夜は更け、誰もが寝静まった頃、のそっとアシュはベッドから起きた。窓を開けると、そこには月明かりが瞬いていた。彼はしばらくそれを見続けて、立ち尽くす。

 そんな真面目な表情を浮かべていた主人に、執事がダージリンティーを注ぎながら答える。


「ご安心ください。外で張っていた刺客は全員去りました。新たに結界も張り直しましたので、警戒をする必要もないでしょう」

「そう……か」


 側で控えていた執事のミラの説明に、アシュが頷く。まさか、彼ら12使徒も教え子が危機の時にデートに勤しむとは想像もつかなかったであろう。なんの成果も上がらぬまま、すごすごと撤退していった彼らの後ろ姿がなんとも切なかった。

 しかし、そんな有能執事の説明を聞いたにも関わらず、白髪の魔法使いは未だ窓の外を眺め続けている。


「まだ、どうかなさいましたか?」

「……人は月を見て、さまざまなことを想うものだな、と。

 ある宗教学者は月を見て、こう言った『月は神々が生み出した聖なる星だ』と。

 また、ある学者は月を見てこう言った。『月はこの地上と同じ形をしているのだ』と。

 そして、師匠のヘーゼン=ハイムは言っていたよ。『月の魔力を利用して、究極の魔法はできないだろうか』と……不思議だな」

「……」


 アシュは月に関する論文を多数生み出している。闇の中に大きく瞬く光。大陸中の誰もが一度は月を不思議に思うだろう。しかし、捉え方によって万華鏡のように変わる月は、見る者すべての心を捉えて放さない。


「……ところで、彼女たちは全員寝たのか?」

「はい。しかし、それがどうかなさいましたか?」

「……確認しに行く」

「……」


 ああ、こいつどうかしてるわと、ミラは思った。


 至極真面目な表情を浮かべていたアシュは、別に外の刺客を警戒していたわけじゃなかった。高尚な物思いにふけっていた訳でも、決してなかった。ただ月が隠れた瞬間に『覗き日和』だとでも思っいたに違いない。

 しかし、そんな主人の出歯亀を止める術はない。この男は、一度決めたら必ずやる。それが、どれだけ間違っていようとも。どんな批判を浴びようと。どれだけ困難なことでも。


 なんという無駄な信念、とミラは心の中で嘆く。


 そんな執事の失望など知るよしもなく、ダージリンティーを一口飲んだアシュは行動を開始。無駄にファサとマントを羽ばたかせ、ドアの音が立たないように開ける。


「これが凡人にはなかなか難しい。ドアというのは、木の摩擦音がどうしても出てしまうからね。天才である僕は手に魔力を込めて、全く音の立てぬドアの開け方を開発した。魔力の流し方がすごく難しいので、今のところは僕にしかできない」

「……今、アシュ様の説明を聞いて人形の身ながら思いました。私は、心底凡人でいたいと」


 そんなミラの言葉に、フッと勝ち誇ったように笑みを浮かべるキチガイロリコンエロ天才主人。『この発明には3ヶ月以上費やして云々』もはや、ドアの音よりも遙かに耳障りな騒音は、聞くに堪えない。と言うか、逆にうるさい。


 禁忌の館の廊下を、足音を立てずに忍び込むエロ魔法使い。いつもより、表情は生き生きとしている。教え子の出歯亀など、見つかればアシュの学校内の地位は破滅。教師陣にも知られれば、世間から後ろ指さされるロリコン教師の汚名をウケなくてはいけない。


「ククク……面白い」


 自分で自分を勝手に追い込んだ時点で、アシュは笑った。それは、絶対的な緊張感が発生した時に沸き起こった興奮。アドレナリンが分泌され、まるで、スリルを楽しんでいるかのような。


 ああ、真性の変態だわ、とミラは思った。


 アシュは暗闇の廊下を歩く。ポタッ……ポタッ……額からは汗が流れていた。それだけの集中力と緊張感をなぜ他の場面では一切発揮しないのだろうと、ミラは心底不思議に思う。


 そして、もう少しでシスの部屋の前に辿り着いた時、窓から月の灯りが照らされた。まるで、キチガイ変態主人を制止するように。アシュは忌々しそうに、チッと舌打ちをして、再び月を真剣な表情で眺める。


「別に月が照らされているからと言って、気づかないのでは?」

「……誰かに見られてる気がして、集中できない」

「……」


 いや私見てますけど、とミラは心の中で突っ込んだ。しかし、これほど月の灯りを気にするのは、根底の根底には後ろめたさがあるのだろうか。

 しかし、恐らくアシュという男は大陸一罪を犯しているだろう。


 覗き程度が罪の優先順位の上位であると言う事実が、ミラにとってはすごく残念だった。


 そんな有能執事のジト目を気にするはずもないアシュは、未だ真剣に月を眺めていた。

 その時ガチャッとドアが開いた。そこには、シスがネグリジェ姿で立っていた。そこまで大きな音は立てていないのだが、どうやら聴覚のいい彼女は外の気配で気づいたようだった。


「あれ、アシュ先生こそどうかしたんですか?」

「……月を見ていた。人は月を見て、さまざまなことを想うものだな、と。

 ある宗教学者は月を見て、こう言った。『月は神々が生み出した聖なる星だ』と。

 また、ある学者は月を見てこう言った。『月はこの地上と同じ形をしているのだ』と。

 そして、師匠のヘーゼンは言っていたよ。『月の魔力を利用して、究極の魔法はできないだろうか』と……不思議だな」

「……アシュ先生って、いろいろ考えているんですね」


 ミラは、秒でシネバイイノニ、と思った。



 


 

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