♪67 懊悩煩悶
自分のデスクに戻るためには彼の前を通過しなくてはならない。昨日の今日で何も声をかけないわけにはいかず、章灯はため息をついた。
と。
「おう、
章灯の心配をよそに、佐伯が明るく声をかけてくる。
この明るさからして、もしや『
「佐伯もお疲れ。見たぞ、昨日の」
「マジか。ちょっと緊張してガチガチだったんだよなぁ……。お前の後釜ってなーんかプレッシャーだよ」
「最初は皆そうだろ。俺なんて噛みまくりで
そう言って軽く背中を叩く。
「そうだよな、これからだよなぁ……。次は24日と……お前の最終日だな」
章灯の最終日である3月28日は佐伯と2人で出演し、『交代』をしっかりアピールする予定となっている。
「何かまだ実感ねぇなぁ」
佐伯のデスクの上にある卓上カレンダーを見ると、3月28日には『山海、お疲れ!』と小さな字で書き込まれている。
佐伯というのは、そういう男なのだ。
正直見た目は少々冴えないし、画面に映えるタイプでもないが、嫌味なところもないし、アナウンス力もある。
だから、しばらくやれば、絶対に視聴者もわかってくれるはずだ。
「頑張れよ、山海。お前の番組もさ、ドカンと当てて、俺のことも呼んでくれな」
そう言って佐伯はニカっと笑った。
「頑張るわ。気長に待っててくれ」
そう返して自分のデスクへと戻る。
完全に取り越し苦労だったな、と思いながら。
一方その頃。
「オッさんよ、どう思う……?」
「どう思うって……、ギリギリ想定内だったろ」
そう言って、
「でも、自分から言って来ただけ、まだ救いがあるんじゃねぇの? 溜め込んだら溜めこんだでまた発熱コースだろ」
長田はカップを置いて頬杖をついた。
2人の溜まり場となっている『喫茶オセロ』である。いつもの窓側の角の席で、でかい中年2人は向かい合って座っている。
泣きそうな声の
この時間に湖上が起きているわけがないので、当然、それは長田にかかってきた。
一体何事かと車を飛ばして家に行くと、この世の終わりのような顔をした晶が出迎えてくれた。晶はギリギリ涙が零れていない、というだけで完全に『泣いている』状態である。
自分から助けを求めたくせに、一向にその呼び出した理由を話そうとしない。こりゃ、長期戦になるかな、と長田が覚悟を決めた時、テーブルの上の晶のスマホが振動した。画面には『着信中 山海章灯』と表示されている。手に取ったまま固まっている晶に「出なくて良いのか?」と声をかけると、ハッとした顔をして応答した。
ものの数秒でそのやり取りは終わり、「章灯、どうしたって?」と長田が聞くと、晶は「飯食えって言われました」と俯き加減で答える。その表情は一向に晴れない。
「章灯と喧嘩でもしたのか?」
その問いに対し、晶は俯いたまま首を横に振った。
「困ったなぁ……。俺よりおやっさんの方が話しやすいか? でもまだ寝てるよなぁ……」
もし内容が恋愛がらみだっつーんなら、他人の俺より、『
そう長田は考えていたが、しかし、晶は首を横に振るのである。
「アキ、飯は良いのか?」
「あんまり食欲がなくて……」
「何? 風邪でも引いたか? 熱、熱はねぇか? ああ、くそ、やっぱりコガがいれば……」
長田はソファから降り、床にしゃがみ込んで、俯いている晶の顔を下から覗き込んだ。
「大丈夫です。熱はありません。喉も痛くないですし……」
晶はなおも首を振りながら言う。
「そうか……? なら良いけど……。でも、お前ちゃんと食わないとすぐぶっ倒れるからなぁ。ただでさえいま作曲中だろ? 章灯から飯の電話が来るってことはさ」
長田の言葉に晶の肩がぴくりと震えた。そして、そのまま両手で顔を覆う。
「――アキ? どうした?」
「……何か、おかしいんです」
「おかしいって、どうした……?」
晶の顔を覗き込みながら声をかける。
もしかして、恐れてたことが起きちまったか?
と、長田の心中は穏やかではない。
「いやー、てっきり激甘バラードしか書けないってパターンかと思ったら……」
参った参ったと笑いながら湖上は最後の一口を口に運ぶ。
「これまで何だかんだスランプっつースランプを経験してねぇからな、アキは」
「だな。気が進まないやつでも時間かけてそれなりの作ってたからな。この状況は辛いよなぁ~」
「まぁ幸い、急ぎの仕事もねぇことだし、スランプがてら休むのも良いんじゃねぇの? 気晴らしにどっか連れてってやれよ、親父」
「何言ってんだよ。そういうのは『彼氏』の役目なんだよ」
湖上は口を尖らせて少し拗ねたように言う。
「でも、アイツが『原因』だろ? 悪化すんじゃねぇのか?」
長田はすっかり冷めたコーヒーを一気に飲んだ。
「わかってねぇなぁ。これだから第一線から退いた妻子持ちはよぉ」
湖上は頬杖をついてニヤリと笑った。
「アキだって溜まってんだろ。
「――何?」
「アイツだって子どもじゃねぇんだ。怖い気持ち半分、抱かれたい気持ち半分ってやつだろ」
「まさか、アキだぞ?」
「したいのに出来ねぇっつーのは、辛いよなぁ、お互いにさぁ」
そう言って窓に視線を移し、「しばらく飯は1人で食うか」と呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます