♪21 百億万年

「もう、良いじゃないですか」


 ずんと重く沈んだリビングに響いたのは、あきらの声だった。


 一様に腕を組んで眉間に皺を寄せていた男達は、驚異的なシンクロ率で一斉に彼女を見た。その勢いに押され、ぴんと伸びていた晶の背中は少しだけのけ反る。


「良いって、何がだよ」


 怒ったような声色でそう問い掛けたのは長田おさだである。

 彼は晶が章灯しょうとを庇って話題を変えようとしていると受け取ったらしく、より一層深い皺を刻んで章灯をぎろりと睨みつけた。


「だいたい、こいつがな――」

「オッさん、落ち着いて下さい。別に良いじゃないですか、もう」

「何が良いんだ、アキ?」


 尚も『もう良い』と繰り返す晶に対し、湖上こがみは優しく尋ねる。あまりに刺々しいと、晶は雰囲気に気圧されて続きを語らないかもしれない。いつもならその役割は長田のはずだったが。


「私が女だってバレても良いじゃないですか。いままでバレなかったのが奇跡なんですよ」

「いや、そうかもしれねぇけど……」

「もちろん暴かれるくらいなら、自分達からきちんと公表した方が良いとは思いますけど。でも正直なところ、私からは言いたくありませんが。ただ、知られてしまったら、否定もしません。それで良いじゃないですか」

「もし……その結果……解散なんてことになったら……」


 章灯がぽつりと漏らした『解散』という言葉で湖上は下唇を噛んだ。ユニットの継続は強制ではないにしても、望まぬ解散だけは避けたい。社長だって手放したくはないだろう。


「解散はしません。章灯さんが私に見切りをつけない限り、絶対に」

「いやアキ、俺がアキを見限るなんてことは万に一つもないけど……いってぇ! 何すんですか、コガさん!」

「当ったり前だろ! この野郎! お前がアキに見切りをつけるなんざ百億万年はえぇんだよ!」

「百億万年……。コガのそれ、久し振りに聞いたわ……」


 部屋中に響き渡るほどに強く背中を叩かれて悶絶する章灯の脇で、長田はクククと背中を丸めて笑いを必死にかみ殺している。突然のことに晶は驚いて言葉を失い、湖上は恐らく怒りでであろう真っ赤な顔をしている。


 章灯は晶を見限らない。


 それは皆わかっている。唯一、それに不安を覚えているのはむしろ晶の方だ。もしかしたら章灯がいつか自分の元を去ってしまうのではないかと。それはつまり、夫しての章灯ではなく、SHOWが、ということなのだが。


 ギターの腕には自信がある。曲だってまだまだ枯れることもなく湧いてくる。それでも。

 それでも彼女は自信がない。

 もし仮に、自分と同等、あるいはそれ以上の人間が現れたら、あとは『中身』での勝負になってしまうのではないだろうか、と。晶はそれが怖い。『ミュージシャン』としてはそれなりでも、『人間』としてはかなり欠陥だらけだと、晶はそう思っている。


 しかし、章灯は章灯で、晶に捨てられるのが怖い。

 彼女が何と言おうと、周りがどう評価してくれようと、やっぱり自分より歌の上手い人間はたくさんいる。声が良い、と言われればまんざらでもないわけだが、それにしたって同様なのだ。何せそう言う彼女も、章灯に出会う前は彼以外の人間に自発的に曲を書いたりしていたのである。晶が『そういうこと』をする、ということは、つまり彼女がその声を認めた、ということになるわけで、この業界内ではそれがかなり強力なカードになっているらしい。


 自分だっていつまでも若いわけじゃない。いつまでもこの声で歌い続けられるわけじゃない。いつかAKIが自分の元を去ってしまうのではないかと、彼はその可能性をふと思い出してしまうのだった。


「ほんと、似た者同士だな、お前らは」


 さっきまで真っ赤な顔で頭から湯気を出していた長田が、ふぅっ、と勢いよくわざとらしいため息をついた後でそう言った。


「そんな必死な顔してんじゃねぇぞ。そこまで必死に縋りつかなくたって、お前らは大丈夫だよ」


 すべてわかっているぞとでも言いたげにふんぞり返って、湖上は「安心しろ、もしもの時は俺様が何とかしてやらぁ」と締めくくった。


 得意気に胸を張っている湖上の肩を、長田がこれまたわざとらしい手付きで揉む。 


「よっ、大将! せいぜい頑張りやがれ」

「ふはは。最終的にケツ拭くのは社長だけどな!」


 無責任にそう言って、湖上はガハハと笑った。

 

