幸福
アーロンは、アンに連れられてコレット家が所有している乳牛の飼育小屋へと来ていた。
ここへ来て数分の間は、他愛無い談笑に花を咲かせていた二人であったが、ひとたびアンが件の話を振るとアーロンは俯きながら黙りこくってしまった。
「・・・・・そんなに私に話したくない?」
アーロンは元来あまり表情を表に出さない人間だ。しかし今は、顔は青ざめ表情は憂色の色を湛えている。
「うん、正直なことを言えば話したくない」
「それなら‥‥‥」
アーロンの様子を見兼ねて、それなら話さなくても良いと発しようとしたアンだが、それを遮り、何かを決意したようにアーロンが言葉を紡いだ。
「でも、これは君にこそ話さなければいけないことなんだ‥‥‥」
「え?」
てっきりアーロンと父親だけの問題だと思い込んでいたアンは、意表を突かれ素っ頓狂な声を出した。自分が関わっているなどとはふつと考えていなかったのである。
「アンは俺が、将来何になるのが目標か知ってるよな」
「うん、お城の近衛騎士よね。だって騎士様になるために二年間も家を空けてたんでしょ?」
「うん。そのつもりだったんだけど……騎士になるの、断ったんだ」
アーロンの告げた言葉に、アンは言葉を失った。
イーニアス王国は諸外国に比べて強大な軍事力を有している。その理由としては他国に比べて単純に兵が多いことにある。
イーニアス王国の軍組織は二種類存在する。いや、厳密に言えば一種類と言えるが、内部の事情を知らぬ者には些細なことであろう。
まず一つは近衛騎士隊である。
これは常にイーニアス城に常駐する、精鋭のみで組織された部隊である。近衛騎士隊だけで他国の軍と同等、もしくはそれ以上の戦闘力を有していると噂されている。
退役後は、入隊前の身分に関わらず貴族として扱われ、兵役中に支払われる給料も国の職業すべてと比較しても圧倒的と言えるだろう。
もう一つは兵士団である。
これは国の各所を警備して回り、事件やトラブル、犯罪が起こった際に即座に駆けつけ解決にあたるというのが主な仕事だ。
もちろん、大事の際には近衛騎士隊の指揮下に入り、戦闘もこなさなければならないため、それなりに戦闘力が求められるが、一般人が努力をすれば入団できるといった程度の入団条件である。
しかし兵士団と比べ、近衛騎士隊の入隊条件は熾烈を極める。
二十歳から志願することができるのだが、戦闘能力はもちろんのこと、常に城に駐在するため、高度な礼儀作法を身に着ける必要がある。
また、入隊には近衛騎士隊員の推薦も必ず必要となる。
推薦を受けた新隊員が何かミスをすればその責任は推薦をした隊員にも及ぶため、現在では八歳から二十歳までの十二年間の間、近衛騎士に子供を預けて戦闘技術と礼儀作法を学ばせ、その歳になったら教育をした近衛騎士が推薦をして入団するというのが慣例となっている。
厳密に言えば、まず預かった八歳から十歳の間に、預かった子供に才能があるのかどうかを見極める、才能があると判断すれば、一度親へ正式に預かることを告げて十歳から二十歳の間に本格的な教育を施すというのが一般的である。
アーロンはこの二年の間、知り合いの近衛騎士の屋敷で教育を受け、その戦闘のセンスと学習能力を認められた。そして一ヶ月ほど前、正式に預かる許可を取るためにその近衛騎士と共にこの西地区へと帰ってきたのだ。
「な……なんで……?」
アンが驚愕するのも至極当然のことだった。アーロンはその輝かしい未来を自ら手放そうというのだから。
そもそも普通の農民には、騎士になるチャンスなどというのは一生に一度たりとも訪れることではない。理由は単純に近衛騎士との関係を持つことが無いからである。
如何に腕が立ち、礼儀作法に精通していたとしても、近衛騎士の推薦無しでは近衛騎士隊には入隊できない。
しかし、フレンザー家は西地区の最も入口に近い場所に家が建っているため、大事の際には近衛騎士隊や兵士団の詰め所として利用されることとなっている。
そのため年に何度か、緊急時の備蓄や備品を確認するために近衛騎士が家を訪れていた。
アーロンの父、アブナーはそのとき家へとやってきた騎士に、アーロンを近衛騎士にするべく教育してくれるよう頼み込み、なんの気まぐれか、その騎士は引き受けてくれることとなったのだ。
そしてその騎士にアーロンは実力を認められた。
奇跡が幾重にも重なった結果、アーロンに近衛騎士になることが出来るチャンスが訪れたのだ。
そんな千載一遇の機会をアーロンは捨てたと、たしかにそう言ったのだ。
「なんで……断ったの?」
未だ驚愕の渦より戻らないアンが、それでもアーロンへ問いかける。対してアーロンはアンの目をまっすぐに見据えて答えた。
「アンの為さ」
「……え?」
またもやアーロンから予想せぬ言葉が掛けられる。
当のアンはと言うと驚愕を通り越し、唖然としていた。
「三年前の約束、覚えてるか?」
「三年前……?」
「ああ、今と同じこの飼育小屋でさ、その……将来は嫁に貰ってくれって」
「あ……」
アンはそのことをしっかりと覚えていた。
そもそも三年前にこの話を切り出したのはアンであったので当然と言えば当然の事だ。
