♯6 パンプスと涙

 翌日、千尋がうきうきと待ち合わせ場所に向かうと、約束の20分前だというのにかおるはいた。


 PINK POISONというアパレルブランドの店員だった郁だが、千尋が知る限り、普段の彼女はそこのテイストとは真逆ともいえる恰好をしている。


 PINK POISONはピンクや赤を前面に押し出したややロリータ寄りのブランドなのだが、上から下までコンセプト通りのコーディネートに身を包んだ店員達に埋もれない郁のスタイルはその美貌も相まってかなり人目を引いていた。とはいえ、アパレル店員が他ブランドを身に付けるわけもなく、アイテム自体はもちろんPINK POISON自社製品なのである。嘘か真か、郁が店に立つ日は、こういうコーディネートなら、とターゲット層よりもやや年齢の高い女性からの売り上げの方が多かったという逸話まであるのだった。


 裾に控えめなフリルのついた濃紺のアンサンブルにエクリュのフレアスカートがふわりと揺れている。誰かを待っているというよりは、絵のモデルにでもなっているかのような、つんと澄ました表情で背筋をぴんと伸ばしている。いつもと変わらぬ美しい立ち姿だった。どこを、何を見ているのかはわからないが、まっすぐ前を見ている。


「かーおーるーちゃん! 俺より先に来てくれてるなんて~。感激だなぁ、俺ぇ~」


 いつものように20分前に着いたのに、愛しい彼女がそれよりも前に来てくれていた。その事実が彼をより高揚させた。


 嬉しかった。とにかく、底抜けに。だから、それを身体全体で表現したのだ。ぎゅっと抱き締める、という手法で。しかし――、


 いつもなら、それなりに鬱陶しそうな顔をしつつも、やれやれとため息混じりに応えてくれた郁だったが、今日はただひたすら冷たく見下ろしているだけである。


「――行きましょ」

「ちょっ、ちょっとぉ~。今日の郁ちゃん、いつにも増して素っ気なさすぎ~」


 抱擁が空振りに終わってもめげずに精一杯明るく振る舞うが、今日の郁はにこりとも笑わない。


 どうしちゃったんだろう、郁ちゃん。

 これは絶対に絶対におかしい。

 確かに郁ちゃんはいつもクールだけど、冷たくはなかった。ちゃんと温かいところがあったもん。


 郁は後ろを歩く千尋を一度も見ることもなくすたすたと歩き続け、目的地に着いたのかぴたりと止まった。


「郁ちゃん、ここって……?」


 恋人という関係ならばどのタイミングで訪れてもおかしくはない、けれど、自分達にはまだまだ程遠いと思っていたその建物を見上げ、千尋は眉をしかめた。いや、ここがどこかなんて聞かなくてもわかる。見ればわかるのだ。けれども、彼女がなぜここを目的地と定めたのかがわからず、千尋は首を傾げた。


 彼のその問いに対し、郁は、後ろを振り向いて表情を変えずにさらりと言った。


「――ホテルよ」



 ***



「――ホテルよ」

「いや、さすがに見ればわかるよ……俺だって」

「何よ、したくないの?」


 私は確かに焦っていた。

 置いていかれることに。

 差をつけられてしまうことに。


 だからもう、何でも良かった。


 何でも良いから、何かであきらより前に出なくてはならなかった。

 双子なのに『』という肩書きにこだわっていたのかもしれない。

 だって私が晶に勝てることなんて、これしかないんだもの。

 いままで付き合ってきた男達はすぐに誘ってきた。

 私から誘っているのよ? 有り難いでしょう?


