逃亡


 ミラは、アシュによって生み出された人形だ。主人と同様の深い知識を持ち、ダメ主人のダメさをカバーするために、あらゆる世話をこなすように作られている。それゆえに、甚だ不本意ながら、主人の危険に対しては事前にそれを察知して排除することができる。例外は、主人に忠告したにも関わらず、恐ろしいまでの自惚れで無視された時ぐらいである。


 しかし、そんな彼女がローランの罠に気づくことができなかった。


 理由は、サレナという女性が本当に病気であったこと。仮に、彼女に毒を盛っているのならば即座に気づいたであろう。しかし、彼女を病気にすることは主人のアシュでさえできはしない。


 基本的に彼女の行動規範はアシュの能力を上限と捉えている。必然的に彼を超える芸当を想定するようにはできていない。


 ローランはある意味アシュ以上の行為でミラを騙した。


 それは、酷く単純で。


 タネさえわかれば誰でもわかるような方法で。


 彼はただ繁華街を歩き、彼女を見つけた。ただ、それだけだった。偶然ジライド病に侵されており、幸運にも美しいを。


 いくらかのお金を渡し、彼女をアシュのいるバーで飲ませるだけ。部類の女好きで、存在自体が自尊心の塊。卓越した知識を持ち、光魔法の使えぬ男。そんな彼が、彼女に声をかけ、一目で病気を見抜き、執事に治療させることは想像に難くなかった。


 しかし、それも数ある罠の一つ。ハマればよし、ハマらなければ別の罠を発動させればよい。ローランにとっては余興程度のものである。


 一方、長い年月を経て、アシュ=ダールは弱くなった。


 当然、魔法の知識と魔力においては大陸最強クラス。しかし、ミラという完璧執事を創り出したことで、ヘーゼン=ハイムという最強魔法使いがこの世にいないことで、不死という呪いが生への執着心を失くさせたことで、あらゆるものごとの警戒心が薄くなっていた。


「……ククク、で? 一人になれば、君は僕に勝てるとでも?」


 闇から現れたローランを見たとき、アシュは遅まきながら全てを悟った。人のいない大広場。襲いかかるにはもってこいのこの場所で、黒髪の男と対峙する。


「ええ、そう思っているからこの場にいるんですが。まあ、あなたがヘーゼン=ハイムの時みたいにコソコソと逃げまわらなければね」


「……」


 挑発だとはわかっていたが、非常に面白くない闇魔法使い。あの最強魔法使いから逃げ回ることが、どれだけ大変だったことか。事実、彼以外の標的は例外なく無惨な最期を迎えている。


「まあ、僕はハイム家を継ぐ者として後始末をして差し上げますよ。時代遅れの最強魔法使いの代わりにね」


「……随分と自分の実力に自信があるんだね。僕にそんなナメた口を聞いた者はロクな結末にならないと相場が決まっているのだが」


 そんな風に答えながら、アシュは周囲の状況を確認する。ちょうど広場は円形闘技場と同じくらいの大きさである。


 狭いな。


 それが、百戦錬磨を潜り抜けてきた闇魔法使いの感想だ。障害物のない空間は、周囲のものを狡猾に利用するアシュにとってはやりにくい以外のなにものでもない。まして、相手に用意されたフィールド。どこに罠が潜んでいるかわかったものじゃない。


 <<深淵よ陽の者に絶望の闇を>>ーー漆黒の空虚ダル・ガブラス


 アシュが唱えた瞬間、


 月、星、魔街灯。全ての光が失われ、


 身を翻して全力で走る。


 逃げる。


 逃げの一手。


「ふはははは……また、会おう。愚かな若者よ。あらためて、僕のミラでボッコボコにーーブッ!?」


 突然見えない壁にぶち当たって転倒する闇魔法使い。


「クク……当然、逃げ足は早いと聞いていたので、手は打たせてもらいましたよ」


 黒髪の男は、低い声で笑った。











 

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