♪47 レイト・チョコレート
「また明日来るから、PVはその時に皆で見ようぜ」
そう言って中年2人はいつもより早めの時間に帰った。
出来れば見たくないなぁ、と2人を玄関で見送り、ため息をつく。
リビングを片付けないとな、と思いながらドアを開けると、ソファに
「あれ、アキ起きたのか……。大丈夫か?」
そう言いながらテーブルの上の空き缶やグラスを持つ。
「だいぶ落ち着きました」
そう言うと晶はテーブルの上のつまみの空き袋を畳んだ。
「あ、おお、サンキュ」
畳まれた空き袋を受け取り、ゴミ箱へ入れる。
「お前も毎年大変だな。あの大量のチョコってどうすんだ?」
「さすがに1人では無理なので、皆で食べたり、知り合いに配ったりします。
それは、世のモテない男子を敵に回す発言だぞ、お前……。
「まぁ、良いけど。あんまりたくさんは無理だからな、俺も」
「チョコ、苦手ですか?」
「いや、好きだけどさ。でもそんなに量を食うもんでもないっつーか、あんまり食えなくなったっつーか」
章灯はテーブルを拭いた後で晶を見つめ、苦笑した。ある程度の年齢になったからなのか、身体が甘いものをそこまで欲さなくなったのかもしれない。それに「はぁ」と気の抜けた返事をして、晶は章灯の手から布巾を奪うと、すたすたとキッチンへ向かった。
「章灯さんは今日、貰ったんですか?」
「――ん? ああ、局の子からな」
さっきの2人とのやり取りを思い出し、何となく『達』と言うのは避けた。深い意味はない、一応。
キッチンとリビングという距離では元々小さな晶の声が聞き取りづらく、章灯も彼女の後に続いた。
「そうですか……。では、必要ないですか」
リビングとキッチンの境に立っている章灯に目もくれず、晶は布巾を洗っている。
「何がだ?」
「チョコレートですよ」
晶は布巾を絞りながら呟くように言った。
何だろう、話す度にわざと音を立てているような気がする。
「アキからのか?」
どうする? もうその布巾は絞り終えてしまったぞ? もう一度洗うのか?
「そうです」
晶は手に持った布巾を広げると、しわを伸ばすかのようにパンパンと広げた。
いやいや、普段そんなことしねぇくせに……。
「手作りか?」
次の行動が気になり、焦らすように質問する。もちろん気になるから聞いたのだが、半分はわざとだった。
どうやら章灯の読みは当たっていたようで、晶は次の一手を考えているようだった。YESかNOかという単純な質問であるにも関わらず、なかなか答えられないでいる。章灯はそれを急かすことなく見守る。
考えた末に晶は水を出し、じゃばじゃばと手を洗い始めた。
「そうです」
成る程そう来たか……。
これ以上の引き延ばしは酷だな。面白いから本当はもっと見ていたいけど。
「アキの手作りだったらいくらでも食うよ」
蛇口の水が止まったタイミングを見計らってそう言ってみる。
さすがにもう音で誤魔化すようなことはないだろうと思いつつも、晶から目が離せない。
パッパッと軽く手を振ってから掛けられているタオルで水気を拭き取ると、無言で冷蔵庫に向かう。冷蔵庫の前でぴたりと止まると章灯の方を見て手招きをした。
もしかして……? いや、でもさっき見た時はそれらしいのは何も入ってなかったし……。
そう思いながら冷蔵庫の前まで歩く。
眉をしかめて不思議そうな顔をしている章灯を見て晶は少し笑うと、真ん中の野菜室の引き出しをゆっくりと引いた。
「野……菜室……。そう来たか……」
そう言い、野菜が1つも入っていない野菜室の中にある白い箱を凝視する。それは大きなチャック付きのビニールに入れられており、恐らく、匂いが漏れないように、という配慮だろうと思われた。
晶はしてやったりと言わんばかりの表情で「どうぞ」と言って箱を取り出し、章灯に渡した。
「この中の野菜はどこに行ったんだ?」
喜びで飛び上がりたいくらいの気持ちを隠すため、そんな質問を投げかけてみる。
「使い切りましたよ。いま家にある野菜は常温保存するもののみです」
しれっとそう答えて、バレンタインに間に合いましたね、と言うとそのまま部屋に向かおうとする。
「ちょ、ちょっと!」
お前それはさすがに素っ気なさすぎじゃね……?
慌てて呼び止めると、晶は不思議そうな顔で振り向く。
「――何か?」
いつもと変わらぬ抑揚のない調子に脱力し、「いや……お休み」と言うと、晶も「お休みなさい」と返してすたすたと自分の部屋へ入ってしまった。
何なんだよ! アイツ! さっきちょっと恥じらってる風だったじゃねぇか! 渡しちまったらミッション・コンプリートなのかよ!
ていうか、これ俺1人分か……?
さっきコガさんアキのバレンタインは15日って言ってたしなぁ。
章灯の両手に収まるくらいの大きさの箱を調理台の上に置いて、ゆっくりと蓋を開ける。
「おお……」
中に入っていたのはハートの形のガトーショコラだった。
ハート型だなんて、あいつ、結構イベントには乗るタイプなんだな。
女っぽいところもあるじゃねぇか、そう思いながら蓋を閉める。
ここで全部食べてから実は3人分でしたってオチだったら洒落にならない。あの2人なら半殺しの刑だろう。
章灯は冷蔵庫に貼ってある付箋の束から1枚剥がすと、『1人分か判断出来なかったから、確認してから食う』と書いたものを箱に貼り、そっと野菜室に戻した。
早朝、家を出る前に何となく野菜室を開けると、もちろん箱は変わらずに置いてあった。
「――お?」
見ると章灯が書いたメッセージの下に小さく『1人分です』と書かれている。
アイツ、いつ書いたんだ……?
