迷い犬の幽霊
@tkmx
部室編 :犬
僕と先輩は迷い犬の幽霊を探していた。迷い犬の幽霊は僕たちが住む街の都市伝説の一つである。その幽霊は神出鬼没で、運悪く出会ってしまった人間は、大切なものを奪われると言われていた。
僕は8月の真夏日に、クーラーすら付いていない木造の旧校舎、その3階の隅にある部室にいた。高校は夏休みに入っていて、校舎には殆ど人影はなかった。特に、僕が入っている文芸部のある旧校舎は、僕と先輩を除いて人はいなかった。僕は夏休み中に何処かに行くあてもないので、部室に来て、本を読んでいるのが日課になっていた。
それにしても、今日はとても暑かった。朝のニュースの時点で、全国各地の最高気温が更新されるという異常事態が取り上げられていたのを思い出す。
そんな異常気象の中で、僕は先輩と一緒に部室にいた。時間はちょうど正午で、窓は開け放たれていたが、室内の気温は30度近くある。唯一、たまに入ってくる潮風だけが体の火照りを鎮めてくれた。
「それで、君は今回の事件についてどう思う?」
先輩が僕に意見を求める。僕は読んでいたドストエフスキーの”罪と罰”から一時的に目を離して、先輩を見た。
先輩は窓の前に腕を組んだ状態で立っている。さっきから、潮風の中に人工的なオレンジピールの匂いが混ざっていたのは、おそらく先輩が窓の前に立っていたからだろう。
その時、ちょうど、窓から風が入り込んできた。潮風は先輩の長い黒髪を揺らし、先輩の匂いを内包して僕の鼻腔を刺激する。
「えーっと、そうですね。迷い犬の幽霊を探すというのは、映画とかにありそうな設定かなと思います」
先輩がため息をつく。そんなに大きなため息をつかれると、さすがに心にくるものがあると僕は思った。
「まったく、君という人間は、好奇心というものを持ち合わせていないのか?」
先輩が僕の目をじっと見つめた。僕が好奇心を求めて、脳内という巨大な迷路をさまよっていると、先輩が続きを話し始めた。
「それはそれでいいんだが、私が君に求めているものは、今回の迷い犬の幽霊に関する君の見立てというものだよ」
流石に1年近くも一緒にいれば、相手が何を考えるのかもある程度はわかるようになる。先輩が僕の脳内を読めるように、僕も先輩の考えていることはある程度わかっている。当然、相手のことがすべてわかるなんてことはありえないけれど。
「はい。確か、迷い犬の幽霊の話自体は、鎌倉時代からあったと言われているようです。最近の目撃情報としては、僕の友人のNが、駅前で出会ったと言っていました。Nが奪われたのは、夜中に駅前の怪しげなビデオショップで購入したいかがわしいビデオだそうです」
先輩が大きく頷く。柔らかそうな髪が先輩の頭の動きに合わせて空中でゆらゆらと動いた。
「なるほど。それは、興味深い。だが、それは、私と君が一緒に調べた話の要約に過ぎないだろう?」
先輩の指摘は的を射ていた。だが、そう言われても、好奇心欠落症が進行している僕には、今回の事件もいつものごとく現実離れをしているように感じられた。あまりにも現実から離れすぎているので、もしかしたら、僕の脳内は混乱しすぎて思考を停止しているのかもしれない。
「そうだな。君の言いたいことはわかる。今回の事件も、これまでと同様に、現実離れをしていると、いいたいのだろう?」
窓の前で腕組みをしている先輩を見ていた僕は、黙って頷いた。
「だが、君は毎回、そう言いながら私を手伝ってくれてきた。そうだな?」
もう一度、僕は頷いた。
「ならば、今回の件も、手伝わないという選択肢はないだろう? 好奇心欠落症の治療には、こういった不可思議な現象に触れるのが一番なのさ」
先輩の言う通り、毎回、僕は現実離れした事件に付き合わされている。あるいは、自分の脳内のどこかに隠されている好奇心が、こういった現実離れした現象に惹きつけられているのかもしれない。いずれにしても、僕は今回の件も先輩を手伝うことになるだろう。それが、自分の意思なのか、あるいは、先輩の意思なのかは、わからないけれども。
「そうですね。確かに、先輩の言う通りですよ。僕は、いつだって、現実離れした事
件に付き合ってきました。今回だって、付き合いますよ」
僕が先輩に協力することを伝えると、先輩は満足げな笑みを浮かべて頷いた。
「良い心がけだな。それでは、さっそく、君の友人であるN氏が迷い犬の幽霊を見たという、駅前で張り込みだ」
窓の前で腕組みをしていた先輩が、目の前の椅子に置いてあるカバンを肩にかけた。僕もドストエフスキー”罪と罰”を目の前のカバンに詰め込んで出かける準備を整える。
先輩が歩き出すと、木造の床が軋んだ。先輩の一歩に呼応して、木造の床がギシギシと音を立てる。一定間隔で鳴っていた床が軋む音は、僕の隣にきたところで止んだ。隣を見ると、手を腰に当てた先輩が立ち止まっていた。先輩との距離が近づいたからか、先ほどよりもオレンジピールの匂いがはっきりとわかった。
「それでは、捜査を始めようか」
僕たちの間では、その言葉が捜査開始の合図だった。
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