第3話
職場の休憩スペースはバイト組が「今のって、怒られた?」「聞こえなかった」「ところで昨日のドラマみた?」と騒がしい。その声に安堵する。自分の荷物をまとめ、休憩室を出た。
わたしたちはめったに来ない来客用のソファに座った。空いていれば休憩に使ってもいい、という暗黙のルールがあったが、来客が来たらすぐに退席しなくてはならないので人気はない。
すぐそばにあるコーヒーメーカーからカップに注ぐと、わたしは和航さんの元へ置いた。
「あ、ありがとうございます」
立ち上がって自分も手伝おうとする和航さんに対し、わたしは手で制して「お砂糖とミルクはひとつずつでいいんですよね」と、マドラーも合わせて渡した。新しく注いだ自分のコーヒーとミルク、砂糖とマドラーを手に席につく。
窓の外は良く晴れている。五月晴れだ。
ビルの七階に位置するコールセンター、ここのいい所は飲み会がない事と、見晴らしがいいことだろう。個人情報を取り扱うから、少し高い階層がいい、というのも理由らしいが定かではない。今時、壁から侵入したり、向かいのビルから望遠鏡で覗いたりなんてアナログな事をする人もいない。……とは言い切れない。
「どうして、砂糖とか、数がわかったんですか?」
スティックシュガーを勢いよく入れながら、和航さんが聞いてきた。
「昔からそうだったなって、覚えていたので。大人になっても一緒だなと。すいません、勝手に見ちゃって」
気持ち悪いと思われたら嫌だな、正直に言い過ぎたかとコーヒーフレッシュを入れながら反省する。
「昔? 僕たち、知り合いでしたっけ」
きょとんと、少しだけレンズの汚れたメガネは、あの時とは少しだけ違うけれど、同じ黒縁だった。度がきつくなっているのかもしれない。
「病院で、お互い母の看病をしていた時、何度か」
思い出したくない時期の事だろう。わたしだって、時間を戻って二度体験してしまったから記憶が鮮明なだけで、あまり思い出したくない時代だ。
嫌な思いをしていないか、表情から読み取れなかったが、次第に表情が明るくなった。
「ああ、あの時の朝霞さん!」
合点のいった表情で何度か頷いた。
「よかった、心配していたんです。こっちが……あわただしくなっちゃって」
和航さんのお母さんが亡くなった事は、口に出来ない事だった。高校生のわたしたちには、かなりの重荷だった。
「わたしの母、今もぴんぴんしてます」
それを告げる事すらためらわれたけれど、正直に。すると、和航さんはそっかそっかと目を細めてわたしを見つめた。自分の辛い想い出もあるだろうに、微笑んでくれている。
「よかったですね」
あの時の苦労を唯一分かち合える人。一人っ子のわたしが兄弟と出来なかった共有を、友達には話せなかった重苦しい時期を。それを知ってくれているこの人が、やけに頼もしく思えた。
「なんだか、雰囲気が変わっていたから気が付かなかったよ」
仕事中も私服でいいので、いつも職場に来るには少々気合の入った服装をしている。スカートは絶対だ。和航さんにアピールしたいから。さすがに制服時代とは印象が違う。
「大学デビューってやつです。でも、中身はイケてないままですよ。見た目だけ、輪郭だけ取り繕ってキラキラ女子っぽく生きてみているだけで」
「キラキラ女子?」
「ネットに自撮り写真あげたり、ハロウィンでコスプレしたり、空の写真撮ってポエム書いてインスタにあげちゃったりする女の子の事です。恋に趣味に仕事に大忙し! みたいな言葉が大好きな感じです」
おっと、言い過ぎた。食べかけのベーグルを口に入れて、これ以上しゃべらないという意思表示をした。ふんわりと、ベーグルにしては柔らかい感触。手作りならではのさじ加減が出来るから、わざわざ自分で作る。
「半分くらい何言ってるかわからなかったけど、なんとなく理解しました。でも、朝霞さんってそういうタイプではなさそう」
そういって、和航さんもベーグルに口をつけた。
「美味しい。本当に自分で作ったの?」
「そうですよ。中の燻製チキンは出来合いのものを切っただけですけれど」
「それでも凄い! なんだか、見た目とは違うギャップですね」
「いえいえ、そんな。コンビニのパンだってすごくおいしいんですけど。作る方が自分の好みの味になるから」
美味しそうに頬張ってくれる。それだけで、大袈裟な程に生きていてよかったと思えた。
過去になんて戻らなくても、やり直さなくても、未来は変えられる。これからを変える事が出来るのは、今生きているわたしだけ。
「ところで、今もアニメは見ているの?」
ひそめるように発せられた砕けた口調と、いたずらっ子のような瞳。
覚えていてくれた。わたしのささやかな、だけど大切な趣味。
「はい、アイドルも大好きなままです」
それだけで、わたしはとろけてなくなってしまいそう。
顔がほころんでしまう事を止めることが出来ず、わたしはまた、ベーグルに頼った。
好きな人と共に摂る食事は、いつも以上に美味しかった。
そうしてわたし達は親睦を深め、わたしから告白し、付き合う事となった。和航さんからは言ってくれないだろうなって思って。
めでたし、めでたし。
「ちょっと、こっち来なさい」
今日は早上がりで五時には退社した。どこかに寄って帰ろうかな。
なんて浮足立った気分でいたら、後ろから肩を掴まれた。恐怖など感じる前に振り返ると、鬼の形相の竹内さん。同じく早上がりの日だったか。
「なんですかいきなり」
会社の外で偶然会う事もない。驚いていると、腕をぐいっとひっぱらた。
五月となると、五時はまだまだ明るい。学生が学校帰りに笑い声をあげながらすれ違っていく駅前。ICカードを取り出すよう指示され、改札を通る。自宅へ帰るのとは違う線へ向かう。こちらへ来る目的はひとつしかない。
「もしかしてアリスダイナー?」
わたしの呟きに、竹内さんは振り向いて頷き、ホームへあがるエスカレーターに乗った。
たくさんの人が、帰宅したり、夜の街へ遊びに行ったり。楽しそうだったり、疲れていそうだったり、色々な感情渦巻くホームで、わたし達はただ無言で次の電車を待つ。
手持ち無沙汰で、電光掲示板と腕時計を交互に見やるしかない。大学時代に買った、ソーラー充電の細身のシルバーの腕時計。長針を見る。もうすぐだ。アナウンスも聞こえてきた。
「あなた、ちゃんと腕時計しているのね」
ちゃんと、という意味がわからず一瞬きょとんとしてしまった。竹内さんの腕には時計がない。意図を察した。
「スマホでわかりますから、必要ないといえばないんですけど。なんとなく」
轟音響かせ、風と共に電車がなめらかにホームに停車した。
「ちゃんとした人、なんだね」
ぽそりとつぶやいた言葉に反応する前に、竹内さんは電車に乗り込んだ。
時計をしているからちゃんとした人、というわけでもないが、確かに社会人となるとそこで判断されることもある。
後を追うようにわたしも乗り込んだ。たった二駅だから、座ることはない。
地下鉄じゃないから、窓を流れる景色が見られる。窓ガラスに映るわたし達は、周りの人からどういう関係だろうと思われているかな。余所余所しい? 喧嘩中? どちらにせよ、仲が良くないと、誰が見てもわかるだろうな。
付け加えるならば、竹内さんは悪い人じゃないのだとも、同時に思った。理由は定かではないけれど、きっと時計の事を褒められたから。
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