歪み
ホグナー魔法学校特別クラスの教室。始業のチャイムが鳴り響く中、教壇には誰の姿もない。
「……遅い」
朝の6時に登校し、最前列ど真ん中に陣取っているリリーに怒りマークが一つ。隣にいるシスもまた心配そうな顔をして頷く。
「本当にねぇ。なにかあったのかな?」
「なんにもないわよ。絶対になんにもない。あいつはミラさんに雑用押し付けて凄――く暇なはずだから。面倒な用事があっても全――――部ミラさんに押し付けるから」
「そ……そうね」
今はなにを言っても無駄だ。長年の付き合いから、怒りの具合を把握しているシスである。
その時、ミラが教室に入ってきた。
「申し訳ありません。アシュ様は本日まだ来ていません。したがって、代わりに不肖ながら私が授業をさせていただきます」
そう言ってホワイトボードに高速で文字を書きだす。1秒間に30文字ほど書いて、2分後にはホワイトボードがびっしり文字で占められた。
「あ、あのミラさん。それは、なにを書いたんですか?」
リリーが恐る恐る尋ねる。
「えっ? 今日の授業の話す文字です。聞き逃したら申し訳ありませんので。教科書237ページを開いてください」
ミラは淡々と、授業を始める。
「聖信魔法の第一人者である、セーレス=リーガは光真歴38年に……」
「……」
びっしりと絶え間ない文章がスラスラスラスラ。彼女は呼吸もしないので、ほぼ45分間休みなしで言葉を並び立てる。
「以上、ここまでで質問はありませんか?」
「……」
「そうですか、よかったです。では、次の章に移りましょうか?」
そう言って、ホワイドボードを神速の速さで綺麗にして、返す刀でびっしり文字を埋める。実にこの45分間で、3日分の授業が終わろうとしていた。そして、この授業を受けていた生徒たちの感想。
ちょ……超つまんない。
そんな時、再び扉が開いた。そこには、アシュが相変わらず不敵な表情をして立っていた。
「あ―――――! なにを今頃来てるんですか!?」
嚙みついたのは、いつものごとくリリーだった。アシュはその大声を耳に手を当てて躱し、彼女の元へと近寄った。
「リリー君……」
「な、なんです――ふにゅ!?」
アシュはリリーの頬っぺたを両手でギューっと圧迫。それから、つまんでその柔らかい頬を横に引っ張った。
「ふむ……なかなか柔らかくて弾力がある。健康状態は良好のようだな」
「ひ
その様子を見ていたシスが心配そうにアシュを覗き込む。
「先生。いつもと様子が違いますが、なにかあったんですか?」
「……いや」
アシュはリリーの頬を離してシスの頭を優しくなでる。
「ったたたた。先生! 暴力反対! 教師による暴力は反対です!」
リリーが頬を抑えながらブーたれる。
「あんまりにも生徒甲斐がない君への罰だよ。別の言い方をすると優しさと配慮がないということだがね」
「な……なんですって?」
「普通は、いつも来ない授業に遅れてきたらその人の心配をするのが人として当然の配慮ではないかね? それを、君はガミガミと遅れた理由をまくしたてて。遅れた理由については敢えて聞かない。それが、人としての優しさと言うものじゃないかね?」
「ぐ……ぐぎぎぎぎ」
必死に歯を食いしばって反論しようとするが、これもリリーの負けである。悔しそうに着席してホワイトボードの文字をノートに書き写し始める。
「さあ、授業を始めようか……と言いたいところだが、僕とミラは少し用事があってね。自習をしててくれたまえ。さあ、行こうか」
アシュはミラの手を引き、この特別クラスを颯爽と後にした。
残された生徒たちは呆然。この堂々とした授業放棄に誰もが言葉を失う。
「……なんなのよ……なんなのよいったい―――――――!」
特別クラスで叫んだリリーの大きな咆哮は、別校舎まで響き渡ったという。
一方、アシュ。ミラの手を引いて歩き出す。教室の扉を覗いては、人がいるのを確認し、また歩き出す。
「あの……アシュ様。どうかしたのですか?」
「……」
アシュはなにも答えずに、また教室の扉を覗いて人の有無を確認する。
やがて、誰もいない教室を見つけたアシュは、そこに入って、教室のカギを締めた。そして、すぐにミラを力いっぱい抱きしめた。
「アシュ様……」
「う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛っ……う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛……」
泣いていた。ミラの首に額を置いて、涙を流して唸るアシュ。
「……」
「また……また……駄目だったよ……今度こそはと思った。彼女の憎しみは本物だった。彼女の想いは……でも……駄目だった……」
「……そうですか」
「なあ、教えてくれ! どうすれば僕を殺せる? 僕はいつまで生きていればいい? 僕はいつまで……もう……一人になるのは……嫌なんだ……う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛っ……」
アシュは極端に己が傷つくことを恐れる。なぜなら、彼が死ぬことができないという事実をつきつけられてしまうから。死ぬことじゃなく、死ねないことを知ってしまうことが、なによりアシュの恐れることだった。
「……アシュ様……私がいます。私が、ずっとあなたの側にいますから」
ミラは優しくアシュの肩を抱いて、そっと頭を傾ける。
アシュが2人目に愛した女性はレイアと言った。30歳の時に彼女と出会い恋に落ち、彼女もまたアシュを愛した。それから、2人は結婚した。彼女が老いて、アシュは若いままだったがその関係は変わることなく、二人は愛し合ったままだった。
やがて、アシュが70歳になった時、彼女が他界し一人になった。これ以降、この闇魔法使いは、深く人と関係を持つことをやめた。彼女を失った哀しみはあまりにも深く、その傷を再び負ってまで人を愛する勇気は持てなかった。
それから、50年の歳月が経ち、アシュは一体の人形を創り出した。永劫を超えた先まで連れ合っていけるような人形を。アシュが一人残されても寂しくないような玩具を。アシュの全精力をかけて創り出した。
「ああ……ああ……そうだな。僕には、君がいる……ミラ……早く君に、喜怒哀楽をつけてあげよう。そうすれば、君は人間になれる」
そうアシュは一転満面の笑顔を浮かべてミラの頬を撫でた。
それを……笑顔と呼ぶにはあまりに綺麗過ぎて、それは酷く歪んで見えた。
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