愛しいヒト

梅の舞

 時を少し遡る。

 桜緋が本体に戻ってからというものの、邪気が攻勢を強めていた。


「全く、舐められたものじゃ!」


 鉄扇で首周りに絡みついてきた邪気を叩き切り、梅妃は皮膚に残った破片を払い除ける。人数が減ったからと舐めてきていることは火を見るより明らかだ。


「惑うがよい!」


 梅妃が品のある声を張ると、霊気が爆発した。梅の香りを孕んだ突風が邪気を襲う。その風を浴びた邪気は一瞬勢いが削がれた。


「ハッ!」


 その隙を突いて、梅妃が鉄扇片手に邪気の体を駆け上がり、片っ端から触手を切り捨てていく。

 梅妃の風には邪気を幻惑させる力がある。邪気の動きが一瞬だけ止まったのはそのためだった。

 霊気を多彩に具現化させる桜緋。圧倒的な体力を持つ楓雅。そして、鉄扇を得物と見せかけ、密やかに幻術を行使する梅妃。

 梅妃の幻術能力を知っている者も実のところ限られている。和葉辺りはまだ知らないだろう。


「さて、そろそろ頃合かの……」


 本体に戻った桜緋は水黎に丸ごと祓わせると言っていた。梅妃は少し顔を上げて様子を窺う。

 しかし、その油断を邪気は見逃さなかった。


「……ゆめ油断するなよ、精霊」

「何っ」


 背後を振り返り、目を見開く。

 邪気が人の姿をとっている。黒い影だった邪気は、姿を人の形に変えて人語を口にしてきた。

 その姿は城ヶ崎に瓜二つだ。


「貴様、姿まで奪いおったか!」

「くっくっく……んな怒るなよ。俺は本能に従ってるまでさ。全てを俺で染めあげる。邪気なんだから、当然だろ?」

「貴様を祓う!」

「精霊のおねーちゃん、そんなに怒ると美人が台無しだぜ?」

「黙れ、外道!」


 人を嘲笑い、道化に貶める。その非道さ、狡猾さ。

 邪気の言動は梅妃を怒らせるには十分すぎた。

 激昂した梅妃が鉄扇を振り翳すも、邪気は身軽にステップを踏んで、それを難なく避ける。まるで、ダンスでも踊っているかのようだ。


「じゃ、次は俺の番ね」


 軽快な足取りで梅妃に近づき、その顎を存外優しく摘んだ。


「っ!」

「ほんと、近くで見ると益々美人さん。……染めたくなるよねぇ」


 俺色に、さ。


「あぐッ……」


 突如全身に走った激痛に、梅妃は思わず呻き声を上げた。対照的に、邪気は楽しそうに嗤いながら梅妃の顎から耳までの輪郭を撫でている。

 すると、触れられたところに黒い斑模様が浮かんできた。


「きッ……貴様、侵食型か……!」

「別に俺だけ対象を侵食するって訳じゃないさ。邪気は世界を染めて、犯して、乱して、自分のモノにしていく本能がある。それは、おねーさん達もよく知ってるだろ?」


 何人もの同胞を屠ってくれてんだからさ。


「なんじゃ……貴様、わっち相手に同胞はらからの仇討ちかや。見目みめと口調に似合わぬ、健気さじゃな……」

「おっ、意外。余裕が戻ってるね。ピンチだからなのかな?」

「フン……何百年生きていると思うておるのじゃ……こちとら、生きてる年数が違うのじゃよ、小童めが……」

「あっはは、言ってくれるねぇ!」


 梅妃のノリの良さを気に入ったのか、邪気は無邪気に笑ってみせる。


「じゃあ、俺も本気出そっかなぁ……見せてもらうよ、おねーさんの軌跡ってヤツを」

「っ、やめ……!」


 梅妃が抵抗する間もなく、邪気は侵食を一気に進行させ、梅妃のを覗き込んだ。


 ***


 暦の上では春でも、まだ寒い雪の日だった。細かい粉雪が曇天から舞い降りてくる。

 梅妃は瞳を細め、灰色の空を見上げていた。


 ……待たせたね。

 否、そのようなことはありんせん。


 肩に雪を積もらせた男が背後から梅妃に声をかけた。すると、梅妃は心底嬉しそうな笑顔で振り返る。


 妃は雪の中で映えるね。白と灰色の中に咲く紅色。椿もいいけど、早咲きの梅の方が私は好ましいと思う。

 い、いきなりなんじゃ?

 そう思ったから口にしただけだよ。気に触ったなら、謝る。

 ……ぬし、ほんに疎いの。良い、良い。むしろ嬉しいのじゃよ。謝るでない。


 囁くように呟いて、艶やかに微笑む。

 男もつられるように笑って、梅妃に手を差し伸べた。梅妃はその手を取り、二人で雪の舞う曇天の下を歩いて行った。


 ***


 梅妃は、泣いていた。


「見るな……っ、見るでない……!」


 私の中を覗くでない。侵すでない。障るでない……!

