地獄に咲いたバラの花

内乃加木

地獄に咲いたバラの花

それは、いつだって叶わないものだと思っていた。

単なる自分の勘違い、そう思っていた。

 でも、もしそれが勘違いでなく、ハッピーエンドを迎えられるというのならば、


 今、この時を全て捧げよう。



       Ⅰ


 僕が最初に彼女に会ったのは放課後の教室。

 一度家に帰ったが、忘れものに気づき取りに来たのだ。次の日は学校が休みのため、その日のうちに取りにいかないと忘れそうだった。完全下校時刻を過ぎた校内は人の気配がなく、少々不気味だった。早く帰りたいという思いがより一層増し、自分の教室へと急いだ。

 そして夕焼けが真っ赤に染め上げている教室に入った瞬間、彼女と目が合った。

 ほんの少し開いた窓から吹く風が彼女の長い髪をかき上げ、その一本一本が夕日を照り返していた。整った顔立ちで、スタイルのいい体はどこかのモデルだと言われても疑わないほどだ。

彼女は窓枠に寄りかかっていた体を起こすとこちらに向き直り、優しくささやいた。

「どうしたの? 私に何か用でもあるの?」

あまりもの美しさに見とれていた僕はその言葉でようやく動き出した。

「す、すみません。忘れ物を取りに来ただけです」

 僕は自分の机から何冊かの教科書を取り出すと、逃げるようにして教室から出た。

「気をつけてね」

 最後にちらっと見えた彼女の天使のような微笑みは脳裏に焼き付き、頭の中から離れることがなかった。

 これが、僕たちの初めての出会いだ。


      Ⅱ


 私には好きな人がいる。

 その人とは一度も会話したことがなければ、目を合わせたこともない。でも、一度見たときからずっとその人のことを考えている。

 初恋だった。

 しばらくして恋をするというのはこういう事なんだと感じた。中学一年生の私はちょっとだけ大人になれた気もした。

その人は同じ学年で一つ隣のクラスにいる。そのため、いつも少し離れたところから見ていることしかできなかった。自分の気持ちを伝える勇気もなく、どうしたらいいのかも分からなかった。

だけど今日、彼とほんの少しだけ話すことができた。

 これといった理由はないが何となくその人のクラスに行ってみた。すでに下校時刻を過ぎて誰もいなくなった教室でじっと空を見ていた。別に会えるとは思っていなかった。というか何も考えたくなかった。そういう気分だったのだ。

 なのに、こういう時に限って彼はやってきた。あまりにも予想外のことに私はどうしたらいいのか分からなくなってしまった。それでも高鳴る鼓動を抑え、冷静になろうと心掛ける。

『どうしたの? 私に用でもあるの?』

 結果的に自分の口から出てきた言葉は自分のものじゃないような気がした。

 最初の言葉はもっと別のものが良かったんじゃないか。

 もしそうだったら彼ともっと近づけたんじゃないのか。

 そんな後悔が私の周りに壁を作り、すべての音を遮断した。そのせいで彼の言っていることが全く耳に入ってこない。だからせめてものお詫びとして、最後は今の自分にできる限りの笑顔を浮かべ言葉をかけた。

『気をつけてね』


       Ⅲ


 僕がそれを恋なのだと実感したのはもう少し後のことだった。

 彼女に初めて会ってから時折あの姿が頭に浮かんだ。そのときはまだ、なぜこうなったのかが分からなかった。でも、あれからちょうど一週間経ったときその理由が分かった。

 その日の昼休みは特にすることもなかったので図書室に向かった。借りるほどではないが、興味のあるものが何冊かあったからだ。

 そういう訳で図書室に向かっていると、目の前から大きな段ボール箱をいくつも抱えている人が歩いてきた。顔が見えないため誰だか分からないが、おそらく先生ではないだろう。正直そのまま素通りしてもよかったのだが、そんなことできずに上の方の箱を何個か持った。

「大丈夫ですか? 手伝います・・・よ・・・・・・?」

 積み重なっていた箱をどかしてようやく見えてきた顔に僕は見覚えがあった。絶対に忘れるわけがない。

 だって、先週夕暮れの教室で見かけた彼女だったからだ。

 彼女も僕と同じように目を丸くし、動きが固まっていた。いや、少なくとも僕はそれだけじゃなかった。胸が高鳴り、体中が焼けるぐらい熱くなり、顔が真っ赤に染まっていくのが見ていなくても分かる。

