♪29 たくさん

「出来れば率直な感想をもらいたいんだけどなぁ、俺」


 尚も畳みかけるように問い掛けられ、あきらはカップを手に取った。

 少なくとも飲んでいる間は言葉を発さなくて済む。そのことに気付くと、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。


 マスクをずらしてカップに口を付ける。フォームドミルクが彼女の唇に触れる間際、香ばしいコーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。カプチーノだ、と思いながらゆっくりと啜ると、苦いのではないかとさんざん警戒していたことが馬鹿馬鹿しくなるほど甘かった。そのことに驚いて思わず視線を上げてみれば、してやったりとでも言わんばかりの表情でこちらを見つめている章灯しょうとの顔がある。


「やぁーっと顔上げたな、


 その言葉で晶はやっと気付いたのだ。


 この店に入ってから、彼の態度が徐々に『小出町こいでまちの甥っ子・昌明』に対するものではなくなっていたことに。


 それに気付いてしまうと、今度は視線を逸らすことが出来ず、彼女はカップに口を付けたままの状態でぴたりと固まった。まるで蛇に睨まれた蛙である。


「で? どうだったんだよ」


 頬杖をついた彼が顎を突き出してニヤリと笑うと、晶はもう観念したとでもいった体でカップをソーサーに戻した。


「すごく……良かったです」

「そんだけ?」

「それだけでは……無いですけど……」


 さっきまでは確かに頭の中に浮かんでいたはずなのに、伝えたいと待機させていたはずなのに、どこかで詰まってしまったらしく出て来ない。それでいて心臓はドクドクと忙しなく脈打っている。


「……CD予約します、たくさん」


 やっとそれだけ言うと、晶は真っ赤な顔で再びカップに視線を落とした。

 その言葉を聞いて、章灯は満足げにコーヒーを一口飲んだ。


 基本的に物欲の無い晶が自ら『予約してまで』買うというのは、本人が余程気に入ったものでない限り有り得ない。義理やら何やらでどうしても購入しなくてはならない場合であっても、店頭に並んでるのを見つけてからやっとそのことを思い出し、渋々レジへと運ぶのである。自分達の楽曲は記念的な意味合いで発売日に買うが、さすがに予約まではしない。


 その晶が『予約する』と言ったのだ。それも『たくさん』。たくさん買ってどうするつもりなのかはわからないが、彼女にしてはわかりやすい賛辞の言葉である。


「――しかし」


 カップをソーサーに置き、章灯は未だ俯いたままの晶をじぃっと見つめる。


「今回はまた随分と頑張ったな、変装」


 小出町のニットカーディガンを羽織り、中に大量のタオルを詰めて身体のラインを変え、黄色味がかった眼鏡をかけ、これまたざっくりと編まれたニット帽まで被っているのだ。


「暑くねぇのか?」

「暑いです」

「脱げよ、だったら」

「いえ、脱ぐと中にタオルが……」

「成る程、詰め込んでたのか。道理で……。ちょっと待ってろ」


 そう言うと、章灯は席を立ちカウンターへと向かった。何やら店主と話をすると、彼は厨房にいるらしいウェイトレスを呼び寄せる。小走りでやって来た彼女は軽く頭を下げると、再び厨房へと戻っていった。

 一体何をしているんだろうとカウンターの方を気にしながら、カーディガンの裾から手を入れ、中に詰めたタオルを1枚ずつ引っ張り出す。


 しばらくして、ウェイトレスから受け取った大きな紙袋を持った章灯が戻ってくる頃には、タオルがソファの上に高く積み上げられていた。


「ほら、この中に入れろ。入るだろ?」


 大きく口を開けた紙袋の中には、その大きさが申し訳なくなるほどの小さなコーヒー豆の袋が1つ入っていた。


「このためにわざわざ……?」

「いや、ここのコーヒー旨かったからさ。ついでにでかい袋もらっただけだ。ほら、早く」


 言われるがままタオルを中に入れていく。きちんと畳んだのが幸いし、どうにか全てを収めることが出来た。詰め物を失うと小出町のカーディガンは晶には大きすぎたが、その肩の余るゆるゆるさが彼女の華奢さを際立たせており、これはこれでアリだな、と章灯は思った。


 ただ、彼女が着ているのが他の男の服だという点だけが引っ掛かる。例えそれが御年68の大作曲家だったとしても、だ。


 後で絶対俺の服も着せてやる。


 そんなことを考え、章灯は恥ずかしさを隠すために視線を落とした。

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