消息

 腹の奥にまで振動が届く。そんな轟音だけが辺りに響いていた。キンと凍てついた空気が大気全体を支配している中、巫女は薄い単衣一枚だけを纏っている。

 それはあまりに寒々しい姿で、楓雅は見ていられなくなった。


「本当にやるのか、巫女」

「ええ。じゃないと、いざという時に霊力が枯渇するわ」

「だからって、こんな季節にやらずとも」

「何を言うのよ。真冬の滝行は修行の定番でしょう?」


 年が明けたばかりの早朝。

 昨晩降り積もったばかりの、しっとりと柔らかい雪の上に佇んだ巫女は、少し背の高い岩の上に片膝を立てて座っている楓雅を仰いで明るく笑った。


「大丈夫。よくやってることだもの」


 生まれつき備わった強大な霊力も、刀と同じように研がなければ鈍る。鈍らになってしまう。

 刀でいう研ぎにあたるものが、今から行おうとしている滝行だった。

 霊力を高める方法は他にも色々とあるものの、己を極限に追い込むことは霊力増強において、とても効率的な手段だ。ゆえに、巫女は敢えて、この厳しい修行を選択している。

 楓雅は岩から危なげなく飛び降りて、滝から続いている川の水に手を浸した。そして、顔を顰める。冷たい。冷たすぎる。女が打たれるには冷たすぎる。

 精霊の身には寒暖差など大したものではないが、人間の身では相当応えるだろう。

 渋い顔の楓雅を見て、巫女は溜息をついた。


「あのね、楓雅。心配してくれるのは嬉しいけど、これは毎年やってるのよ?」

「それでも、もう少し暖かくなってからやれば……」

「それじゃ意味がなくなるわ。辛いからこそ霊力が高まるのに」


 巫女は苦笑しながら履いてきた草履を脱ぎ、素足で雪の上に立った。

 雪に素肌が触れると、足の裏全体に細い針で刺されたような痛みが走り、足の指先から少しずつ真っ赤に染まっていく。


「巫女」

「平気だから。もう、心配性ね」


 深い雪の中でも巫女は歩き慣れているのか、軽い足取りで滝壺まで移動した。

 そして落下する水の流れの前で、すっと表情を消し、轟音を立てて流れている滝の中に身を差し込んだ。

 衝撃と痛みと寒さが一気に襲いかかるも、顔色ひとつ変えずに直立し、胸元で両手を合掌して瞼を伏せた。長い髪はぐっしょりと水分を含み、同じように濡れた体躯に絡みつく。

 このまま丸一日、滝に打たれ続けるのだ。

 女の身体にはきついだろうに、よくやるものだ。だが、この修行あってこその、あの霊力というと納得がいく。巫女は精霊が苦戦した邪気をあっさり祓ってみせたのだ。

 楓雅はしばらく滝に打たれる巫女を立って眺めていたが、踵を返して再び岩の上に座った。


「……なんというか」


 当たり前になってしまったものだ。

 人間と接すること。誰かを大切に思うこと。――誰かの傍に、いることが。

 精霊として生きている以上、彼女とこうやって共にいる日々は、いつか終わりを迎えるだろう。

 それでも、今はただ、この刹那を噛み締めていたい。抱き締めていたい。浸っていたい。

 楓雅は、そう思っていた。


 ***


「人と俺達は似ている。だが、嫌でも決定的な違いがある」

「そうじゃな」

「……けどな」

「うむ」

「あんなに……あんなに、簡単に壊れるものだとは思ってもいなかったんだよ。あの頃の俺は」


 楓雅の自嘲気味な呟きに、梅妃は静かに頷いた。


「そうじゃの……人は、脆い。その事実を我々は生まれたときから、よく知っていて、よくわかっておらぬ。最初は皆そうじゃ。じゃが、経験すれば骨身に刻まれるものよ。人がどういう生き物で、我々がどういう生き物か。――わっちもそうじゃった」

「そうか。ひめも……」


 そういうことが、あったのか。

 少し意外だった。

 いつも余裕綽々とした態度の梅妃が、どこか痛みを堪えるような渋面を浮かべている。その視線は彼方に据えられていて、遠い記憶を思い出していることは明らかだった。

 精霊ならば――人と関わりを持つ精霊ならば――誰にでも刻まれる心の傷。人という生き物の儚さは、長命な精霊にとっては刃のようなもの。人は、その儚さで呆気なく川を渡ってしまう。そして、此岸に残された精霊は、喪失による虚しさと、癒えることのない傷を抱いて生きていくのだ。

 いつか、巡り巡って彼の人が生まれ変わっても、それは彼の人の転生であって、彼の人ではない。重なるところがあったとしても、それは紛れもなく別人だ。このことは、老成した桜の少女が最もよく知っているだろう。

 楓雅は瞼を閉じた。未だに、はっきりと瞼の裏に甦る。巫女の苦痛に歪んだ顔と、その痩躯が巨大な闇に呑み込まれていく様が。ありありと。もう何百年もの時が経ったというのに、楓雅は未だに、はっきりと覚えていた。