「あの、ど、どうしたの?」

 彼女も頬を紅潮させながら、少し心配そうに僕に声をかけてきた。確かに自分の持っているものをいきなり取られたら僕でも驚くだろう。でもそれとは別に、彼女の手が小さく震えていた。どうしてかは分からないけど、とりあえず彼女を安心させた方がよさそうだ。

「大変そうだったから手伝おうと思って」

「・・・・・・え?」

 こういうのはあまり得意ではないから本当の理由をそのまま伝えてみた。彼女はそれを聞きまた驚いたような顔をした。なぜそんなに驚くんだろう?これが普通だと思うんだけどな。

「それで、これはどこに運べばいいの?」

 さらにもう一箱を自分の持っているものの上に積み重ね、彼女に行き先を聞いた。

「あ、えっとね、職員室に持ってってくれれば大丈夫」

「そう。だったら一緒に行こう」

「えっと、でも私、歩くの遅いよ?」

 その言葉は彼女なりの気遣いなのだとすぐに分かった。先に行ってさっさと終わらせた方が楽だと言いたいのだろう。でも僕はそうしない。

「二人で行った方が少しは楽しいでしょ?」

 僕の言葉で彼女の顔が明るくなるのが分かった。何か見ているだけで少し気分が良くなっていく。

 二人で職員室に向かうまでにいろいろな話をした。昨日見たテレビの話、最近興味を持っていること。周りから見たらどれも他愛のない話題だったかもしれない。でも僕はその時間がとても楽しかった。うれしかった。彼女とこうして話せていることが。

 だけど、楽しい時間というのはすぐに終わってしまうものだ。二人で荷物を運び終えると、

「手伝ってくれてありがとう」

 彼女にあの時以上の笑顔でお礼を言われた。このとき僕は自分の中に渦巻く感情の正体がやっと分かった。

 ああそうか、これが恋なんだ。

 さっさと走って行ってしまった彼女の背中を見つめながら僕はそう感じた。

「名前、聞き忘れた」

 何となくだが、また会える気がしたので追いかけてまで聞こうとは思わなかった。というか、このときの僕は少し浮かれていた。それほどうれしかったのだ

 だから、僕はまだ大事なことに気づいていなかった。


       Ⅳ


 その日の私は荷物を運んでいた。

 四つの段ボールを積み重ねているが一つ一つが軽くてそこまで疲れない。でも私の頭より少し飛び出していて前が見えないのはすごく不安だった。

 何人もの人が、先生でさえも私の横を素通りしていく。こんなものにはもう慣れた。誰も手を貸してくれない。それが当然になっていた。

「大丈夫ですか? 手伝います・・・よ・・・・・・?」

 だからそれは、あの人が助けてくれたのは完全に予想外の出来事だった。

 輝いて見えた。

 思わず涙が出てしまいそうになったが必死にこらえ、踊り出しそうな気持ちを押し殺した。

『あの、ど、どうしたの?』

 このときやってしまったと思った。このままでは彼を巻き込んでしまう。その恐怖で震えが止まらなくなってしまった。

彼は気づいていないのかそのまま話を進めていく。

「大変そうだったから手伝おうと思って」

『・・・・・・え?』

彼の言葉は純粋にうれしかったし、驚きもした。でも薄々分かってはいた。彼はこういう人なのだと。

「それで、これはどこに運べばいいの?」

『あ、えっとね、職員室に持ってってくれれば大丈夫』

 行き場所を聞かれたのでとっさに答えてしまったが、後から間違いだと気がついた。

「そう。だったら一緒に行こう」

 これ以上彼が私に関われば迷惑がかかる。だからこそ、何としてでも諦めてもらおうと思った。

『えっと、でも私、歩くの遅いよ?』

 頭の悪い私なりに必死に考えて出した答えがこれだ。この言葉だけで諦めてくれる気はしない。正直彼が手伝ってくれるということに少し期待してしまっている。それではだめなのに。