 精神まで侵され、僅かでも過去を覗かれた屈辱と恥辱。梅妃は堪らなくなって、身を震わせる。


「やめ、て……!」


 侵食を押し止めていた梅妃の霊気が薄くなり、上半身全体に斑模様が浮かび始めてしまった。


「なーるほどねぇ……彼、昔の男?」

「ぁ、や……!」

「じゃあ、もういいや。早く俺の一部になりなよ。……いいや、そうじゃないな。おねーさん、喜びな。身体、残しておいてやるよ。だから、俺の傀儡くぐつになれ!」


 高らかに笑う邪気。

 梅妃の精神は邪気の侵食と深淵を覗かれた衝撃で限界まで磨耗してしまっていた。反抗する気力まで削ぎ落とされ、梅妃は邪気の穢れた手で身体中を撫で回されても、声を上げないどころか身動ぎ一つしなくなった。


「うんうん。美人で従順な女。偶に自我を解放してやるからさ、そこで抵抗してくれると愛でる甲斐があるってもんだよ」


 邪気の妄想に梅妃はもう何も言わなかった。何を言われようと、何をされようと、ただ涙の滲んだ瞳で遠くを見ているだけ。


「……」


 そのとき、邪気の動きが止まった。


「……外のが全部、消えただと?」


 これが合図である。魂から脱出する合図である。

 けれど、梅妃はそれももう気にしていない。


「クッ、外のお仲間が動いてんのか。取り敢えず、力を補給しないと反撃できねぇ……おねーさん、早く侵されてくんない?」


 苛立ちを込めつつも、あくまで優しく頬を撫でる。愛玩に傷をつけたくはない。


「……」


 何も言わないでいると、耳の奥に蘇る声があった。


「妃」


 この声は、いつの。


「妃」


 この声は、誰の。


「妃」


 この声は……


「任せたよ、妃」


 梅妃はハッとした。

 この声は遠い記憶のそれではない。今、自分の隣にいる者の声だ。


「……っ、私から離れよ!」


 梅妃の瞳から虚ろな色が消え、苛烈な光が宿る。


「なっ、まだ自我を維持して」

「失せよ、下衆が!」


 梅妃はありったけの霊力を邪気に叩きつけ、即座にその場から離脱し、自らの本体に戻った。


 ***


 無茶が祟ったのだ。


「今日は皆、疲れてるわね……さ、ひとまず組合で休んで行ってちょうだい」

「は、はい。……桜緋、肩貸すよ」

「千尋、そこまでしなくても私は」

「いいから」

「私はこの少年を運ぶわ」

「お願いね、水黎」


 美里は改めて意識を失った梅妃を担ごうとした。しかし、装飾が多く、衣装自体に重量がある梅妃を抱えるのはそう簡単なことではない。精霊の体重は人間ほど重くはないものの、うまく抱えられなかった。


「参ったわね……」


 美里が眉尻を下げて困っていると、ビルの上から長身の影が降ってきた。


「何やってるの、姉さん」

「荘司。祓い終わったの?」

「だいぶ減ったから残りは石哉に任せた……」


 姉の肩に力なく身体を預けている梅妃を認めて荘司は言葉を失った。梅妃がここまで消耗したことはない。


「……妃」


 そっと梅妃の前髪を撫で上げて、額に触れる。普段から陶器のような滑らかさの肌は冷え切っていた。


「ごめんなさい。私がついていながら、皆にこのような状態を強いて……」

「姉さんのせいじゃないさ。戦えば疲れる。当然のことだよ」


 妃が苦戦するほどの難敵だったんだな。

 労わるように梅妃の額を撫で、荘司は美里に申し出る。


「姉さん、妃は俺が」

「ええ、お願い」


 弟の申し出に美里はホッと肩の力を抜いて、梅妃の身体を荘司に預ける。

 受け取った荘司は軽々と梅妃を横抱きにした。


「装飾を霊体化してくれると抱き上げやすいんだけどな。それをする余裕もないとは」

「荘司、妃は」

「お、水黎もお疲れ様。千尋君と桜緋もだいぶ疲れてるみたいだね。早く建物に入ろう。先に行ってくれ」


 荘司が皆に労いの言葉をかけつつ、爽やかに笑う。


「……そ」

「妃、目が覚めたか?」


 荘司の霊気に触れて若干回復した梅妃が瞼を震わせた。その瞳はまだ夢現といった様子だ。


「……私は」

「今は何も考えなくていい。大人しく眠ってくれ」

「……ふ。そうさせて、もらおうか……の……」


 微かに笑って再び瞼を落とす。

 荘司はそんな梅妃にそっと微笑み、前を向いて先を行く仲間を追った。

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