫くらいの大きさで、鋭い前歯で獲物を噛み砕く力は、人間の指くらいなら易々と食い千切る。
正式名はダンジョンオオネズミという。酷い名前だ。学者のセンスを疑う。名前通り、どんなダンジョンでも必ずお目見えするモンスターである。
こんなしょっちゅう遭遇する奴の名を、わざわざ長たらしく呼んでやる冒険者はいない。
「オオネズが、十匹くらいだ」
先頭をつとめるシオンは足を止め、静かに告げた。
幼さの残る顔立ちは人間と変わらない。が、明るい薄茶色の髪から突き出す耳は、人のものではなく猫のそれだ。
獣の耳はつねにひくひくと動き、ダンジョン内のかすかな音を拾っている。
背骨の下から伸びた細く長い尻尾は、穴を開けたズボンから外に出され、周囲の気配を探るかのようにゆらゆらと揺れている。
耳と尻尾を覆う毛色は、髪の色よりも少し濃い色で、尻尾にはうっすらと縞模様が入っている。
それ以外は、人間と同じ顔、体だ。
滑り止めのグローブをはめた両手には、しっかりとダガーを握り締め。
金色の瞳は、通路の先の闇を睨みつけていた。
シオンは冒険者で、関東地方のダンジョン探索を中心に活動している。
十四歳のときに冒険者になって、二年という経験は、初心者でもないが、熟練というほどでもない。
冒険者協会に登録したクラスは
愛用しているのは
通気性の良いジャージの上下に、中はTシャツ一枚。
それのみである。
見た目だけなら、近所のコンビニに行く格好と変わらないが、いずれも特殊魔糸で織られた冒険者御用達ブランド製だ。
中型の魔物の鉤爪くらいでは穴も開かないし、熱にもそこそこ強い。
とはいえ軽装には違いなく、衝撃は通す。
首には短いスカーフを巻いている。これも特殊魔糸製で、ささやかながら首許を守り、よどんだ空気の溜まりやすいダンジョン内で、マスク代わりにもなる。
ワーキャットは、亜人十二種族に分類される亜人の中でも、トップクラスの敏捷性を誇る。
ゆえにワーキャットの冒険者は、動きが制限されることを嫌い、重々しい装備を好まない傾向にある。
足許だけは軽装ともいかないので、底の厚いショートブーツを装備している。これも冒険者向けの特別製で、廃墟ダンジョンで大きなガラスの破片を踏み抜いても問題ない。
グローブを嵌めた両手には二振りのダガーを握り、盾は持たない。
剣を練習したこともあるが、あまり得意とは言えなかった。
獲物に素早く飛びつき、掻き切るのにはこのくらいの武器のほうがいい。
腰にも予備のダガーを四本差しており、体重の軽い少年にとっては少々重たいが、動きを妨げるほどではない。
ジャージのズボンには尻尾用に開けた穴がある。これは裾上げと一緒に、店で仕立て直してくれるのだが、動きの妨げにならないよう、それでいて中の下着が見えないようぴったりと、ちゃんと採寸して加工してくれる。
そこから伸びた尻尾は、シオンの意思とは関係なく、ゆらゆらと自由に揺らめいている。
亜人といっても、シオンの場合は、耳と尻尾がある以外はほぼ人間の姿をしている。それだけに、亜人の特徴をもっとも色濃く受け継いでいるはずの耳と尻尾が、かえって飾り物のように見える。
耳と尻尾だけなら、隠すのは容易だ。
人間のふりをしようと思えば、いくらでも出来る。
それでも、シオンは亜人だ。
そのことに特別、こだわりや誇りがあるわけではない。
ただ、事実としてそうなのだ。
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