「二人で行った方が少しは楽しいでしょ?」

 だからこの言葉に私は普通に喜んでいたと思う。隠そうとも思わなかった。

 そこからは楽しかった記憶しかない。彼といろいろなことを話した。今まで笑えなかった分だけ、あるいはそれ以上多く笑っていたかもしれない。

 荷物を職員室に届け終えると、彼にお礼を言った。

「手伝ってくれてありがとう」

 簡単にそれだけ言うと彼からできるだけ距離を取るように走り出した。恥ずかしかったからではない。現実を思い出したからだ。

 人気のないところまで来ると立ち止まり息を整えた。その間に私の後ろには何人かのクラスメイトが立っていた。

 昼休みが終わるまであとほんの数分。それまでの辛抱だ。


       Ⅴ


 僕がその話を知ったのはつい最近のことだ。

『従者』と呼ばれている人が僕たちの学年にいる。一週間ほど前に友達の会話からその単語が聞こえてくるまで存在を知らなかった。というか僕が気づいていなかっただけで、至る所でその名前を耳にする。自分から望んでその意味を知ろうとはしなかったけど、周りの会話で大体どういうことかは理解できた。

『従者』自体の意味は主人につき従う者、というものだ。でもここでの意味はそんな優しいものではなく、誰の命令にでも従う者というものだった。

僕はこの人のことを助けたいと思った。二度とあんなことを繰り返さないために。

だけど不思議と情報が手に入らない。校内でなく学年内だからすぐに誰だか分かると思っていた。なのにクラスどころか性別すらいまだに分からない。誰かにその人のことを聞いても『名前は知っているけど、詳しくは知らない』返された。そんなこと絶対にあるはずがないのだ。だって、

誰も知らないなら、『従者』などと名付けられるわけない。

誰も知らないなら、僕が『従者』の存在を知ることはなかったと思う。

誰も知らないなら、

だから僕は、わざとみんながその情報を遠ざけているのだと思った。その考えにたどり着いてからは早かった。

まず同じ学年ではあるが顔も名前も知らならなかった人を捕まえると、しつこく問い詰めた。次に『従者』はいつ、どこに現れるのか、と。少々貧弱そうだったのを選んだのが良かったのかもしれないが、欲しい情報は簡単に手に入った。

次は待ち伏せだ。その人が現れるまでその場で待機する。といってもそんな簡単にできることではなく、時間になるまで学校の図書室にいることにした。

教えてもらった時間まであと一時間、何としてでも助ける。


       Ⅵ


 私が彼のことを好きになったのは入学して間もないころだった。

 私はいつも通り図書室に向かっていた。だけど図書室の前で言い争いをしている男子がいた。私はとっさに物陰に隠れ様子を見ていた。

一人は座りこんで動けないでいる人をかばうように立っている。残りの人は二人を睨みつけながら彼らのことを取り囲んでいた。

少し離れた物陰から見ていたため何を言っているのかは聞こえなかった。でも、どちらとも一歩も引く気配がないことはすぐ理解できた。

男同士の仕様もない言い争い、そう思っていたのにいつの間にか殴り合いに発展していた。見ている限り何が起きているのかははっきり分からなかったけど、結果はすぐに分かった。その場に残っていたのは座りこんで守られていた者と、守っていた者。この二人だけだった。他の人はすでにどこかに走り去った後だった。

かっこよかった。私は彼のことを見ていて最初にそう思った。でも私の感動はそこで終わらなかった。

残った二人の会話を聞いていると、

『大丈夫?』

『き、君こそ僕みたいな苛められっ子を助けてだ、大丈夫なの?』

『う~ん、これが習慣、みたいなところがあるから多分平気だよ』

 なぜ彼がこんな事をしたのかが分かった。すごいな、とも思った。

 ほとんどの人はいじめを見てもそれを止める勇気がない。だけど彼にはそれがある。私にはその強さが輝いて見えた。だって私にはないものだから。今も昔もその強さがあればいろいろ変えられたという後悔があるが、どうしようもできない。でも、彼だったら今の私だけでも助けてくれると思った。

 そのとき自分の胸の鼓動が速くなっていることに気がついた。それに体中が熱い。最初この感情が何なのか分からなかったけど、ある考えが浮かんだ。

 もしかしてこれがよく言われている、

「一目惚れっ!」

 思わず大きな声を出してしまい慌てて周囲を確認するが、すでに誰もいなくなっていた。ほっと胸をなでおろしたところでなぜか力が抜けてしまい、その場にぺたんと座ってしまった。

