♪90 上書き

「ただいま! アキ!」


 帰宅するなり章灯しょうとは大声であきらの名前を呼んだ。


 あの後、すぐに帰ろうとしたのだが、局長から提出した書類に不備があったと電話が入り、それを直すまで帰宅を許されなかったのである。

 靴を揃える時間も惜しんでリビングに走る。ドアを開けると、いつものようにキッチンには赤いエプロン姿の晶がいた。


「おかえりなさい、章灯さん」


 良かった、いた……。


 とりあえず晶がいることに安堵する。


「アキ、あのな」

「あの――」

「うがいと手洗いと着替えだろ? わかってる、いま済ませるから! すぐだから!」


 そう言うと小走りで洗面所に向かい、手早くうがいと手洗いを済ませる。行きよりも早く走ってリビングを通過し、電光石火で着替えを済ませると、再びリビングに戻った。晶はキッチンからリビングにやって来て、きょとんとした顔をしている。


「あのな、アキ、違うんだ。確かに真里とは付き合ってたけど、あれは大学時代の話で」


 章灯は晶の両肩をつかみ、必死な表情で弁解した。


「はぁ。あの――」

「料理だって、あの時はそりゃアイツの料理が美味いって思ってたけど、いまは断然アキの料理がいちばんだから!」

「いや、あの――」

「何だ? あと何だっけ? あぁ、去り際のアレか? ないない! もし俺がそういう疑惑を持たれたって、アイツの手なんか借りねぇから!」

「あの、章灯さん……?」

「俺は、お前だけだから!」

「ちょっと章灯さん、落ち着いてください」

「落ち着いてられるか! 嫌な思いしたよな? ごめん、本当に……」


 頭を垂れ、がっくりと肩を落とす。そんな章灯の肩にそっと手が触れる。


「そうだぞ、章灯。ちょっと落ち着けって」

 

 聞き覚えのある声に、この重量感のある手……。


「――お、オッさん?」


 思わず顔を上げると、背後から満面の笑みの長田おさだが顔を出した。


「正解~」

「オッさんがいるってことは……」

「そりゃあ、俺もいるさなぁ」


 後方から湖上こがみの声もする。


「何で……。だって外に車……」


 なかったよな? なかったよ。

 それを確認するくらいの理性は残ってたはずだ。


「今日は咲が車使うって言うからさ、わざわざ電車と徒歩で来たんだ、俺ら」

「車はなくても靴はあったろ? お前いっつもぐちぐち言いながら揃えてるじゃん」

「それとも~? そんなの目に入らないほど焦ってたのかなぁ~?」


 さっきのやり取りを全部見ていたくせに、何て意地悪な中年達なんだろう。


「まぁまぁ、座れよ章灯。まずは飯食えって。お前昼も食ってねぇんだろ?」

「どうしてそれを……」


 床に胡座をかいた湖上がニヤニヤしながらソファを指差す。


「アキが、20分も早く現場に来たって言ってたからな。大方、アキが心配で昼飯削ったんだろうなぁって。ビンゴだろ?」


 何でこの人はこんなに勘が鋭いんだ。


「章灯さん、ちゃんと食べないと駄目ですよ」


 そう言いながら章灯の分の夕飯を運んでくる。メニューはオムライスだった。


 もしかして、いや、もしかしなくても真里に対抗したのだろうか。

 ていうかまさかアキに言われるとは。


 テーブルの前に着席し、スプーンを握る。


「アキ、これって……」


 恐る恐る問いかける。


「オムライスですけど」


 それはわかるよ……。


「俺がオムライスにしろって言ったんだ」


 湖上が得意そうな顔を向ける。


「何でまた……」

「何でって、上書きだよ。うーわーがーきっ。アキのオムライス食ったら真里ちゃんの味なんて忘れるって」

「上書きしてもらわなくてももう忘れてますって……。うまっ……」


 一口食べると、空腹も相まって手が止まらず、ものの数分であっという間に完食してしまった。



「はぁ~、生き返ったぁ。やっぱ美味いわアキの飯は」


 満足気な表情で腹をさすっていると、晶が苦笑してティッシュの箱を差し出してくる。


「口の回り真っ赤ですよ」


 顔を赤らめてそれを受けとり、数枚抜き取って口の回りを拭う。


「子どもみたいですね、章灯さん」


 そして今度はにこりと笑った。


 あぁ、良かった。

 アキが笑ってくれた。

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