四、夏休み
定期試験が終われば、待ちに待った夏休み。
それでも、やれバイトだ、やれ映画だ、と日々のスケジュールをこなしているうちに、あれよあれよという間にお盆がやってきて。
無事印刷が間に合って夏コミ会場に直接搬入された部誌は、かなり好評だったと聞いた。
うっかり夏風邪を引きこんでしまい、会場には顔を出せなかったので、せめて部室に置いてある残部を一冊もらおうと、殆ど人のいない大学へ顔を出したのは、八月の終わり。
一部の体育会系クラブは部活をしているみたいだったけれど、文化系クラブのひしめくクラブハウス三階は廊下の電気すらついていない状態で、まるでホラーゲームに出てきそうな雰囲気だ。
日中は暑いからと、夕方に寄ったのが失敗だった。さっさと部誌を回収してバイトに向かおう。そう心に決めて、足早に廊下を進む。
夏休み中のこんな時間だ、まさか誰もいないだろうと高を括っていたのに――最奥の部室の扉からは、明かりが漏れていた。
ちょっと嬉しくなって、軽やかに扉を叩く。
「こんにちはー」
勢いよく扉を開けると、そこにはヘッドホンを装着し、コントローラーを手にしたコンノさんの姿があった。
「あれ? 吉川さん。どうしたの、こんな時間に」
驚いたようにヘッドホンを外し、そう尋ねてくるコンノさんだけど、それはどちらかというとこちらの台詞ではないだろうか。
「コンノさん!」
「いやー、久しぶり。夏コミの時、風邪で倒れてたんだって?」
レアキャラと囁かれている存在でありながら、そういう情報だけはバッチリ伝わっているのだから恐ろしい。
「はい。バイト先の冷房が強くて、それでやられたみたいで」
「なんかものすごく熱が出たらしいじゃない。みんな心配してたけど、元気になったみたいでよかった」
そう言いながらゲームを終了させ、長机の上に無造作に置かれていた段ボール箱をいそいそと開けるコンノさん。
「はい、これ。これを取りに来たんでしょ」
夏休み前、みんなでヒーヒー言いながら乗り越えた修羅場の成果。夏コミ合わせの部誌は、百ページを超える超大作だ。
「なんか、すごいお客さんがいたって、聞いた?」
「はい。自称『学漫評論家』に居座られて大変だったって……」
「毎年来るんだよね、その人。なんか年々、チェックが細かくなってるらしいよ」
売り子をしていた同級生から、『表紙の特殊加工から本文用紙の厚さにまでチェックが及んだ時にはさすがに参った』というメールが流れて来た時には、思わず吹き出してしまった。
「その人、さんざんケチつけた挙句、『気に入ったところでしか出さないんだからね?』って、記念硬貨で代金を払って行くんだってさ」
なんとまあ、とんだツンデレっぷりだ。
「コンノさんも、夏コミは行かれなかったんですか?」
「うん。でも部誌はばっちり読んだよ。吉川さんの四コマ漫画、面白かったなあ~」
そう面と向かって言われると、なんというか、面映ゆい。
「あ、ありがとうございます。コンノさんの漫画も、ノンブル打ちを手伝った時に読んだんですけど、すごく素敵でした!」
これはお世辞じゃない。思わず前の号を全部漁って読みふけるくらいに面白かった。
「本当? それは嬉しいなあ。ベタ塗りとカケアミを頑張った甲斐があるよ」
照れくさそうに頭を掻くコンノさん。その夕焼けに染まった横顔に、はたと気付いて、窓の上の時計を窺う。
「いけない! バイトに遅れちゃう!」
慌てて部誌を鞄にしまい込み、ついでにロッカーに置きっぱなしにしてあった読みかけの文庫も回収して、バタバタと扉へ向かう。
「すみません、お先に失礼します!」
「うん。またね、吉川さん」
にこやかに手を振るコンノさんの背後で、時計の針がかちり、と午後六時を示した。
* * * * *
八月だとどこも混むから、という理由で九月の初めに行われた夏合宿の行き先は、なんと箱根。なかなかに渋いチョイスは「温泉で癒されたい」という編集長からの提案だったらしい。
部員はほぼ参加すると聞いていたので、コンノさんに会えると思ったのだけど、なんと親戚の不幸があったとのことで、直前にキャンセルが入ったそうだ。
「今回は珍しく参加する気満々だったのに、残念だよね」
乳白色のお湯に浸かりながら呟く四年の伊藤さん曰く、コンノさんが合宿に参加すると言ったのは入部以来初めてなのだそうだ。
なんでも、実家からは学費と家賃しか出してもらっていないので、バイトをして日々の生活費を捻出しているらしい。だから部活にもロクに顔を出さないんだよね、と伊藤さんは肩をすくめる。
「あれ? じゃあ、スキー合宿にも参加したことないんですか?」
「そうだね。スキーはお金かかるし。セミナーハウスを使えば宿泊費は抑えられるんだけど、スキー場までが遠いのが難点でねー」
かといってスキー場近くの安い民宿にすると、大部屋で雑魚寝になっちゃったりするからねえ、と苦笑する伊藤さん。
「男所帯だった時はそれでも良かったんだろうけど、これだけ女子が増えてくるとね。さすがにそうもいかないじゃない?」
そうですね、と相槌を打ちつつ、乳白色の湯をすくう。そこにぼんやりと映る顔が歪んでいたのは、揺れる湯のせいだけではないだろう。
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