「ふふふっ、一目惚れ、か」

 彼のことを思い出しながらもう一度その言葉をつぶやくと、自然と笑いがこぼれた。

 自分の気持ちを再確認すると私は立ち上がり図書室に向かった。


       Ⅶ


「なんだ・・・・・・これ?」

 僕は時間になるまで図書室の本でも読んでいようと思い適当なものを取ったのだが、そこには信じられないことが書いてあった。なぜこんな事を書いたのかは書いた本人に聞けば分かる。幸いその人物にはこれから会う予定だからその時にでも聞こう。

「さてと、もうすぐ時間だな」

 予定の時間まであと少しとなったので読んでいた本を持って目的地へと向かう。ドアを開けると友達であったりそうでなかったり、よく分からないがざっと二十人近くの男子が僕のことを待っていたようだ。

「・・・・・・僕に何か用かな?」

「いや、お前が今から何をするのか気になってな」

 前に立っている一人にそう聞かれ、特に隠す理由もなかったため素直に答えた。

「人を、助けにいくんだ」

「それって、『従者』のことか?」

「うん、そうだよ」

「なるほど・・・・・・そうか」

 正直に話したはずなのに不思議そうな顔をされてしまった。

「本当にお前は、それでいいのか?」

 今度はまた違う人が質問してくる。

「どういうことか教えてもらってもいいかな?」

「あいつはさ・・・・・・俺たちのやってほしいことを全くその通りにやってくれる」

「・・・・・・」

 何となく、自分のことを説得しようとしているのが分かったが、とりあえず黙って最後まで聞いてみることにしよう。

「ほんのちょっとした雑用だけじゃない。ほんとに何でもだ。荷物運び、掃除、宿題、他にもいろいろやらせている奴もいる。この短期間で、俺たちがこの学校に入学してからあいつに頼んだことはもう数えても数え切れない」

 相手は身振り手振りでとても熱心に話している。彼らは『従者』にやらせているという自覚はあるようだが、あくまで『頼みごと』としておくようだ。

「俺たちはすでにこの生活に慣れちまった。少しでも何か面倒なことがあれば、あいつを呼んですべてを頼む。お前を除いたこの学年の奴らは必ず一回はあいつのことを使っている」

 ・・・・・・・・・・・・使っている、か。

 その言葉を聞いた瞬間、僕の中にある何かに小さな亀裂が入った気がした。

「いいか、よく聞け。お前はまだどれだけ便利かが分かってないんだ。何か一つでいいから頼みごとをしてみろ。そうすれば分かる。あいつが、あれがどれだけ使い勝手のいいものかすぐに分かる。だから、俺たちからあれを奪うな!」

 もう、我慢の限界だ。

 僕はそいつの口を塞ぐように顔を思い切り殴り飛ばした。友人なら少しは躊躇したかもしれないが、名前も知らないし顔も今日初めて見た奴だ。一切の容赦などしない。

「お、お前いきなりなにすんだ!」

 突然の出来事でみんな唖然とする中、たった今殴ったやつが口元を押さえながらこちらを睨みつけている。近くに白い破片が落ちているからおそらく前歯でも折れたのだろう。

 というかなぜ殴られたのか理解していないようだ。

「・・・・・・なんで殴られたのか、本当に分からないのか」

「ああ、俺は自分の意見を言っただけだからな!」

 その発言に僕はさらに腹が立ち、拳を壊れるのではないかというぐらい握り締めた。

「僕はまだ『従者』というのがどんな人なのか知らない。でも、あいつだって人だ。そのくらい会ったことがなくても分かる。なのに、お前は物扱いした。ああ、そうだよ。お前は人を物として扱ったんだよ! これがどういうことか、分かって言ってたんだよな」

 彼は僕の言っていることの意味が理解できたようで、自分の発言を後悔しているようだった。でも、人というのはそう簡単には変われない。

「う、うるせえ! そんなの俺の勝手だろう!」

 彼は血まみれの口から手を離し、ゆっくりと立ち上がる。

まったく・・・歯が欠けてるのによくそんなにしゃべれるものだ。ま、相手が負傷していようがいまいがやることは変わらないけど。

「それがお前の勝手なら、僕も好きにやらせてもらうよ」

 僕が拳を構えるとほかの数人も同じように構える。よく見るとその人たちは僕が今日初めて見た人ばかりだ。友人である人たちはこういう性格だと分かっているので、一歩後ろに下がって見守っていた。