 ***


 春先のことだ。

 梅の花が満開で、そろそろ鶯が鳴き始める頃かといったときのこと。

 いつものように社を訪れた楓雅は、違和感を覚えた。


「澱んでいる……?」


 社の敷地内は常に社で祀られている神の神気と、巫女から溢れ出る清浄な霊気で澄み渡っている。それが、今はどこか澱んでいるように感じられた。

 社に祀られている神の気配すら弱々しい。


「まさか」


 巫女が体を壊したのだろうか。

 それならば、この澱みにも納得できる。巫女が臥せると、ここの神事は滞るだろうし、巫女の霊気も身体の不調の影響から弱まってしまう。

 楓雅は駆け足で巫女が寝起きする建物に向かった。宮の奥にある、こじんまりとした質素な木造の建屋だ。

 楓雅が巫女の私室の戸を叩いても返答はなさった。

 嫌な予感がして、楓雅は詫びながら戸を開けた。


「巫女、すまん。開けるぞ」


 中には誰もいなかった。

 薄暗い室内はきちんと整頓されていて、争った形跡などは見当たらない。


「一体何が……」


 巫女が臥せっていないということは、本当に非常事態ということだ。

 巫女が不在。どこに行ったというのだ。巫女は里に居場所がない。人里に降りて泊まるなどということは有り得ない。なんせ、彼女は家族もいないのだから。


「山で遭難したか、それとも……」


 人間の世で巫女の立場は、社を守る者というだけだが、こちらでは違う。巫女は強大な霊力を持った能力者だ。何かに巻き込まれる可能性は常に高い。


「巫女の実力なら自力で退けられると思っていたが、過信だったか……!」


 巫女とて人間。人ではない者を相手にした場合、押されることも押し切られることもある。そんなことが抜け落ちてしまうほど、自分は巫女の能力を過大評価していたのだ。彼女は力があっても、基盤は普通の人間だということを忘れていたのだ。

 戯けにもほどがあった。

 楓雅は踵を返して無人の建物から離れた。表に戻って、社の宮の階段を駆け上がる。


「無礼を承知で申し上げる。神よ、お答え頂きたい!」


 精霊は神と比較すれば遥かに下位の存在だ。

 このような口をきいて、ただで済むとは思っていない。だが、そんなことを気にしている場合ではなかった。


「……何用だ。穢れを一掃する者よ」


 初めて神の姿を拝した。人の姿をとり、宮の屋根の上に座っている。意外にも神は女神だった。

 生地の薄い白の衣を纏い、髪は深い藍色、深緑の瞳がこちらを射抜く。

 楓雅は俯いて直視しないよう心がけた。自分は神の姿を直に目にできるほど、立場があるわけではない。

 だが、神は寛大だった。


「楓……といったか。おもてを上げよ」


 楓雅は促されて、恐る恐る顔を上げた。

 そして、気づく。神の顔色が、あからさまに悪かった。青白いというか、くすんで見える。


「神よ……」

「あの娘が消えて、そろそろ二日になる」

「二日……!?」

「そなたがここを訪ねなかったからな。気づく者もおらぬ」


 なぜ毎日顔を見に来なかった。そう後悔しても、既に遅い。

 楓雅は奥歯を噛み締め、絞り出すようにして問うた。


「巫女の身に、一体何が起こったというのです」

「穢れよ」

「穢れ……?」

「そなたらが邪気と呼び、狩っている穢れ。此岸の澱み。人々の悪意。それらが具現化し、意思を持った末に生まれた命のようなもの」

「巫女は邪気に攫われたと……?」

「そうだ。彼奴きゃつが我が膝下に侵入してくれたおかげで、我も気分が優れぬ。我を癒す巫女も不在だからな」

「……巫女は、必ず取り戻す。もう少し、ご辛抱頂きたい」


 楓雅の言葉を神は無言で聞いていたが、不意に立ち上がって屋根から飛び降りた。

 目の前に顔が迫り、楓雅は一歩、足を引いた。そんなことを気にも留めず、神は楓雅の顎を細長い指で摘んだ。


「この不快は今すぐ取り除かなくては気が済まぬ。そなたの霊力でいい。寄越せ」


 神のもう片方の手が楓雅の首を掴み、そこから一気に霊力が引き抜かれた。

 全身から血の気が一気に引く。精霊が目眩と貧血に襲われるなど、きっと前代未聞だろう。


「うむ……やはり、人外の力は強いな。それに、穢れがない。巫女の代わりには十分よ」


 楓雅はいきなり力を奪われて膝をつきそうになったが、気力でそれを回避する。神の御前だ。情けない姿は晒せない。


「ぐっ……」

「安心しろ。穢れを祓う力は残してある。巫女を救うぶんには、さして問題なかろう。……そうだな。闇雲に探して時を浪費するのも惜しいだろう。道くらいは示そうか」

「道……?」

「穢れの気配を覚えている。気配の元へ続く道を我が開こう。そこから巫女を救いに行くといい」


 神が無造作に手を掲げると楓雅の背後に暗い穴が開いた。


「これを使って行くといい。必ず彼奴の元に着く」

「……承知した」


 楓雅は気持ちを引き締め、力を抜かれた衝撃で震える膝を叱咤した。神の見送りを背に受けながら、楓雅は一寸先も見えない闇の道に飛び込んだ。

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