♪2 並んだグラス

「咲さんは?」

「いま出掛けてる。美容院に行くって言ってたから、まぁ3時間は戻らねぇかな」

「そうですか」


 しんと静まり返ったリビングにエアコンの音が響く。どうやら長田おさだはエアコンを切らずに外出したらしい。それはたまたま忘れていただけなのか、それとも家を空けるのは短時間だからとあえてつけっぱなしにしていたのか、一体どちらなのだろう。いつもの長田ならきっと「イチイチつけたり消したりした方が電気代食うんだぜ」などと言うのだろうが、今日の彼の様子からすると、そんなことを考えるまでもなく、ただ単純に忘れていたという方が有力だと思った。人の心情を読み取ることが不得手な晶でさえもわかるほどに、今日の彼は様子がおかしかったのである。


 無言で勧められたソファに腰掛けると、長田はふらりとキッチンの方へ向かった。身を乗り出して動向を伺っていると、どうやら飲み物を準備しているらしい。ほどなくして運ばれて来たのは、その速さからして恐らくペットボトルから注いだものと思われるアイスコーヒーである。行儀よく2つ並んだそれはどちらも真っ黒く、甘党でカフェオレ派の晶としてはかなり厳しい飲み物であったが、ミルクや砂糖を所望出来るような雰囲気でも無い。

 テーブルの上にコーヒーを置くと、長田は晶の隣に腰掛けた。

 せっかくだからとそのグラスに手を伸ばし、一口飲む。それはどうやら加糖タイプのものだったようで、ひとまず安堵した。

 ふぅ、と一息ついてからこの妙な空気を打破――というよりは、もう良い加減、自分が何のためにここに呼ばれたのかを知りたくなり、晶は口を開いた。


「オッさん、どうし――……!?」

 

 どうしたんですか。


 その言葉を言い終わらないうちに、長田は崩れるように晶に抱き付いて来た。章灯しょうとよりも大きな長田の身体がずしりとのしかかる。


「アキぃ――――…………」

「どっ、どうしたんですか!?」


 長田や湖上こがみに抱き付かれるのは慣れている。何せ物心ついた時から一緒にいるのだ。楽しい時、悲しい時、2人はよく晶のことを抱き上げ、頬をこすり合わせたものである。そしてそれは大人になったいまでも変わらない。何かある度にまるで欧米人のハグのような気軽さで2人は晶を抱きしめるのだった。


 しかし最近はというと、山海やまみ章灯という公私のパートナーの出現により、その回数は格段に減った。一応遠慮しているのだろう。彼らのハグが減った代わりに、章灯からのそれとは意味合いの違う『ハグ』が増えた。それはお互いの熱を混ぜ、心地よい温度へとならす。強く抱き締められる息苦しさも不快ではない。


 しかしそれは相手が章灯だからであって――、


「く……るしいです……」


 しかも、抱きしめられているというよりは、完全にもたれかかっているという体勢であった。


 SOSのサインとして、背中をポンポンと叩く。そこでようやく長田は、自分が押しつぶそうとしているのが大事な大事な『親友の娘』であることに気付き、慌てて身体を起こした。


「すまん……」


 長田は背中を丸めてうな垂れた。まるで叱られた子どものようである。


「どうしたんですか? 何だか元気ないですよ、オッさん」


 背を丸めてもあまり小さく見えないその背中を優しくさすると、彼はさらに身体を丸め、うぅ、といううめき声を発した。


 泣いているのだろうか。

 こういう時はどうしたら良いんだろう。

 例えば章灯さんだったらどうするだろう。

 きっと章灯さんなら――。


 晶は床に立て膝をついて、長田の頭を包み込むように抱いた。そして彼の艶のある黒髪をゆっくりと撫でる。


「……んあ? アキ……?」

 

 だいたいの場合、章灯はこうやって無防備になっているところを包み込んでくれるのだ。悪いものから隠すように、守るように。それが万人に対する正解なのかはわからないが、少なくとも晶はそれに何度も助けられてきた。それが100点じゃなく1点の答えだとしても、自分一人分の正解を信じるしかない。


「ありがとうな……」


 ぽつりとそんな声が聞こえた。


「話したくなったら、話してください。話したくなかったら、話さなくても良いです」


 ゆっくりとそう返すと、撫でられるがままになっていた長田は、晶の手を解くようにゆっくりと頭を上げると、彼女の目を正面から見据え、口を開いた。


「実はな……」


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