 これは手加減する必要がないからとてもありがたい。

 まず一人が力任せに殴りこんできた。顔めがけて飛んできた拳を左手で外側に逸らす。最後に相手のあごを横から殴り、気絶させる。

 こういうとき何も知らない人だと見よう見まねの知識で鳩尾や首の後ろを狙ったりするが、テレビで見ているほど上手くいかないし、下手したら命にかかわるようなものだ。だけどあごを狙えば脳を揺らすことで軽い脳震盪を引き起こし、気絶させることができる。

 そういうわけで、向かってきた相手は力なくぐったりと倒れた。他の人はそれをみて一度足を止めたが、すぐに勢いを取り戻す。

 そこからはただ避けて、逸らして、かわしての繰り返し。たまにフェイントを入れ、隙があれば片っ端から意識を奪っていく。

「ふぅ・・・・・・」

 一通り片付くと大きく息を吐き体の力を抜く。そして友人の方を見ると、

「どうする、みんなもやるの?」

「そうだな・・・・・・」

 そのうちの一人がちらっと斜め下を見て何かを考えていた様子だったが、すぐに顔を上げた。

「ここまで来たからには、やるしかないな」

 やっぱり簡単には通してくれないようだ。

「こうしてやり合うのも入学式の後以来だな」

「・・・・・・そうだね」

彼に言われ入学して間もないころの出来事を思い出した。あの時からどうにか彼らを説得して今の関係を築いた。まだ一年も経っていないのにとても懐かしく感じる。

「すまんな。俺にはお前みたいな力がない。だからこうするしかないんだ」

 謝るのはできればすべて終わってからにしてほしい。

「それじゃ、いくぞ!」

 彼はわざわざ宣言してから跳びこんできた。僕はそれに応じるように右手を突き出す。お互いの拳が交差する瞬間、彼は僕にだけ聞こえる小さな声である頼みごとをしてきた。

「あの子のことを頼んだよ」

 そして僕は、生まれて初めて友人を殴った。


       Ⅷ


 どんなことでも慣れれば違和感なくできると誰かが言っていた気がする。でも人を殴ることはどうしても慣れることができない。

「痛ー」

 赤く腫れた右手を振って痛みを紛らわしながら目的地へ向かう。完全下校時刻が近づいた学校にはほとんど人がいないので誰ともすれ違うことはない。

 それより彼の、いや、おそらく彼らの最後の言葉が気になる。

 『あの子のことを頼んだよ』

 『あの子』というのはたぶん『従者』のことだろう。それ以外に思い当たる節がない。でもそんなことを言うぐらいなら、なぜ僕のことを襲ったのだろう? それに襲うならわざわざ僕のことを待っているより、不意打ちの方が効果的だ。なのに彼ら前者を選んだ。

 しばらく歩きながらその理由を考えていたが、すぐに分かった。

「彼らなりに一生懸命考えて『あの子』のことを助けようとした結果、か」

誰もいなくなった廊下に自分の独り言が響く。

そんな深く考えるまでもなかった。まず彼らが僕のことを襲ってきた理由を考えるべきだったんだ。

最初に何もせずに見ていたのが計画のうちだとしたら。先に殴りかかってきた連中だけ無力化するのが目的だったら。つまりは武力行使を躊躇なくしてくる人を鎮めるため、あるいは僕のことを邪魔すればどうなるかを知らしめるため。

それなら目標は達成できただろう。しかし、これだと見ているだけでよかった彼らが最終的に手を出してきた理由がないように思える。だがもし、僕がその時点で全員、完璧に意識を奪えていなかったら。まだ目を開けている者がいたらどうなるか。だから彼らは怪しまれないようにするために、襲いかかってきた。

ここまで自分の中で答え合わせをして僕は思わず笑ってしまった。

「はは、ははは・・・・・・なんだよ、ちゃんと変われたじゃん」

 人は簡単に変われない。でも彼らは僕の言葉で変わってくれたのだ。

すごくうれしかった。ちゃんと僕の言葉が届いてたってことなんだから。

・・・・・・・・・・・・あの時と違って。

彼らは僕みたいに強くないからこうするしかなかったと言った。でも僕からしてみたら、こうやって行動に移せているのだから同じかそれ以上の強さを持っていると思う。

そうこうしているうちに目的の場所に着いていた。そこは偶然にも僕の教室だった。

いや、もしかしたら偶然じゃないかもしれない。

一瞬そんなことを思ったがほぼ確実にあり得ないのでその考えを頭から消す。そして覚悟を決めるとドアに手をかけ、勢いよく開ける。

さあ、ご対面だ。


       Ⅸ


 慣れというのは怖いものだ。最初はぎこちなかったものも今では鼻歌交じりにできるぐらい余裕がある。

 普通だったら慣れることなどないものに私は慣れてしまったのかもしれない。

 『頼みごと』が終わったので、てきぱきと使っていた道具を片づけていく。そして軽く手を叩き付いていた汚れを簡単に落とす。

 時計を見ると完全下校時刻までもう少し時間があったから窓を開け、そこに体を寄せる。心地よい風が体をなでていく。窓の外に広がる景色は夕焼けで真っ赤に染まっていた。

「はぁ・・・・・・」

 ずっとこうしていたい。何も考えずにただ外の景色を眺めていたい。そうすれば嫌なことなんて何も起きないから。

 でもそんなことはできない。学校も閉まってしまうし、誰もそんなこと許してくれるわけない。いや、ただ一人だけそれを許してくれる人に心当たりがある。でもそんな奇跡起こるはずない。

「さてと、さっさと帰ろう」

 両腕を高く上げ体を伸ばすと窓を閉めて帰ろうとした。しかし、いきなり教室のドアが開き、誰かが入ってきた。


      Ⅹ


 そこにはあの女の子が立っていた。

 そこには私が好きな彼がいた。

 彼女の姿は何故だかすさんで見えた。

 彼がとても輝いて見えた。

 彼女は目を見開きとても驚いている。

 彼は何故か真剣な表情だ。


 だからすぐに気づいた。


 彼女が僕の救いを待つ者だと。

 彼が私の救世主なのだと。

 だから僕は彼女のもとへ歩いていった。

 彼が少しずつこちらに歩いてくる。


 そして止まった。二人の間の距離は物理的にも心理的にもたったの十五センチ。


       Ⅺ


 十五センチ。それは手を伸ばせばすぐに届く距離だが、彼はそうしない。これは彼女自身がまずどうにかしなければならない問題だと理解しているからだ。

「久しぶり」

 彼はなんとなく彼女が『従者』だと分かっていたようで、あまり驚いてはいない。

『ほ、ほら、もうすぐ下校時間だから帰ろう』

 彼女は慌てて自分の荷物をまとめ始めた。言葉や行動から分かりやすいほど動揺しているのだと伝わってくる。

 さっさと鞄を持って教室から出ていこうとする彼女に彼は、

「一つ、聞きたいことがあるんだけど」

 彼女のはその一言で動きを止めた。彼はその隙を見逃さず素早く質問する。

「君が、『従者』なんだよね」

 彼女は顔を下に向けていて彼のほうからは表情が分からなかったが、顔を上げたときには笑っていた。

『やっぱりばれちゃったか・・・・・・』

 彼はその言葉に違和感を覚えたが、何が引っ掛かったのかまでは分からなかった。それでも彼女は話を進めていく。

『できれば君のことを巻き込まずに、自分の力だけで終わらせたかったんだよ。だからできるだけ避けていたのに・・・・・・』

 彼女は一瞬だけ悲しそうな顔をしたが、すぐに明るい表情に戻った。彼はその些細な変化を見逃さなかったけど、なぜか口を出さない。

『まあ、だからさ。私は一人で大丈夫だよ。君は他にやらなくちゃいけないことがあるんだろうから私なんかじゃなくて――――』

 彼女の言葉が最後まで紡がれることはなかった。

 なぜなら、彼が彼女のことを唐突に抱きしめたからだ。この瞬間、二人の間の距離がゼロになった。

 彼女はいまだに何が起きたのか分からずに目を白黒させている。

『ちょ、えっ、な、なに・・・・・・・・・・・・?』

 そんな彼女に彼は少しいらだった口調で言った。

「なんで・・・・・・本音を隠すの?」

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・え』

「隠せてるつもりかもしれないけど、見てればすぐに分かるよ。本音を話せないのは誰かのせい? それとも、」

『ち、違うよ!』

 やっと彼女は落ち着きを 取り戻した・・・・・・というわけではないが、どうにか会話ができる程度までは回復している。そんな彼女は少し慌てたように訂正し始めた。

『本音を話すもなにも、私は本当のことしかしゃべってないよ? 何を言ってるの君は? 私は本当に大丈夫・・・だから。・・・うっ・・・・・・くっ・・・・・・あ、あれ? なんで私、泣いてるんだろう?」

