♪76 ネーブルとバレンシア

かおるあきらは俺が引き取ります」


 葬儀が終わり、湖上こがみは飯田家の親戚が集う中、皐月の弟である冬樹に言った。

 気の弱そうなその男は、ですが……、と何やら言いたげではあったが、その隣に座っている嫁の夕実に肘で突かれると、小さな声で、その、お願いします、と萎んだ。


 皐月の訃報を知らせた時、最初に応対したのは、この嫁だった。

 夕実は一言「あらそうですか」とだけ言って、保留ボタンも押さず、やけに弾んだ声で主人である冬樹を呼びつけると、義姉さん死んだってと軽い調子で言って電話を代わった。その対応に怒りを抑えきれず、冬樹を怒鳴りつけた。電話口の冬樹はすっかり萎縮してしまったようで、事務的に明日の始発でそちらへ参ります、という言葉を繰り返すだけだった。



 皐月の実家のことは一度だけ聞いたことがある。

 昨年、皐月の母が亡くなり、郁と晶を湖上に預けて実家に帰った時の事である。玄関口で応対した夕実は、皐月の顔を見るなり塩を撒いてきたのだという。



 これでこの果樹園は主人のものだ。

 出て行け。

 男を産んだからって良い気になりやがって。

 邪魔なババァさえくたばってくれりゃ、子どもなんていくらでも作れるんだ。


 

 鬼のような形相で、人目もはばからず、そう叫んだらしい。

 弟から母親の訃報を聞いた際に話の流れで郁と晶の名前を出した。性別もちゃんと言ったと思ったが、名前の響きで男だと勘違いしたのだろう。気が弱くて流されやすい弟のことだから、母親の影響で『姉さんの子どもに跡を継がせよう』とでも言ってしまったのかもしれない。皐月はそう言っていた。


 結局、母の葬儀に出ることも出来ず、皐月は東京に戻ることとなった。

 3日は帰らないと聞いていた湖上が2人を寝かしつけていると、そぅっと寝室のドアが開いた。驚いてドアの方を見ると、泣き腫らした顔の皐月が立っていたのである。

 2人が寝た後で、皐月は堰を切ったように実家であったことを話した。身ごもっていた時に階段から突き落とされかけたこともその時に聞いた。

 

「せめて……。せめてあの2人に……養育費というか……」


 冬樹はちらちらと隣の夕実の顔色を伺いながらぼそぼそとしゃべる。案の定、余計なことをとでも言いたげな表情で妻からにらまれ、背中を丸めた。


「結構です。皐月は保険もかけておりましたし、相手の方からの慰謝料もあります」


 きっぱりとそう言うと、『保険』と『慰謝料』という言葉に夕実の目がきらりと光った。


「……おいくらくらい入ったのかしら?」


 夕実は柔和な笑みを浮かべて媚びるような視線を送ってくる。


 ふざけんなよ、この野郎。

 

 そう叫んでやりたかった。


「……あの2人が大学を卒業出来るくらいですかね」


 何とか怒りを抑えてそう言うと、早速金に目がくらんだのだろう、夕実はあら、と嬉しそうに手を合わせた。


「それならウチで引き取るわよ。やっぱり東京なんかより、自然もいっぱいあるし、ゆくゆくはウチの果樹園を継いでもらうことになるかもしれないし、ねぇ?」


 妻の変わりように冬樹はうろたえていたが、ええ、まぁ、そうですね……、とはっきりしない返事をした。

 ここでとうとう湖上の限界が来た。


「ふっ……ざけんなよてめぇ! あいつらが腹にいた時、皐月を階段から突き落とそうとまでしたくせに、どの口がそんなこと言いやがる!」

「な……っ!」

「ゆくゆくはウチの果樹園を、だと? 邪魔なババァさえくたばってくれりゃ、子どもガキなんざいくらでも作れんだろ? だったら跡継ぎでも何でもポンポン産みやがれ!」

「コガ止めろ!」


 もしもの時のストッパーとして待機していた長田おさだはいまにも飛びかかりそうな湖上を押さえ込んだ。

 湖上は怒りで顔を真っ赤にし、ぜぇぜぇと荒い呼吸をしている。夕実は真っ赤な顔をしてわなわなと震えていた。その2人とは対照的に冬樹は青白い顔で動向を伺っている。


「……あの2人は、子どもです。絶対に、あんたらに渡しません。金も援助も要りません。縁でも何でも切ってください」


 怒りに身を震わせながら湖上はそう言いきった。

 親族の前で恥をかかされたと夕実が立腹して部屋から出て行くと、冬樹は深く頭を下げて妻の非礼を詫びた。


「本当に申し訳ございません。ですが、どうか、あの子達のために何かさせてください。妻には口出しさせませんから。どうか。どうか」


 畳に額をこすりつけるようにして懇願され、湖上は仕方なく「それなら、毎年、お宅の果物を旬な時期に送ってください。2人とも果物が大好きなんで」と言った。それ以降、毎年、飯田果樹園からネーブルオレンジとバレンシアオレンジが届くようになったのである。



 5歳の子供にとって、母親の死を理解することは難しい。そもそも『死』そのものもよくわからない。ただ、昨日まで自分達に優しい笑みを向けてくれた母親がいなくなった。とりあえずはそれくらいである。いつもなら、仕事が終われば保育園に自分達を迎えに来てくれる。しかし、待てど暮らせど一向に現れない。


 湖上は悲しんでいる暇などなかった。

 母を恋しがって泣く幼子のために徹底的に道化を演じた。


 保険金も慰謝料も入った。それは本当だ。しかし、『大学を卒業出来るくらい』なんてのは嘘だ。せいぜい公立の高校をぎりぎり卒業できるかってくらいだった。それだけあるなら安心して任せられる、と承諾して貰えるかもしれないと思ったし、ああ言えば夕実あの女が汚い本性を現すだろうという目論みもあった。

 いずれにしても、大事な皐月の娘達だ。引き取った以上、途中で投げ出すわけにはいかない。


 不自由な思いをさせないために、金も稼がなければならない。

 もちろん、寂しい思いなんてさせたくない。

 会社の人間に助けられながら、必死の思いで2人を育て上げた。


 2人は母親に似て美しく育った。

 姉の郁は母親の社交性や積極性、細やかな気配りを受け継いだようだった。

 妹の晶は母親の音楽の才能と手先の器用さを受け継いだようだった。


 

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