♪22 『死んでもいいわ』
「あれは、俺の声だ。声変わりする前のな」
そして彼の方はというと、彼女から目を逸らし、安堵したような、落胆したような表情を浮かべている。
「あれ……が……?」
やっとそれだけ絞り出すと、先刻から彼女の目に溜まっていた涙がほろりと落ちた。
「たっけぇ声だろ。……まぁいまもそんなに低い方でもねぇけど」
晶はただ黙って頷いた。
「BILLYの曲はいまでも歌えるけどよ、昔はむしろ低いとこの方が難しくてなぁ。まぁ、何つーか……、俺の……ソロデビュー作ってとこかな……ハハ……」
無理やり笑うと、晶は先ほどの章灯のように背中を丸めて頭を抱えた。ちらりと見える耳が赤いのは何故なんだ。
恥ずかしいのはこっちだっつーの!
彼女はしきりに、か細い声ですみませんを連発している。晶の癖にとは言ってしまったが、気付かないのも無理はないと思う。それほどがらりと変わったのだ。
「お前は、どれだけ俺の声に惚れてんだよ、馬鹿野郎……」
真っ赤になっている晶の耳を見て、自身も再び体温が上昇するのを感じ、章灯はそれを隠すように彼女を抱き寄せ、肩の辺りに唇を付けた。
「……し」
「ん?」
「『死んでもいいわ』……です。……よね?」
――何故俺に尋ねる?
「えっ、何……? いきなりどうした、アキ……?」
俺は死んでも良いなんて言われるほどのことをした覚えはないんだが……。
そう言うと、晶は勢いよく顔を上げた。最早ゆでダコ状態で、目まで真っ赤に充血している。ここまで来たらまた鼻血まで出るんじゃないかと、章灯はすかさずティッシュの位置を確認した。
「だっ……、だって、章灯さんがっ……、さっき……、つっ、月がって……言ったじゃないですか……っ!」
「おまっ……、聞こえてたのかよ、あれ!」
「きっ、聞こえて……ましたよ……っ! それで……、いま、腕ではないですけど、かっ、肩に……っ! だから、その……っ」
頭から湯気でも出ているのか、ぐわんぐわんと不安定に揺れながら、晶は懸命に語った。しかしかといって、成る程、それで『死んでもいいわ』に繋がるのか、とは思えなかったが。
「落ち着けよアキ。どうした。とりあえず、水でも飲むか」
無駄にならなくて良かったと、章灯は床からペットボトルを持ち上げ、用意してあったグラスに注いだ。そしてそれを晶に渡す。彼女はまだ真っ赤な顔をしていたが、ゆっくりとグラスに口を付け、喉を鳴らした。
「……そういう意味じゃなかったんですか」
「ん?」
「さっきの……、月が、というのは」
晶は唇をグラスに付けたまま、モゴモゴとしゃべった。
つるりと口から出た瞬間は確かにそういう意味ではなかった。けれど、それを思い出したのも、それによって晶への思いを再認識したのも事実だ。
「確かに月はきれいだったけど。でも、もちろんそれも考えてた」
「それなら……良かったです。私だけ空回りしたかと……」
「しかし何でそれがさっきのに繋がるんだ?」
空回りというなら、それはきっと間違いなくしてしまっている。
だって俺は、その『死んでもいいわ』の意味を知らない。
「御存知無いんですか……?」
やはり空回っていたことに気付いた晶は右手で目元を押さえた。男の振りをしているときに彼女が良くやる仕草である。
「……二葉亭四迷です。後は……ネットで調べてください」
「何か……ごめん」
「いえ、私の方こそ……」
つまり、俺らは『月がきれいですね』と『死んでもいいわ』ってことで良いんだな? まぁ、『死んでもいいわ』の方はこれから調べるけどさ。
グラスの水を飲み干した晶が気まずそうに顔を伏せたのを見計らって、早速携帯で『二葉亭四迷 死んでもいいわ』と検索してみる。
そこで章灯は知るのである。
その言葉が、『月がきれいですね』とセットで使われがちだということと、
偶然にもさっきの一連の流れがその文学作品と似たようなシチュエーションであったこと、
そして、それがロシア語の『Ваша』、英語で言うところの『
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます