思い出の蜜
佐嶋凌
第1話 おぼろげな背中
身長が伸びた。
2ミリだ。先月は1ミリも伸びなかった。その前の月もだ。
一気に2ミリ。大躍進と言える。自分の成長期を信じて正解だった。
欲を言えば胸のサイズも少しだけでいいから大きくなって欲しかったところだけれど、そこまで望んではバチが当たるというものだし、体重は変わってないのだから胸が変わらないのも致し方なしといったところだろう。
両手を前に突き出して、先生たちのハンコだけが押された身体測定表を眺める。袖口の余り布が測定表にかかり、かさりと音を立てた。
"身長"の欄にある「139.5cm」の文字が燦然と輝いて見える。
ついに、ついに139センチ台後半という大台に乗った。念願の140センチ到達まで、あと5ミリ。
1ミリずつの伸びでも、5回伸びれば届く計算になる。ずいぶんと現実的な数字ではないか。
中学に上がったばかりの頃は、138.6cmだった。あれからちょうど一年ばかりになるが、その一年で約1センチ伸びたことになる。大台までの残り5ミリは、今年中に十分到達できる範囲だと言えた。
「なんだ、また見てるのか? またぶつかるぞ」
車道側を歩くみっちゃんが、スマホから目を離したらしく、そう声をかけてきた。
みっちゃんが歩くたびに、頭の後ろでポニーテールが揺れる。四人で歩くと決まってみっちゃんに続いて歩くりっちゃんは、それを目で追うのが好きなようで、今日もあちらこちらへ向くその尻尾に夢中だ。
いつも歩きスマホは危ないよと言っているのだけど、みっちゃんは適当にあしらって聞き入れようとしてくれない。それに少しの不満を覚えないわけではないけれど、みっちゃんは我が道を行く人だから、人の話を聞かないのは今に始まったことじゃない。
「だってさ~、やっと伸びたんだよ~」
それに今日は私も人のことをとやかく言えない。測定表ばかり見ていて前を歩く人にぶつかりそうになったのが、今日だけで2回。みっちゃんたちが一緒にいてこうなのだから、一人になったらもっとあるかもしれない。
「はいはい。分かったからしまっときな。お店ついてからでも見れるだろ」
「は~い」
みっちゃんに注意されてしまったので、私はおとなしく肩から下げたカバンを開いた。
「それだけ嬉しいってことよね。ゆりちゃん、最近そればっかり気にしてたもんね」
測定表をしまってファスナーを閉めようとしたところで、後ろからゆうさんがフォローしてくれた。
その声に後ろを振り返ろうとした肩を、やんわりとゆうさんの手が抑える。
「うん! だってさ……むぐ」
仕方なく首だけ後ろを向けると、ゆうさんはそれも先読みしていたようで、私の頬はゆうさんの人差し指に迎えられた。
少しだけゆうさんの指とおしくらまんじゅうをして、ゆうさんに譲る気がないのが分かって諦めて、斜めを向いて話す。
「だってさ、あと5ミリなんだよ! 去年はね、1センチくらい伸びてるの。だから今年こそはね、夢の140センチ! 絶対いけるよ!」
140センチという希望が現実のものになって来て、私は自分にご褒美をあげることにした。先の二か月は伸び悩み、重苦しく沈んだ気持ちと過ごして来た。身長を伸ばすため、大好きなバニラアイスの蜂蜜がけも我慢してきた。
それが功を奏したのかは分からないけど、だからもっと伸ばすためにはこれからも我慢しなければいけないのかもしれないけれど、今日くらいは自分を甘やかしてもいい。
そう思って今日は久しぶりに、4人で行きつけのお店に足を運ぼうと私から誘ったのだ。
「9ミリだろ。サバ読み厳禁」
スマホと一緒に手をポケットに突っ込んで、みっちゃんは意地悪な顔をする。
「いいの。9ミリも1センチも一緒。5ミリ伸びれば140センチ超えるんだから」
「さぁて、伸びるかな~? もう伸び悩んでるんだろ、難しいんじゃないの?」
私がむくれて頬を膨らませると、みっちゃんは面白がって指先で頬風船をつついてくる。
「伸びるよ! 毎日牛乳飲んでるもん! 夜だって23時には寝てるし、鉄棒にだって15分ぶら下がってるよ、一番高いの!」
「鉄棒は迷信だと思うけど……」
みっちゃんに向けた反論に、ゆうさんが答えた。
味方を得たと思ってか、みっちゃんは意気を揚げて後に続く。
「努力したってダメな時はダメ、特に身長なんてのはね。ま、アタシはまだ伸びてるけど」
そう言って私の頭をぽんぽんと叩くみっちゃんの身長は、160センチあるらしい。あんまり近くで話すと首が痛くなるから、みっちゃんと一緒の時はいつもちょっとだけ間を開けて歩くことにしている。