当時、同世代の子供の中でもませていたアンは、この飼育小屋へ手伝いに来ていたアーロンに、将来は結婚しようねと、そう言ったことがあるのだ。幼少のアーロンはよく意味が分かっていなかったようで二つ返事でそれを了承した。
しかし、そのような様子であったため、アンはアーロンの方が覚えていないだろうと考えていた。そのため、約束は自然消滅するだろうなと残念に思いつつも、わざわざ口には出さずにいたのだ。
「覚えててくれてたんだ。嬉しい」
「当たり前だよ。俺はアンと結婚することだけを目標にこの三年間を過ごしてきたんだから」
顔色一つ変えずにそう話すアーロン。対して聞いたアンは顔を赤くして、しかし胸に残る疑問をアーロンへと問いかけた。
「で、でもその事と近衛騎士になるのを断ったの、どう関係あるの?」
「……俺も、一か月前にここへ戻ってきたときは近衛騎士になるつもりでいたんだ……でも‥‥‥」
顔を俯かせるアーロン、一瞬の逡巡。しかしすぐにその目はアンへとまっすぐに向けられた。
「アンの家の様子を見て……やっぱり近衛騎士になるよりも、アンの傍にいて支えてあげなきゃって思ったんだ……」
「っ! もしかして‥‥‥!?」
「ああ、アンのお母さんや、家の事でさ」
アーロンが預けられていた騎士の家より、二年の時を経て西地区へと帰ってきたとき、アンを取り巻く状況は実に酷いものであった。
後にアーロンが近所の住人に聞いた話だと、状況の悪化はアンの母親が病を患ったことから始まったらしい。
母親が病床に伏したことで馬車の駆り手が居なくなり、そのせいで出荷が成り立たず、コレット家が契約していた商売人との契約が切れ。生活費のために売ってしまったのか、はたまた、働き手が居なくなり飼育がうまく行かなかったのか、アーロンが騎士家へ発つ前は、数十頭の牛が居た飼育小屋に、彼が帰ってきたときには僅か数頭の牛しか残ってはいなかった。
そのような状況でありながらも、手を貸さない周りの人間と、家業を維持せんと健気に牛の世話をするアンを見てから、アーロンは騎士となる道を捨て彼女を手伝おうと決断したのである。
そもそも彼が騎士にならんと努力をしていたのは、国のためだとか、父親が騎士にアーロンを預ける約束をしたからだとか、そういった理由ではなく、ただ単に自分が騎士となれば、それからは一生アンへ楽をさせてやれるのではないかという、それ一念のためであったのだから。その決断も当然の道理であったのだろう。
「そ、そんな‥‥‥? じゃあ、私のせいで‥‥‥!?」
声をわななかせ、愕然とした表情でアンは言った。その瞳には、否定してくれと言わんばかりの
だが、アーロンはアンのそのような感情を汲み取りながらも、しかし彼女の言葉を否定することは無かった。彼のアンに対する誠実さは、彼女が嘘を望んでいることが分かってなお、嘘をつくことを許さなかったのだ。
「いや、アンの事を思っての事なんだ‥‥‥ごめん」
その謝罪は嘘をついてやらなかったことに対してか、それとも己が騎士への道を断念したことによって、アンの心に影を落とすことになったことに対してなのか。
「ごめん‥‥‥。私の方こそ‥‥‥本当にごめんね‥‥‥」
目に涙を溜めて、俯きながら、謝罪の言葉を紡ぐアン。
「やめてくれ‥‥‥。俺は別に騎士なんかに興味はないんだ。アンを幸せにしてやれるなら、騎士になってやろうと思ってただけなんだよ」
涙を浮かべるアンを見て、慌てて、しかし言葉はアンを刺激しないようやさしさを込めて、アーロンは彼女に語る。
「だから、俺が騎士になるための勉強に明け暮れてる間に、アンが苦しんでいて、でも、俺はそれを助けることが出来ないっていうのは本末転倒だと思ったんだ」
「でも‥‥‥」
それでもなお、謝ろうとするアンの言葉を、アーロンは自分の胸を叩きつつ笑顔で元気づけるように遮った。
「大丈夫だって! 俺は全く気にしてないんだからさ! だからもう泣かないでくれよ。俺はアンの笑顔を見ていたい」
「‥‥‥うん! 分かった。 ごめんね!」
未だ、目尻には涙を浮かべ、頬を赤く染めながらも、アンはアーロンの目を真っすぐに見て出来うる限りの笑顔を浮かべた。
「ははっ! だから謝るなって!」
笑顔を浮かべたアンに、アーロンも全開の笑顔を以って答える。
「あっごめ‥‥‥あ、あれ?」
「あっはっはっはっ!! いやぁ。 くくっ! おっちょこちょいというかドジというか‥‥‥」
「い、いや、だってぇ。もぉ~そんなに笑わなくてもいいじゃん!」
「悪い悪い‥‥‥。まっ、じゃあそろそろ戻ろうか。まだまだ仕事は残ってるんだろ? 俺も家の仕事を手伝い終わったら、すぐ行くからさ」
アーロンが、手を差し出した。
「‥‥‥うん。ありがと」
その手に、自分の手を重ねるアン。迷いは無かった。
そしてその手を互いに、優しく握りながら、二人は飼育小屋を後にした。その後ろ姿は誰が見ても、幸せな二人の少年少女の姿に他ならぬものであった。
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