♪20 時に
「
「小松沢さん、お疲れ様です」
収録中とは別人……とまではいかないものの、小松沢清吉はかなりリラックスしたような表情でカメラをチェックしている
「これ」
「――え? あぁ、すみません、いただきます」
後ろ手に持っていた缶のコーヒーを差し出され、章灯は深く頭を下げてからそれを受け取った。無骨なその手に包まれていたコーヒーはホットで、買ったばかりらしくかなり熱かったが、小松沢はそんな素振りは微塵も見せなかった。かなり暖かい日だったため、てっきりコールドだと油断していた章灯は受け取ってから「熱っ」と小さく叫んだ。
「熱かったかね」
「いえ、ちょっと油断してました。小松沢さん、全然熱そうに持っていなかったんで」
「ふふふ。元々手の平の皮が厚いというのもあるんだがね、こういうのも俳優の仕事のうちなんだよ。空のカップでも淹れたてのコーヒーが入っているように演じなくてはならないし、監督がそれはお冷だと言えば熱湯でも喉を鳴らして飲まねばならん」
「成る程、勉強になります」
「最も、いまはそんな鬼監督はもういないがね」
そう言って小松沢は笑った。それにつられて章灯も笑う。
今回の収録で確実に距離が縮まったという感触はあった。
小松沢はタクシー内での『からくり人形師
元々章灯のアナウンス力や番組進行力はそれなりに評価していた小松沢だったが、そこに今回、彼の人となりがプラスされた形である。
もてなし散歩の初回のテーマは『赤坂で猫と遊ぶ』で、歩いていける範囲の猫カフェをはしごした後、知り合いのマスターの協力の元、彼が飼っている猫を膝に乗せてノンアルコールビールで乾杯をし、終了した。
ちなみにその場所は言わずもがなの『BAR SNOW-SCENE』である。テーマは視聴者の公募ではあったのだが、赤坂と聞いて真っ先に思い付いたのがこのバーだったのである。そういえば猫を飼っていると聞いたことを思い出し、小松沢が席を外した時に急遽お願いしてみたところ、他ならぬ章灯の頼みであれば、と快諾してくれたという訳だった。
ちなみに放送後、猫のいるバーとしてかなりの反響があったらしく、その猫(『山崎』という名の茶トラのオス)の機嫌の良い時はちょいちょいと顔を出すようになったらしい。
「――時に、山海君」
「はい」
最後の一口を、ずずず、と啜り、小松沢はそう切り出した。しかし、その続きはなかなか出て来ない。章灯はその続きを促したりはせずにじっと待った。何せ、こういうのには
やがて小松沢は辺りをキョロキョロと見回し始めた。
成る程、ここじゃ言い難いことなのか。
「小松沢さん、もしよろしければ場所変えましょうか。もうこの後は撤収みたいですし」
「山海君、この後は?」
「僕は今日、この後は特に何も無いんです。むしろ小松沢さんは――」
「いや、私も無いんだ。そういうことであれば……、その、ちょっとだけ付き合ってもらえるかね」
「はい、もちろん」
話がまとまると、小松沢は急にしゃきっと背筋を伸ばした。そして「ついて来たまえ」と言って、歩き出す。さっきまで背中を丸めて辺りを伺うように声を潜めていたのは一体何だったのかと章灯は思った。
これがコガさんだったら容赦なく突っ込みを入れてるとこなんだけど。
映画のワンシーンのような、ピッと伸びた背中を見て、章灯は人知れず苦笑した。
片手を上げてタクシーを止める。その動きもやはりどこかで見たことがあるように思えてしまう。まぁ少なくとも時代劇の方ではないのだが。
ドアが閉まると同時に行き先を告げる。銀座の料亭、というのがさすが大御所、というチョイスである。
おいおい、料亭なんかで一体何の話されるんだよ、俺。
収録用の伊達眼鏡が汗でズレる。それを中指で上げながら、章灯はそう思った。
「いやぁ、ここは天ぷらが絶品でね」
いつもの席、とやらに通された小松沢は席に着くなりそう言った。かなり奥まった個室の座敷席である。
章灯はというと、滅多に――というか、彼の人生において片方の手で数えられる程度にしか足を踏み入れたことのない『料亭』、しかも『※しかも銀座の』という注釈が付くような場所に来てしまったことでガチガチに緊張していた。
障子の向こうには見事な日本庭園があり、かぽん、といういかにもな音まで聞こえてくる。鹿威しである。
何だ何だ。一体何なんだ。