 ……やっぱり。

 

 この場にいる湖上以外の人間は、そう思ってため息をついた。




 一体何に用心すればわからないままに数ヶ月が経った。


 晶はその日、自身がオーナーを務めるシルバーアクセサリーショップ『turn off the love』へ新作のデザイン画を届け終え、行きつけのコーヒーショップで一息ついていた。


「おやぁ、そこにいらっしゃるのは、AKIさんではぁ?」


 プライベートで名前を呼ばれたことにどきりとして、背中に嫌な汗をかきつつ顔を上げると、そこにいたのはすらりと――というよりもひょろりとした長身の男である。人の名前と顔を覚えるのが不得手な彼女でも一発で思い出せるその人物、『踊る道化師』の踊れる方こと伝田でんのすけであった。


「もしお嫌でなければ、お向かい、よろしいでしょうかぁ?」


 晶はテイクアウトにしなかったことを酷く悔やみ、また、『用心に越したことはない』という湖上の言葉を思い出して腰を浮かせた。この行動によって『NO』の意思表示をしたというわけである。しかし――、


 伝田はそんな彼女の行動などお構いなしに向かいに座り、テーブルの上にトレイと黒い革の長財布を置いた。そして、その財布だけを晶の方へと移動させる。


「あの……?」

「しぃ――」


 意図がわからずつい声を発してしまう晶に向かって、伝田は素早く辺りを見回し人指し指を唇に当てた。それはもちろん自分の唇に、であったが。


「AKIさんはしゃべらないで良いですからぁ」


 粋がった大学生の集団や浮わついたカップル、上辺だけは楽しそうな女子の集まりなどでそれなりに騒がしい店内において、彼の弱すぎる声はほとんど無音に近かった。隣の席だとしても、よほど集中していなければ聞き取ることなど不可能であろう。


「その様子からしてぇ、山海やまみさんから聞きましたねぇ?」


 そこで嘘をついても仕方がないと判断した――わけではなく、ただ反射のように晶は頷いた。そうしてから、もしかしたらこういう場合は濁した方が良かったのかもしれないと思った。駆け引きなどという高度なテクニックは持ち合わせていないのだ。


「それは良かったですぅ。それを踏まえて、少々お話しさせていただいてもぉ?」


 それを踏まえて、という言葉が引っ掛かる。『それ』というのは、つまり、伝田でんのすけが自分のことを女だと知っている、ということである。だとすれば、少々でも何でも付き合わなければなるまい。そう思って晶は浮かせていた腰を下ろした。

 そして目の前にある黒い財布に視線を落としてから、それでこれは何ですか、という気持ちで伝田を見た。


 その視線を受け取った伝田は「あぁ――……」と色のついた呼気のような声を発して、その財布を取り、中から免許証を取り出した。


「これ、僕ですぅ。まぁ、見ればわかりますけどぉ」


 その言葉通り、一瞬ちらりと見ただけでも伝田とわかるほど、きっちりとキャラを守った状態での彼が、何一つ余所行きの顔を作らないままの表情で写っていた。


「一応、『人質』というかぁ。僕だけが知っている、というのは、いささかアンフェアかと思いましてぇ。もしもの時はAKIさん、この免許証を、いえ、何ならこの財布ごと持っていって構いません」

「え……?」

「ですからぁ、しぃ――。AKIさんは、しゃべらないでください。バレたら大変ですよぉ? せっかく変装までなさってるんですからぁ」


 変装とはいっても、サングラスに帽子程度ではあったが。


「僕が一方的にしゃべりますから。相槌もいりません。もし、何か答える際にはぁ、そうですねぇ、YESなら1回、NOなら2回、指をこう」


 そう言いながら、伝田は人差し指の先でテーブルを叩いた。


「――ね?」

「……で、聞きとれなかったら、ぐるりと丸。答えられない、答えたくない時はカクカク四角。まぁもちろん、首を縦に振ったり、横に振ったりしていただいても良いんですけどぉ。よろしいでしょうかぁ?」


 よろしいも何も、こちらに決定権などあるのだろうか。晶は一応弱みを握られている側なのである。だから、テーブルを1回叩いた。


 伝田はそれを見て、ニタリ、と笑った。恐らく章灯なら震えあがるであろうピエロの笑みである。しかし、ホラーに耐性のある――というかむしろ好物の晶は、いまのは映画のワンシーンみたいでなかなか良かった、と思った。


 そしてそう思ったのを見透かしたらしく、伝田は「良いでしょう? 僕の笑顔」と言って、再びご自慢のフルスマイルを披露したのである。

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