第2話
ダイナー側の停留所からバスに乗り帰宅。タクシーに乗るのはもったいないから、ヤケになったところで最終のバス発車時間は忘れない。十時になったら店を出るのはいつもの事だ。最寄りのバス停から思い足取りでとぼとぼ帰る。
また外で食べてきたの? って怒る母親の顔が浮かぶ。いちいち連絡入れるのは面倒なんだもん。でも、捨てられる夕食を見るのはやはり心が痛んだ。明日。明日はちゃんと帰ろう。
申し訳程度の庭がある建売住宅のひとつが我が家だ。最近、父親がこの庭で家庭菜園を始めた。老後の楽しみの為に今から知識を蓄えておくんだとか。
母親は田舎暮らしなんてしないって言い張っている。加齢で弱った足腰だと、都会暮らしが楽なのは基本だ。そんな事で熟年離婚なんてしないで欲しいのだけど。
私も一人暮らししようかな。連れ込む男もいないからやめておくか。
ため息をつきながら小さな庭の脇を通ると、見慣れた猫の姿があった。黒い毛で、ところどころ白いブチが混じっている。近所の猫だ。なぜだか外で放し飼いにしていて、うちだけでなく、近隣の庭でウンチをしたり、車に傷をつけたりと迷惑なのだ。でも、近所づきあいが悪くなるから誰も、何も言えなかった。
今時外で飼われるってどんな気持ち? 本当は、家の中でぬくぬく飼って欲しくない? それとも外は楽? 帰宅恐怖症の旦那さんみたいな気持ち?
しゃがみ込み顔を合わせようとしたが我関せず。いつもこうだ。猫みたいに自由に、気楽に生きていけたらな。邪魔だと言われても自分は自分。
だから、家族や友達に言えない気持ちを、庭先で聞いてもらう事もあった。あくびをされながら、でも生き物に話を聞いてもらえる、しかも絶対に口外しない猫に話すのは安心できた。
マスターも職業柄、口外はしないだろうけれど、やはり気を遣う。
諦めて立ち上がろうとした所で、猫はぱっと飛び上がって街路樹の上によじ登った。そのまま帰ると思っていたが、猫は私をじっと見つめてきた。
「何、言いたい事でもあるの」
言葉が通じないとわかっていても、私は話しかけた。
「暇だから遊んでやろうと思ってな」
ん? と後ろを振り返る。お父さんの声かと思ったが、玄関は頼りない明かりを灯しているだけだった。男の人の声が、どこからか聞こえる。
まさか、と木の上の黒猫を見上げた。
無表情だけど、気のせいか笑っているような。まさかね。
チェシャ猫。
先ほどまでいたアリスダイナーのせいか、ふとそんな事がよぎった。
不思議の国のアリスに登場する猫。木の上でヘラヘラしているというイメージしかないけれど。
「やだなぁ、私、今日は飲んでないよ」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。その言葉を拾ってか、猫は口を開いた。うわぁ開いたよ、と当たり前の事に思わず身構えてしまう。
「ちょっとこの猫の中身を貸してもらった。どうやら、ふらふら外飼いされている猫のようだからちょうどいい」
口から出てきた言葉は、とてもキレイな日本語だった。猫語でも英語でもなく。
「はぁ」
何を言っているの、この猫は。中の人? はい?
「思っているのだろう? 梶くんと友達以上になれなかったのは、女性らしい恰好をしていなかったからだと」
図星、というより、いつもこの猫に話していたことだった。
いつもとなりにいあるあの子。かわいらしさを固めた、女の子らしい女の子。
思い出した。少し前のこと。この猫に「梶くん、好きな子いるらいしんだ。ゆるふわに髪の毛巻いていて、私服はいつもスカートなの。私みたいに、適当にクシ通してジーパンとかスウェットで出歩かないんだってさ」そんな話をした。あれは一か月前だったかな。
私自身が選ばれなかったのは、ボブと言えば聞こえのいい適当に切っている髪とずぼらなファッションのせいではないかと思っていたのだ。
性格じゃない。そういう恰好をする女の方が、結局男ウケがいい。媚びている女がモテる。腹立たしい事に。
「男って単純だよね。バカだよね」
ため息をついて猫を見上げる。なんだか普通にしゃべっている。おかしい。おかしいけれど、なぜだか慣れた印象があった。
そうだ、この猫の名前すら知らない。稀薄な近所づきあい。
「あなた、名前は?」
「戻ればいい。梶くんとやらが、その女に出会う直前に」
質問には答えず、黒猫はきらりと瞳を輝かせた。
戻るって、どういうこと。
アリスダイナーで「時間が戻れば」と思っていた。そのせいで夢を見ているだけなんだ、きっとそうなんだ。
私は眠りについた時のように、ふんわりと意識を手放していく感覚に身をゆだねた。
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