ご飯と私のある部屋

枡田 欠片(ますだ かけら)

第1話 おろしトンカツ

 住めればどんな部屋でも良かった。「お任せします」要望を聞かれてそう答えると、不動産屋の鈴木とかいう担当者は余計に困った顔をした。「ご予算や、ご希望の間取りは?」それも、だからどうでも良かった。別に家賃は自分が払う訳でもないし、私ひとりが寝るだけの部屋なら広くたってしょうがない。それでもあえて何か希望を言うならば。「キッチンがIHの所を」と、付け加えると、「はあ、」と返事ともため息とも取れない声を鈴木さんは漏らした。明らかに困っている。物件数ナンバー1を声高にうたっているのだから、ルーレットでも回してポンと見せてくれたらそこに決めるのに。鈴木さんが気の毒になって、私もそれなりに自分の希望を考えて見た、それでも "住む"事が目的である私にとっては、それ以外の要望なんて無い。しばらく続いた沈黙の後、それでもフッと思った。そう言えば大事な事を忘れていた。「なるべく早く住みたいです。出来れば今日にでも」少し無理を言ったかな、とも思ったが、鈴木さんは今日初めて顔を綻ばせた。「わかりました。すぐ探して来ます」待ってましたとばかりに彼の仕事の歯車は回り始めた。私としては、彼が余計な事をしないようにと祈るだけだった。


「部屋決まったよ。明後日から住めるって」「そうか」と電話の向こうで彼は返事をした「私は、仕事が終わったらそのまま部屋に行こうと思ってるけど、どうする?」しばらくの沈黙の後、「行くよ。遅くなるけど」と彼は言った。「ご飯は?」と聞くと「食べる」と、それには即答した。電話を切ると、通販で生活に必要なもの、布団と食器と調理器具等、最低限の物を明後日に着くように新しい住所に宛てて買った。購入確認の前に再度送付先の確認を念入りにする。彼のログインで買い物をする時にはいつもしつこく言われている事だ。間違えて彼の自宅に荷物が配送されないように最後の確認をする。


 入居の日は、早く仕事が終わった。一度自分の部屋に戻ると、当面必要な物を持って新居へと向かった。荷物はそれほど多くは無く、持ち運びには困らなかった。今の部屋から3駅。電車に乗り継いで最寄りの駅に着くと、まずは駅のすぐ近くにあるスーパーで、いくつかの食材を買った。しかし、目当ての肉については、精肉売り場をひと回りしたけど値段の割に気にいる物が無く、買うのをやめた。

 確か、商店街の中にお肉屋さんがあったはずだ。できれば、お肉はちゃんとしたものが良い。スーパーを出てお肉屋さんへ向かう。さすがに専門店だけあって品物はしっかりしていた。「豚のヒレを300グラム」あいよっと元気に準備を始めた店主さんは、若い客が珍しいのかチラチラとこちらを見ながら、肉を切り落としている。一回で切り落としたその肉は、ほぼほぼ狂い無く300グラムだった。「あの、こちらカードは使えますか?」そう聞くと店主さんは露骨に嫌な顔をして「スミマセン、うちはカードは。。」と答えた。気掛かりでは、あったがやっぱりそうか。仕方なく現金で支払いを済ます。急に愛想が良くなった店主は肉の入った袋とお釣りを渡して来たが、その中に領収書は入っていなかった。危惧していた事ではあったが仕方がない。今度からは、カードが使えるスーパーで買おう。多少痛いが今日は自腹だ。


 部屋に辿り着くと日も暮れかけていた。薄暗い部屋の中、とりあえず電球を取り付けると、緩い灯りがあたりを包んだ。そう言えばカーテンを忘れていた。よく考えないで住むところを決めるとこう言う事もあるんだなと、ボンヤリと思った。


 そうしているうちに、頼んでいた荷物が届き始めた。調理器具が早く着いてくれたのはありがたい。早速鍋を取り出して、水をたっぷりと入れその中に昆布を足し火にかける。沸騰してから昆布を取り出し、丁寧にアクをとり、さらに鰹節を入れ馴染むのを待った。鰹が全て沈んでから、それを越して取り出した一番だしをポットに移し冷蔵庫にしまった。その後二番だしを取り出したところで、電話がなった。彼からだ。「1時間くらいで着く」それを聞いて、料理の手を早めた。お米を炊いて、お肉の下ごしらえをする。その間布団が着いたりバタバタとしたが、最後トンカツが揚がり終わるころに、彼が部屋に来た。

 揚げたてのトンカツに大根おろしをのせて、さっき取り出した出汁をかけた。

 冷蔵庫で冷やしておいた一番だしに醤油と塩で味付けをして、冷たいスープを作った。

 炊きたてのご飯とそれらを出すと、彼はまさにむしゃぶりついた。出汁の染み込んだ大根おろしが乗ったトンカツを、それこそ啜るように口に入れると、その後ご飯をかき込んだ。私はその姿を見ているだけで身体が疼いた。


 カーテンの無い部屋だけど、それはあまり気にならなかった、彼は自分のお腹が満たされると、今度は私を抱いた。買ったばかりの布団はフカフカでその中で彼に包み込まれた。彼は私を良く知っている。耳を齧れば小さく声をあげ、背中を撫ぜれば身体中の力が抜ける事、その全てを熟知していて、それらを丁寧にひとつひとつ行う事で今度は私を満たした。

 彼にとってそれがどれほどの満足かは、分からない。それでも、私はこれからこの部屋で丁寧にご飯をつくり、彼は私を丁寧に抱く。そして、これがこの部屋の縮図になる。

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