6/4 虫の日・前編
でん、と一戸建てを構えて、
車は荷物もたっぷり乗せられるファミリーカー。
家では基本スウェットで、出掛ける時はスラックスにポロシャツ。
奥さんと子どもには煙たがられ、唯一の味方は老いた愛犬のみ。
――有り得ねぇ。
この俺が、そんっなくそだせぇ境遇に身を置くなんて、まっっっっっったく想像出来ねぇ。
かといって。
真っ暗な部屋に一人帰り、冷えきったフローリングをペタペタと寂しく歩いて、スーパーの半額刺身で一杯やるという未来も何か違う。
いやいや、どうして俺はそう惨めな方にばかり考えてしまうんだ。
独り身なら独り身で、小洒落たマンションに住むだとか、飯を帰りに調達するにしても、デパ地下のデリを利用するだとか、そういうパターンだってあるはずだ。
待て待て。そもそも何でまっすぐ帰ってんだよ。お姉ちゃんのいる店にでも飲みに行けよ。
――やっぱりロックミュージシャンになるからには。
そう、ロックミュージシャンになるからには、安定だとか、弛緩などといったものとは無縁でなければならない。
だから、そこそこの賃貸マンションを契約更新のタイミングで退去し、車は2シーターのオープンカーだったりして。女はたまに遊べるのがいりゃあ良い。子ども? ガラじゃねぇんだよなぁ。なぁーんて。
とにかくそういうものなのだ。
ステージの上じゃギタリストはギターをぶっ壊し、ヴォーカルはマイクスタンドを振り回す。ベーシストは火を吹くし、ドラマーは……スティックを投げる……くらいか? さすがにスネアを蹴り飛ばしたりなんてしたくはない。
とにかくそういうものなのだ。
――だったのだ。
長田少年の考える『ロックミュージシャン』というものは。
だったんだけどなぁ。
中古ではあるが、そこそこの一戸建てを買い、
強制されたわけではないものの、やはり、子どもが出来ると車はでかいやつの方が何かと便利だった。
部屋着は……まぁ、スウェットのことはあるけれども、外出時にはそれなりに『ロック』な恰好をする。
妻と子どもに煙たがられる? はっはー、そんなこたぁ万に一つも有り得ねぇ。
妻の咲はいつまでも俺にぞっこんだし、目に入れても痛くない愛息子はまだまだパパパパ言ってくれる。可愛いもんだ。
加えて、自分は体質的にまったくアルコールを受け付けないタイプだった。舐めるだけでもアウト。消毒用のアルコールでも真っ赤になってしまう。――まぁ、かつて思い描いたロックミュージシャン像とここまでかけ離れてしまえば、これくらいは最早誤差の範囲なのだが。
「しかし――」
あの健ちゃんがねぇ、と、たまたま仕事で近くを回っていたという友人――松木雄二は、長田家の前でぽかんと口を開け、『それ』を見つめた。
「何だよ、『あの』って。中入れよ、茶くらい出すぞ」
「いやいや、長居は出来ないんだ。まだあと三軒残ってる」
「大変だな、営業ってやつは」
「まぁな。でも、当てればでけぇんだ。だから止めらんねぇ。っつーか、そっちもそうなんじゃないのか? ミュージシャンってやつはよ」
「いーや、俺はある意味サラリーマンよ。意外って言われるけど、給料だって固定だしな。曲も出してるわけじゃねぇし」
「そういうもんなんだな」
ほぉ、と感心したような声を上げる。視線はまだ『それ』に注がれたままだ。
「案外普通だろ、ミュージシャンっつっても。でも、こうやって言うと『夢が壊れた』って騒ぐやつもいるんだぜ」
「ハハハ。それはあるかも。でも、ウチの中学からミュージシャンが出た、って一時期は大騒ぎだったからな」
「……が、表にあんまり出ねぇやつだった――つって、なーんだがっかりー、ってオチだろ」
そう言って自虐気味に笑う。
「まぁ、そうなんだけどな。でも、最近じゃ、ほら、あれ」
「あれ? あぁ、『アレ』な」
「そうそう。仲間内でもファンだってやつもいてさ。いまじゃ地元の方でも大人気らしいぜ? 『ORANGE ROD』は」
「まったく、ありがてぇこって」
「ウチの娘も大好きなんだよなぁ。特にあのギターの方。歌番組はだいたい録画よ。いまじゃウチのHDDはカミさんの海外ドラマとオタクさんのでパンパンだぜ」
「中学生だっけ? まぁ、そんくらいの女の子はアキだろうな」
そんくらいもどんくらいも、女のファンは大抵晶に流れるのだが、それを知らない松木にばらすのはさすがに章灯に酷だろう。それに、彼が年齢が高めの女性層に人気があるのはあながち間違いでもない。――ただし、それは『アナウンサー・
「そんで、何つったっけ……あいつ、ほら、サッカー部のいけすかねぇやつ」
「サッカー部……?」
「ほら、あいつよ、親がPTAの会長だっつって、髪も伸ばして調子こきまくってたやつよ」
「あぁ、沢田だろ? どした?」
「そう! 沢田! あいつなんて『俺はORANGE RODのドラムとマブなんだぜ』っつってよぉ、それで飲み屋の姉ちゃんの
きったねぇよなぁ、と吐き捨て、松木は大袈裟に頭を振ってみせる。
「まぁ、マブではねぇわな。同じクラスだったってだけだ」
「だよな!」
それでも同窓会のどさくさでメアドは交換した。――とはいっても二次会と次回開催のためにクラス全員と、ではあるが。
当時はまだ『ORANGE ROD』は結成されていなかったのだが、件の『いけすかねぇやつ』こと沢田
長田がドラマーであることはほとんどのクラスメイトが知っていたにも拘らずその場で気付いた辺り、彼がクラス内でどういうポジションだったかは推して知るべきであろう。
さて、同窓会に参加するに辺り、社長の渡辺からは「くれぐれも問題を起こすなよ」ときつく厳命されていた長田は、一応笑顔だけは貼り付けた状態でそいつの一帳羅らしきスーツの背中にでかでかとサインをくれてやった。さんざんに酔いが回っていた沢田は「何すんだ!」と声を荒らげたが、長田が188cmの身長で上から軽く睨みを利かせ「ロックスターなんでな」と言うと、165cmの彼はびくりと肩を震わせて「おう」と返したのみだった。
ちなみに背中に書いたのは長田健次朗である。例え、いまそれをオークションに出品したとしても、偽物扱いで弾かれるのがオチだ。
長居は出来ないと言った割にぺらぺらとしゃべっているのは松木の方であった。長田の方では旧友の来訪をむしろ嬉しく思い、出来ることならもっとゆっくり語らいたいと思ったほどである。しかし、彼とてこの後の予定がまったく無いというわけでもない。それは彼が先刻からずっと手にしているものから容易に推察出来ることではあったのだが。
「――いや、何か悪いな。健ちゃんも用事あんだろ?」
しゃべり倒して気がすんだのか、松木は、ふう、と息を吐いた後でそう言った。
「まぁ、用ってほどでも無いんだけどな」
「またまた。そんな気合い入った恰好してる癖に」
気合いが入っている――ように見えるのだろうか。
いや、これはどちらかといえば『入ってない』方なんだけど、と返すのは何となく憚られ、長田は「まぁな」と言うにとどめた。
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