第2話 過去と黒髪と白猫と

 黒髪の少年は教室の窓側の教卓から一番後ろに当たる席に座っていた。淡く白みがかった双眸を窓の外へと向け、校庭で声を上げて走り回る同年代の少年少女たちを、手に顎を置いて、物思いに耽りながら、溜息交じりに見据える。


 高校三年になり教室が高い階になったおかげで、その校庭の様子は一二年の頃よりも、はっきりと美しく見える。


「この英文はどういう役になると思う? 逢生、答えろ」


 黒板に描かれたチョークの文字を指し示す日向の教師は、窓の外に目が向いている日向をあてた。

 しかし、日向には聞こえなかった。何も考えていないようでいて、深く思い悩んでいた日向には何も——。


「逢生、逢生、聞いているのか?」


 応答なしの日向に教師は声を荒らげる。日向はハッとしたように立ち上がり、黒板を見つめる。


「ええっと……、すみません。わからないです」


 そこまで成績の悪くない日向も、突然の思考は難しいものがあった。


「答えられないのはいいが、聞かないのは問題だ。注意するように」

「……すみません」


 教師は追及せず、別のクラスメイトに当てた。日向は周りの様子を窺って、おもむろに腰を落とした。


(はぁ、いけないな。僕は……)


 溜息交じりに、日向は廊下側の隣の席を一瞥いちべつする。そこには、一つ当然のように空席があって、誰も気にしている様子は見受けられなかった。


(一体、どこへ行ってしまったんだろう?)


 日向は再び窓の外を見つめ、一つ溜息をついた。




 休日になり、日向は一人街を歩いていた。友達は決して少なくないのだが、わざわざ誘うまでもないと一人で歩いていた。

 夏に近づき始めたためもあってか、都会のビル群を吹き抜ける風は少し生暖かい。白シャツにグレーのパーカー、ジーンズ姿の日向にはちょうど適した温度であった。


 林立するビル群の間をあてもなく彷徨さまよう日向はただずぅーっと、歩き続けていた。ジーンズのポケットに入れた二つ折りの財布とスマートフォン、自動販売機で買ったスポーツドリンクを片手に持って、鞄も持たずにただずっと。


 いったいどれほど歩いたであろうかと日向が思い始めた頃、一つの小さな公園が目に留まる。そこには、滑りにくそうな錆びた滑り台と同じく錆びたブランコ、三人ほどが座れそうな木のベンチが置いてある。

 日向は休憩がてら、誰も人のいない公園に入り、木でできたベンチに臀部を落とした。生温い風に吹かれて風に巻き上げられて、砂が宙に舞い上がる。そんな、どこにでもある光景を日向は何かを思い出すように見つめた。


「日向君、こっち~」

「待って。早いよ~、氷雨ちゃん」


 幼い日向が追いかけるのは同じ年の少女である。さらっとストレートに伸びた黒い髪を風に揺らす少女は、幼くとも美しさを感じられる。そして、パッチリと開いた目には真っ赤に染まった真紅の瞳が宿っていて、吸い込まれそうな、引き込まれそうな魅力を放っていた。

 少女の名は夜露氷雨よつゆひさめ。日向の隣に家に住んでいる友人だ。よく、隣のチャイムを鳴らしては、一緒に遊び、一緒に勉強し、その仲の睦まじさは目を見張るものがあった。


「日向君、そんなに遅いと徒競走で負けちゃうよ。さすがにビリになったら恥ずかしいから、練習した方がいんじゃないかな?」


 青く茂った草原がある公園で、氷雨は存分に走り回る。その足の速さは、同じ年の男の子と同等以上に渡り合っていることからも窺えるように、なかなかのものである。


「氷雨ちゃん。そんなに走ったら危ないってぇ~」


 日向もそれほど遅くないのだが、天真爛漫に駆ける少女に追い縋ることはできない。それどころか、体力に限界が来て、徐々にペースを落としていた。


「もう、駄目だな~。日向君」


 氷雨は何度も振り返り、日向を揶揄からかいという名の激励の言葉を浴びせる。


「そんなに走ったら、危ないよぉ~」


 駆け巡る氷雨を心配して日向は声を掛けるが、その返事は「大丈夫!」の一言で片付けられてしまって、意味を為さなかった。


「ほら~、日向君。こっちこっち~」


 氷雨は高らかに声を上げて、そう呼びかけるが、日向はついてこれない。しょうがないな~という気持ちで、笑みを零す少女は、瞬間何もないところで躓き、地面に顔からダイブしてしまった。


「氷雨ちゃんっ! 大丈夫?」


 異変に気付いた日向は心臓の鼓動を強く感じながらも、息を切らして氷雨の元へと駆け寄った。


「……えへへ。失敗しちゃった」


 自力で仰向けになった氷雨は苦笑いでそう言う。


「だから、危ないって言ったのに。立てる? お母さんのところへ行こう?」

「……うん」


 氷雨が小さく頷くと、日向は肩を抱き、顔と膝から血が流れる少女をゆっくりと家族の元へと運んだ。


 氷雨は幼い頃から目が不自由だった。全く見えないという訳ではないのだが、視界が狭くぼやけていた。そのせいもあってか、氷雨は籠りがちで内向的な性格だった。でも、唯一日向の前では自由にはしゃぎ、話すことができていた。彼女にとって、日向は心の拠り所だった。家族以上に。


 しかし、その関係も時代の趨勢と共に少しずつ崩れていくのであった。

 氷雨は両親の都合で、引っ越しすることになってしまった。別れの挨拶も、作り笑顔を交えて、軽く済ませ、何もしてあげられずに氷雨は去ってしまった。


 そして、日向が高校生になって、数か月経った頃、秋が終わり、冬に入ろうとしていたころに氷雨は戻ってきた。日向と同じクラスに転校した氷雨は、幼い時と同じような髪形と瞳をしていて、以前より物静かな印象は、より不思議な魅力を放っていた。


 しかし、日向は彼女に気付いてあげられなかった。正確には、思い出せなかった。長い時間の中で揉みくちゃにされ、朧気になったその記憶は氷雨を非情に切り裂いた。


「……日向君。久しぶり」

「……ごめん。どこかで会ったことあったかなぁ?」


 日向はそんな寂しい台詞を吐いてしまった自分を心底悔いた。どうして、彼女をすぐに理解してあげられなかったんだろう——と。


日向はそんな過去を想起し、相好を崩す。その表情のまま、背もたれに寄り掛かって、グーっと伸びをすると、その勢いに任せて立ち上がる。

 周りを見渡すと、公園には人がおらず、対して公園に隣接する歩道は人が左右から行きかっていた。

 すると、歩道の先の国道を挟んだちょうど日向の側と反対方向のビルの間に、真っ白な毛並みが美しい白猫がいた。日向はその白猫のルビーのような瞳に思わず目を奪われた。

 そこはかとなく、氷雨に似たようなものを感じたからだった。


「ニャァオ」


 白猫は口を開けてそう鳴き声を出すと、ビルとビルの間の小さな路地裏のようなところへ消えていく。


「待って!」


 自動車のエンジン音と人が起こす雑踏の音が都会の喧騒となっている中、日向のその一言はその喧騒に掻き消される。

しかし、それなりに大きな声を出した日向に歩道を歩く人々の怪訝な視線が向けられる。


「……あぁ、ごめんなさい」


 恥ずかしさで耳まで紅潮する日向は頭を下げて、駆けだした。

 日向の声に足を止められていた人々はその不思議な光景に首をかしげて、何事もなかったように歩みを再開する。


 そんな通行人を横目に、近くにあった歩道橋に向かった日向は白猫が姿を隠したビルを確認しながら、車の行き交う国道の上を通り過ぎていく。

 左手に持った飲みかけのスポーツドリンクがペットボトルの中でわしゃわしゃと音を立てていたので、走りながらペットボトルの蓋を開けて、一気に飲み干す。


「ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。ぷはぁ~」


 白シャツに少し溢しながらも飲み切った空のペットボトルを、渡り切った歩道橋の下にあったゴミ箱に捨てて、白猫の消えたビルのところへと走る。


「はぁ、はぁ、はぁ。ここだったっけ?」


 息を切らしてたどり着いたのは、横並びになった銀色のビルのちょうど間。人一人が通れそうなその隙間を、記憶の中の景色と対比して、間違いがないか確認する。


 似たようなビルがいくつも点在している都会なので、はっきりとした確証はないものの、間違いないと断定した日向は、ゆっくりとその路地裏のような場所へ、足を踏み入れる。


 ガタガタとしたコンクリートの上には、誰かが不法投棄したのか、カラスが運んできたのか、いくつか小さなゴミがあって、どこか不快感を覚える。


「……ここ、だよね? ……あれっ? 行き止まりだ」


 ゴミを踏まないように石橋を叩いて歩いてきたが、路地裏の先には壁が張られていて、どう考えても進めそうにない。目的の白猫もその場にはいないようで、日向は諦めてきびすを返す。


 シュン!


 突然、奇怪な音が日向の背後から鳴り響いた。何のことかと体を翻すと、見知らぬ男が立っていた。


「うわっ! ……誰?」


 大いに腰を抜かし、ゴミの点在している地面に尻を落とした日向は立ち上がることもできず、ボソッとそう問いかける。

 瞠目どうもくする日向の目の前には、美しい刺繍があしらわれたローブのような装束を纏う青年が立っていた。左右の耳の後ろの髪だけを膝まで伸ばしたその青年は、先ほど見た白猫に似た真紅の瞳をしている。その下についた、描かれたように美しい鼻筋と口元は、青年が眉目秀麗な顔立ちをしていると証明していた。髪の色も白猫に似ていて、真っ白な新雪に金色の絵の具を垂らしたようなそんな不思議な髪の色は、青年の気品と気高さのようなものを表していた。


「……こんにちは。少年」


 青年はどこかの麗人のような若々しく、引き込まれるような声を日向の元へと囁いた。


「……こっ、こんにちは」


 日向は青年の放つオーラのようなものに気圧されて、思わず挨拶を返してしまった。


「少年。名前は?」

「……逢生日向です」


 青年はその美しい口角を上げて、日向に微笑みかける。


「……日向、か。いい名だ。私の世界に来るのもきっと適しているだろう」


 日向は青年が言っている言葉の意味がよくわからなかった。


「私の世界って、何のことです?」


 日向は恐る恐る抱いた疑問を青年に投げかける。すると青年はクスっと笑いを堪えるように口元を弛緩させて、そのルビーのような瞳を日向の元へしっかりと向ける。


「面白いことを言う。日向。だが、私の世界は私の世界だ。純然たる事実であるのだから、訂正のしようがない」


 日向は再度、疑問が生じる。というより、疑問しか生まれてこない。青年の言っていることはあまりにこの世の理屈とかけ離れていすぎて、理解のしようがなかった。だから、日向は一言、「はぁ」と答えるしかなかった。


「日向、話を進めよう」


 青年は目元を寄せて、真剣な面持ちに様変わりした。


「君は、選ばれた」

「……はいっ? 何に、でしょうか?」


 日向の困惑はさらなる境地へと向かった。


「君は英雄になるんだ。その為に私が少しばかり助力をしてあげよう」

「……英雄? 何を言って?」


 日向が困惑の感情を滲ませると、青年は笑う。


「私が与える力を生かすも殺すも、君次第だ。あえて、力の内実は延べないことにしておこう。君自身で、答えを見つけるんだ」

「意味が分からないです。教えてください。力って、私の世界って、英雄って、一体何のことです?」

「日向、君は黒髪の少女のことを後悔しているのだろう?」


 青年が突如放った一言に、困惑で音を上げていた頭が、思考を止めた。核心を突かれた日向は生唾を飲む。


「その後悔を変えられるかもしれないとだけ、言っておこう」

「……後悔を?」

「それともう一つ、君に与える力に関して、ヒントだけは言っておこうか。寿命はきりよく百年。与える力は三つだ。さぁ、今こそ君が旅立つ時だ」

「寿命? もう訳が分からない」


日向の困惑をスルーした青年は日向の瞳から朧気に消えていく。それは空気に溶け込むように、少しずつその実体を消滅させていった。


「一体、何だったんだろう?」


 青年が消えて、その場には行き止まりとなっている壁と必死に思考しようとする日向だけが残っていた。

 すると、突如日向の前の壁が波紋のように波打ち、揺れる。


「えっ?」


 日向はその一言を残し、波打つ壁の中へ取り込まれた。


 その場には行き止まりの壁しか残っていなかった。

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