かぽん、という音が聞こえる度に何となくそちらの方を見てしまう。小松沢のお勧めらしい天ぷらやら何やらが運ばれ、「こちらから呼ぶまで誰も近付けないように」と人払いまで済ませると、いよいよ章灯は覚悟を決めた。
「ええとね、うん、オホン。何からどう話せば良いか……」
この期に及んでもまだ話しづらいのか、小松沢はそわそわと膝の辺りを擦りながら左右に目を泳がせている。
「山海君」
「は、はい」
「ここはね、まぁ政治家なんかも利用するようなところでね」
「はぁ」
「何ていうか、まぁ、食材も良いものを使っているし、料理人も一流だから、値段もそれなりだ」
「は、はい、わかります」
そりゃそうだろう。それにプラスこの立地だ。俺みたいなのが来るようなところじゃない。
「ただね、私や、その政治家なんかはそれに金を払っているわけじゃないんだ」
「……と、言いますと?」
「つまり、空間を買っている、というかね。正規の値段にプラスしてチップでも握らせれば、我々はいまここに存在していないことにも出来るわけだ。大きな声では言えないが。だから例えば私や君に対してやれサインだ写真だ握手だなんて無粋な真似をするような従業員は一人もいない。そんな奴はそもそも雇わない」
「成る程。そうなんですね」
「だからいまここで何を話しても、聞き耳を立てるような者はいない、ということだ。わかるね」
「はい、わかります」
そう答えたものの、だから何なんだ、という思いは拭えない。そんな前提の上で一体何が語られるのだろう。
「ただ、それでももちろんデリケートな話だから、君が話したくないのなら無理強いはしないんだが――」
「は、はい?」
「君がその、同性愛、という噂を耳にしたんだが――」
「――――どっ……!?」
章灯は思わず腰を浮かせた。その様子を見て小松沢は確信を持ったのか、「山海君落ち着いて」と低い声で着席を促す。
「いや、その、安心してくれ。私はこれでも口は固い方なんだ。ええと、その、私の所属するタケウチオフィスにも実は何人かいるんだ。若手にも中堅にも。でもそんな噂は聞こえてこないだろう? だから安心してほしい。決して口外はしない」
「えっ、いえ、その俺、僕は……!」
「まぁ落ち着いて」
そう言って章灯の目の前に置いてある茶を勧める。章灯は「いただきます」と呟いて、それを手に取った。ゆっくりとそれを啜る。さすがに良い茶葉を使っているらしく、鼻から抜ける香りも良い。
「あの、小松沢さん」
章灯がそう言うと、そのトーンから彼が幾分か落ち着きを取り戻したことに気付いたのだろう、小松沢もまた「何かね」と返す。
「あのですね、僕は本当にそっちの趣味はないんです」
「むぅ、そうなのかね」
「はい。これまでも女性としか付き合ったことはありませんし、それに――」
そこで言葉に詰まる。話しても良いのだろうか。口は固い、とは言っていた。しかし、所詮は自己申告なのだ。
「公表していませんが、その、長いこと付き合っている恋人もいます。彼女とは結婚も視野に入れて――というか、既に婚約も済ませておりまして」
これくらいなら良いのではないか。
そう思った。
小松沢は、明らかにホッとしたような顔をして、すっかり温くなってしまっている茶を飲んだ。ごくごくと喉を鳴らしているところを見ると、相当に乾いていたようだった。
「しかし、とすると、だな」
「……はい?」
「君、同棲しているだろう、あの……ギターの『青年』と」
「あぁ……まぁ……」
そこを訂正する勇気はなかった。心の中で
「そんなんだからそういう噂が立つのではないか? 君の婚約者も良い気はせんだろう」
「何ていうか……、それは大丈夫です」
「大丈夫って、君がそう思ってもだね。もしかしたらその『彼』の方にその気があるかもしれないじゃないか」
……ありますよ。ありまくりますよ。ていうか、その気だったらむしろ俺のがありますから!
とはまさか言えないが。
「ええと、その相方……晶っていうんですが、そっちももちろんノーマルで恋愛対象は異性ですし、その、そっちも婚約者がおりまして」
……って俺だけど。
小松沢は、章灯のその言葉に「そ、そうか……」とだけ呟いた。何だか少し呆けたような顔をして。
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