「したくないよ。そんな郁ちゃんとは」


 けれど千尋は、それを有り難がるどころか、そんなことを言ってその場にしゃがみ込んでしまったのだ。


「どうしちゃったんだよ、郁ちゃん。俺がそんな男に見えてたの?」


 千尋はしゃがんだまま、両手で顔を覆っている。湖上こがみさんと比べてしまうのは酷だろうが、彼よりも小さな手だ。

 の時よりも低い声が震えている。


「郁ちゃんのことは大好きだし、そりゃしたい気持ちもあるよ。でも、そんな郁ちゃんとは嫌だよ」


 小柄な千尋はしゃがんで背中を丸めると、何だか少年のようにも見える。その背中がかすかに震えているのを見て、自分は大変なことをしてしまったのだと気付いた。


「ごめんなさい」


 そう言うと、自分の意思とは裏腹に涙が零れた。

 

 ――違う。

 泣くほどのことじゃない。

 私は、泣くほど千尋のことを好きになった覚えなんてない。


「ごめんなさい」


 もう一度だけそう言って、走り出した。

 泣いているところなんて千尋には見せたくない。私はそんなに弱くない。


 近くの公園まで走って、ベンチに腰掛ける。


 踵の低いパンプスで良かった。

 自分は千尋よりも背が高いから、付き合ってからずっと踵の低い靴ばかりを履くようになったのだ。

 別にそうしてなんて頼まれたわけでもない。むしろ千尋は背の高い私が好きなんだから、ハイヒール履きなよ、と言ってくれていたのに。

 それでも、何度言われても、自然と踵の低い靴を選んでしまう自分がいる。

 

 スカートの上にぽつぽつと涙が落ちてシミになる。


 私は――、

 私は、泣くほど千尋のことが好きだったのだ。


「……やっと……追い付いたぁ~」


 その声で顔を上げると、真っ赤な顔でぜぇぜぇと荒い呼吸をしている千尋の姿があった。


「ちょっと……、座って良い? 隣……」


 額に汗を浮かべてベンチを指差す。の時はそれなりに恰好つけていたのに、いまは体裁も何もない、といった体で時折咳き込んだりしながら呼吸を整えている。きちんとセットしてきたであろうヘアスタイルも、散々な有り様だった。


「……どうぞ」


 隣に置いていたバッグを膝の上に乗せた。彼の顔を見ることが出来ず、視線は下に固定したままだ。


「郁ちゃん、足速いなぁ。びっくりしたよ、俺。こんなに走ったのいつぶりだろう。あはは」


 やけにのんきな声でそう言いながら鞄をあさり、綺麗に折りたたまれた白いレースのハンカチを取り出して私に差し出してきた。


「はい」

「――え? 千尋が使いなさいよ。そんなに汗かいてるんだから」


 びっくりしながらもとりあえずそれを受け取ると、千尋はニヤリと笑って再度鞄の中に手を入れる。取り出したのは少し皺の寄った青いストライプのハンカチだ。


「へっへ~、2枚持ち~。そっちはね、郁ちゃん用だよ。涙、拭きなよ」


 いつものように明るくそう言って、額の汗を拭う。私はその言葉で自分が泣いていたことを思い出し、慌ててハンカチを押し当てた。


「郁ちゃん、俺さ、全然男らしくないし、頼りないと思うけどさ。さすがに、何の相談もしてくれないのは……、寂しいよ」


 足をばたつかせながら、ぽつりと言う。


「ごめんなさい」

「話、ここで聞こうか? それとも、さっきのホテル行く?」


 そう言って私の顔を覗き込む。照れたように歯を見せて笑いながら。相当に勇気を出したのだろう。千尋がこうやって笑うのは、大抵がだ。


「……したくないって言ったじゃない」


 おそらくいま、私の顔は真っ赤になっている。自分のしたことが恥ずかしくて。さらに正直に言ってしまえば、もし仮に、あの時千尋が乗っていたらいまごろどんなことになっていたのか、ということを考えてしまって、だ。何せ私は処女なのだ。


「しないよ。しないけど、話の内容によっては、ぎゅーくらいは必要かもでしょ?」


 千尋は憎たらしい顔でニィっと笑うと、走って乱れてしまった私の髪を整えるかのように優しく撫でた。自分の髪を直すよりも先に。


 ……何よ。上に立っただなんて思わないでちょうだい。


「……千尋なんて、嫌いよ」

「ざーんねん。俺にはちゃんと『好き』って聞こえてるんだよなぁ」


 千尋は私に負けないくらいの赤い顔で笑った。

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