畜生、何だよ、めちゃくちゃ嬉しいじゃねぇか。
いますぐにでも貪り食ってしまいたい気持ちをぐっとこらえ、章灯は箱から付箋をはがすと『安心した。帰ったら食う』と書き足して再度貼り直し、閉めた。
「先輩、今日は随分嬉しそうですね。昨日はあんなにため息ついてたのに」
後ろの席の
「さては、本命から貰いましたね?」
その一言にどきりとする。何故ならいまは隣に
「えー、あーいや、その……」
ズバリ当てられた上に後ろには明花。何と答えたら良いのかわからず、しどろもどろになる。
ここで肯定するのはまずい。何せ昨日、一目で『本命』とわかるような代物を貰ってしまっているからだ。一応、気持ちには答えられないけどと断ってから受け取ったのだが。
「いや、実は実家から俺の好物が送られてきてさ、もういまから楽しみで……ははは……」
「へぇ~、良いですねぇ。――あれ、先輩、ご実家ってどこでしたっけ?」
木崎君が単純で本当に良かった、と章灯は胸を撫で下ろし、故郷の秋田県について彼が知りうる限りの名産を並べ上げたのだった。
家に帰るとまた晶の姿はない。
車もないので、大方、野菜を補充するためにスーパーにでも行ったのだろう。そうなると、一刻も早く野菜室のアイツを食べてしまわないといけない。
急いでうがい手洗いをし、着替えを済ませて、野菜室を開ける。もちろん、朝と変わらない状態で置いてある。クリームなどついていないケーキなのだからそんなに慎重に扱わなくても良いはずなのに、何となくそぅっと取り出すと、確認のために蓋も開けてみる。何の変化もあるはずはないのに。
俺はなんでこんなに浮かれているんだ、と突っ込みを入れながら湯を沸かしコーヒーを淹れる。淹れたてのコーヒーとケーキを持ってリビングへ向かう。テーブルの上に置いてひとしきりハート型のケーキを目で楽しんだ後、いただきますと呟いて、口へ運ぶ。
もう、予想通りに、いやそれ以上に美味い。
アイツ何なの? プロなの? マジで。
口の中が甘いと、ただのインスタントなのにコーヒーまで何でこんなに美味いんだろうな。その甘さが上等に美味いものであればあるほど。
無我夢中で食べて、気付くともうなくなっていた。
写真でも撮っておくんだったと後悔したが、どうせ
そう思い、ソファにごろりと横になる。
PVなど二の次で、晶からのチョコレートを目当てに来たと思われる飢えた中年がやって来たのは6時を少し過ぎた頃であった。
何せリビングに入るなり何の情緒もなく、第一声が「アキ、チョコくれ~」である。
晶はやれやれといった顔で調理台の上にある紙袋から包装されていない高級チョコレートを3つ取り出すと、2人に手渡した。
「こっちは洋酒が入っていますから、コガさん用です。それから、こっちのは可愛いので
実に淡々としたやり取りだったが、それでも2人は嬉しいらしい。
手作りじゃないのか? とそのやり取りを不思議そうに見つめていると、章灯の視線に気付いた
晶は湖上を何とか剥がすと、いちいち取り出すのが面倒なのか紙袋ごと章灯に手渡した。中を見ると、やはり包装されていないいかにも高そうなチョコレートである。
「アキ……これって……」
「昨日お話した『手伝っていただく』チョコレートです。まだまだありますから、食べたかったら言ってください」
と、晶はしれっと答える。
「アキからのバレンタインは毎年これなんだよなぁ」
早速貰ったチョコを口に放り込みながら長田が笑う。
「ほんっと、アキらしいっつーかなんつーか。俺らは処理班かっつーの」
湖上も洋酒入りのチョコをつまみながら苦笑した。けれども満更ではないような口ぶりである。
「今年から章灯も処理班の一員だな」
えっ、でも俺は昨日手作りを……。
そう思ってちらりと晶を見ると、2人からは見えない位置で人差し指を口に当てて『内緒』のポーズだ。ただその表情はいつもと変わらぬポーカーフェイスで、特に顔を赤らめるだとか、かすかにでも焦る素振りなど微塵もなかったが。
――マジかよ。
章灯はニヤけそうになる口元を必死に隠した。
そんなことがあって夕飯までは有頂天だったはずなのに、
テレビ画面では、『ORANGE morning』をバックにスーツを来た章灯がひたすら大通りを激走している。このPVのコンセプトは『遅刻しそうなサラリーマンが会社へ向かうためにひたすら走る』だ。どうやらレコーディングの際に元陸上部と伝えたのがまずかったらしい。そうでなくても完全シークレットの状態でPVを作るなんて至難の業で、凝った演出も出来ず、CGでどうにかすることも出来なかったようだ。
「いやー、さすがフォームが綺麗だねぇ~」
「この辺でだんだんバテてきて減速するんだよなぁ……」
「だって、俺……、短距離専門ですもん。スタミナにはあんまり自信ないんですよ……」
恥ずかしさで背中を丸めて膝を抱えている章灯に晶は「良かったですね、PVこれ1曲だけで」とフォローなのか何なのかわからない言葉をかけた。
そりゃ良かったけどさぁ……。
これ、CDの初回限定版につけるってマジかよ……。
章灯は添えられた手紙を読んでがっくりと肩を落とした。
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