 彼女は自分の頬を伝う涙を手で触り不思議そうに言った。彼はそのことを確認すると、より一層彼女のことを強く抱きしめる。

「なんか誤解してるみたいだから言っておくけど」

『な、なに・・・・・・?」

「僕が君を助けたいというのはこういう性格だからじゃなくて、純粋に君のことが好きだからだよ」

 その言葉を聞いた彼女の中で何かが壊れた。その証拠に彼女が今まで我慢していた涙が一斉にあふれ出てきている。

『ほんと、に・・・・・・私のことが好きなの?」

「ああ、そうだよ」

『うぅぅ・・・・・・ひっく・・・・・・うぅ、うううぅぅぅぅぅぅぅぅぁぁぁぁぁぁぁああああああああ」

 彼女は抱きしめてくれている彼の服をぎゅっと握ると、子供のように泣きじゃくった。彼はそんな彼女の背中を優しくなでながら一通り泣き終わるのを待つ。彼女にはそれだけ溜めていたものがあるのだ。

「・・・・・・ひっく・・・・・・私にはね、小学校四年生のときまで幼馴染がいたの」

 少し落ち着いた彼女の口からは昔話が出てきた。それでも自分から話し始めたことなので彼は静かに聞いている。

「男の子だった。別に恋愛対象ではなかったけど、彼氏といってもいいぐらい親しかった。でもねその子、四年生の終業式の後に死んじゃったの」

「それって・・・・・・」

 一瞬、彼の頭の中に交通事故とかだろうと思ったが、すぐに自分でその考えを否定する。それならわざわざ今その子の話をしなくてもいいのだから。そしてその答えはすぐに分かる。

「自殺だったの」

 彼女があまりにも普通に言ったため彼には最初何を言っているのか理解できなかった。

「私は後から知ったんだけど、その子いじめられてたの。教室は違かったし、だんだん会う機会が減ってたから気付かなかった。そのことを知ったとき、どうしたらいいのか分からなかったし、実感も湧かなかった」

 ここでさらっといじめられてたと出てきたが、いったいどれほどの仕打ちを受ければ小学四年生が自殺にまで追い込まれるのだろうか? その子はそれほど卑劣ないじめを受けていたのだ。

「だけどね私、馬鹿だったけど馬鹿なりの頭で一生懸命考えて答えを出したの。どうしたらこんなことにならないのかって。そしていじめられないようにすればいいって思いついたの。そのためには自分を殺して周りに合わせて、周りの意見に合わせて、出しゃばったりしない。だから私はそうしたの。・・・・・・なのに、」

「逆効果だったのか」

 彼女が言いづらそうだった部分を彼が引き継いで声に出すと、彼女は小さくうなずいた。

「そしてそれが、『従者』の始まり」

 やっと、話が現在につながった。

 ここでようやく彼女は彼の腕の中から抜け出す。しばしの間お互いのことを見つめ合っていたが、彼が先に口を開いた。

「今なら、君の本音が聞けるかな」

「うん」

 誰にも見せたことがないくらいの明るい笑顔で彼女は『頼みごと』をする。それは彼女が『従者』ではなくなったということだ。


「私のことを助けてくれる、素敵な彼氏になってください」


 彼女の全て思いがここに凝縮されている。彼は思わず口元を緩めてしまった。

「もちろん、断る理由なんてないよ。僕の残りの中学生活を、今からの全てを君のために捧げる。だから期待していてくれ」

 そう言いながら彼は手を差し伸べた。それは彼女のためだけに差し出された救いの手だ。もちろん迷う必要なんてない。

「ふふふ、こんな不思議な関係の中学生の男女なんて私たちぐらいだろうね」

 彼女はとても楽しそうにその手を取った。

「いや、世界中探したら案外いるかもしれないよ?」

 二人は笑い合いながら教室の外へと向かう。この先に何が待っているかは分からないが、そんなもの気にせずに進む。それが二人の選んだ道なのだから。




 さて、ここまでは単なるプロローグにすぎない。

 ここは終点なのではなく、すべての起点。

 二人の本当の物語たたかいはここから始まる。



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地獄に咲いたバラの花 内乃加木 @nagitou

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