実に羨ましいことではあるけど、他人を羨んでいても身長は伸びないということは、もう痛いほどよく分かっている。
「でも伸びたもん。まだまだ伸びるよ、5ミリくらいすぐだよ」
「3か月かかって2ミリな。最後の頑張りって感じだよな」
「そんなことないよ! 今年中には140センチになるもん! ねえりっちゃん、りっちゃんもそう思うでしょ?」
あんまりみっちゃんが意地悪く私をからかってくるので、私はりっちゃんに話を振った。
いつもならみっちゃんがからかって来る時はゆうさんに助けを求めるのだけど、ゆうさんはどうやら私の身長が伸びなければいいと思っているようで、こういう話題では私の味方をしてくれない。
みっちゃんの尻尾を目で追っていたりっちゃんは、私の問いかけにびくりと震えると、まるで今の今まで私がいることに気づいていなかったような顔をした。
「えっと……うん、私もそう思う」
りっちゃんは三人の目が自分に集中しているのに気づいて、みんなの顔をぐるりと眺めてから、ぎこちなく頷く。
「ほら、りっちゃんだってこう言ってるじゃん!」
「いや、こいつ絶対ハナシ聞いてなかったぞ……っと」
「わっ?」
呆れて笑うみっちゃんが私の頭をつかんで、自分に寄せる。急にみっちゃんの胸に顔が覆われ、隣を歩いてても分からなかった、部活の後の汗の臭いが少しだけ香った。
「すいません、こいつそそっかしくて」
頭の上でみっちゃんの声が聞こえて、それから腰元に誰かの手が当てられているのが分かった。
軽く頭を振ってみっちゃんの手から抜け出す。自分の肩越しに背後を見やると、スーツ姿のおじさんが軽くこちらを睨みながら、すれ違って歩き去るところだった。
どうやら私はあのおじさんにぶつかりそうになったらしい。後ろを向いていたから分からなかった。
「ごめん、みっちゃん。ありがとう」
私はみっちゃんから離れて髪の毛を直しながら、みっちゃんにお礼を言った。
みっちゃんは「しょうがないやつだな」と言って、ゆうさんと一緒に私の髪の毛を直してくれた。
「あ、お店」
私たちが立ち止まって、みっちゃんのポニーテールがあまり揺れなくなったからだろう。りっちゃんが指差した先には、喫茶店がある。リヴァージュという名のその喫茶店が、今日の私たちの目的地だった。
話しているうちにこんなに近くまで来ていたらしい。
「あらほんと。すぐそこだし、お店入ってからちゃんと直しましょ?」
ゆうさんが私の手を引いて歩きだすので、私は引かれるままにお店に向かう。後からみっちゃんとりっちゃんがついて来るのが足音で分かった。
「……あら? あれってうちの制服よね」
「え?」
ゆうさんが呟いて、歩調を緩める。ゆうさんの視線の先を追うようにして、私も件の制服を探す。
すぐに見つかったその制服の男子は、リヴァージュの自動ドアが開いて、中に入るところだった。
「ほんとだ、あのブレザーうちのだ」
「どうした?」
後ろを歩いていたみっちゃんには、ゆうさんの呟きは聞こえなかったのだろう。振り返って私がお店を指さした時には、もう件の男子はお店に入ってしまって見えなかった。
「今ね、リヴァージュにうちの男子が入ってったの」
「男子が? 別に、たまにいるじゃないか」
珍しいことじゃないだろうと、みっちゃんは首を傾げた。
確かに男子を見ること自体はそう珍しくはない。雰囲気が良く値段も手ごろなリヴァージュは中学生カップルに人気がある。人目を避けないカップルはたまに見かける。
しかしあの男子は一人だった。
「それがね、一人で入っていったのよ。女の子連れとかじゃなくて」
ゆうさんが私の後を継いで説明してくれる。
私たちも何度もリヴァージュに足を運んでいるが、男子が一人で入っていくのを見たのは初めてだった。
「中で待ち合わせてるんじゃないのか?」
みっちゃんは興味ないと言った様子で息をついた。りっちゃんも、私たちの言葉に店先を軽く眺めているが、眼鏡の奥の瞳はどこを見ているやら分からない。
「そうかしら……まぁ、入ってみたら分かるわよね」
ゆうさんがそう言って先を促して、四人で歩き出す。
お店の自動ドアが開くまでの一瞬の間に、私はなんだかさっきの男子の後ろ姿に見覚えがあるような気がした。
誰だろうか。自分の記憶に思考を巡らせたようとした時には、ドアが開き切って店内から落ち着いたインストルメンタルの音楽が流れてくる。
私は足を踏み出して店内に入ると、軽く背伸びをして店内に視線を走らせ、見覚えのあるような、ないような、まだはっきりとしないその背中を探した。
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