巫女との日々

 巫女と出会ったのは秋の初めで、彼岸の前だった。まだまだ夏の暑さが残る、そんな時期のことで、巫女から絶えず溢れる洗練された霊気が涼しく感じられたものだ。

 異空間で邪気に喰われかけるという間一髪のところを助けられてから数日後、俺は早速再び巫女の顔を見に行った。

 会いに行く理由や必要は特になかったものの、別れ際の巫女の寂しげな表情が脳裏に焼き付いていて、俺はつい社へ足を向けてしまったのだ。


 ***


「今年も彼岸花が綺麗だこと」


 境内の掃除をしながら季節の移ろいを感じる瞬間が巫女は好きだった。

 この社に仕えるようになったのは十五の時だ。

 流行病はやりやまいで両親を亡くし、行く宛のなかった少女を、今は亡き社の宮司が引き取ったことがきっかけだった。当時の時点でも宮司は高齢だったので、この社を託す次代を探していたそうだ。無論、置いてもらえるならばと少女は社に住み着いた。その日から、彼女は巫女になったのである。


「ふぅ」


 一息ついてから、山の空気を思い切り吸い込む。

 自然の清浄な気は霊力を研ぎ澄ます。朝は特に、それが顕著だ。

 自身の中を流れる霊気が澄んでいくのを感じながら瞼を閉じる。この霊気を誰かの役に立てたい。そんな思いから、巫女は邪気を祓うようになったのだ。生まれつき人外の者を目にする力が備わっていた巫女だが、宮司に引き取られてから、それを活かせるようにと修行を積んだのだった。


「掃除は終わったし、少し……」


 休憩しよう、と思ったときだ。

 見知った霊気の顕現を感じて振り返る。

 彼岸花が無数に咲き乱れる中、ほんの少し地肌が覗いている箇所に、花を踏んで折ってしまわないよう留意しつつ顕現した楓雅がいた。精悍な容貌に、どこか儚げな彼岸花は、なぜかよく似合った。こちらを見つめる眼差しに、戸惑いに近いものが映っているからだろうか。


「楓なのに彼岸花が似合うわね、貴方」

「そうか?」

「ええ、とても」


 黒の単衣に暗い朱色の袴を身に着けた楓雅と紅い彼岸花の群れ。色合い的にも綺麗だ。

 巫女は宣言通り再び顔を見せに来た精霊にそっと微笑んだ。


「せっかく来てくれたんだもの。ゆっくり話しましょうか」


 ***


 そこまで聞いて、梅妃は目を細めた。

 過去を語る楓雅は天を仰いでいて、こちらを見ていない。だが、その横顔に表情はない。宵闇を写し込んだような紫苑の瞳は、静かに鈍く輝く月を見つめている。


「……ぬし」

「俺は生を受けて以来、巫女と出会うまでは人間と触れ合うことがほぼなかった。他の精霊との関係もなかったけどな。……初めてだったんだよ。あんなに誰かことを大切に思ったのは」

「……そうか」


 静かに応じて、息をついた。胸元に手を当てて、瞼を伏せる。胸に燻るこの気持ちを、目の前の男もよく知っていることだろう。燃え盛る炎で焼かれるのではない。炭の中に隠れた火種が、絶えることなく燃え続けているのだ。経験という名の火種は鎮火することなく、胸の奥を常に焼いている。人間と接する精霊は、誰しもこの鈍痛を味わう。

 人間を大切に思う。特定の人間に、想いを抱く。

 それは、精霊にとって必ず痛みを伴うものだ。

 なぜなら、彼らは自分らよりも遥かに早く、呆気なく、死んでしまう。


 ***


「こんなに早くまた来てくれるとは思わなかったわ」


 巫女の笑顔が輝いている。

 先日助け出されたときと同じ巫女の私室に招き入れられた楓雅は、出された水を口にして苦笑した。


「そんなに嬉しいのか?」

「当たり前よ。私、いつも一人だもの。誰かが来てくれると、とても嬉しい」

「参拝客相手でも、そんな風なのか?」

「それは……そうね。少し違うわ。なんでかしら。貴方の姿が見えたとき、本当に嬉しかったのよ。今もだけど」


 さらっと、とんでもないことを言ってくれる。嫌でも動悸が激しくなる。

 動揺していることを悟られたくなくて、巫女から顔を背け、ぶっきらぼうに言い放つ。


「俺が知るか」

「そうやって、私を人間として扱ってくれるからかもしれないわね」


 巫女の返事が予想外にも静かで、しかも暗く、重いものだったので、楓雅は瞬きしながら傍らに座っている巫女を見下ろした。


「……どういうことだ?」

「私の霊力の強さ、見たでしょう?」


 床に端座した巫女は掌を上に向けて瞼を落とした。蛍火のような淡い光が掌から舞い上がり、それらは巫女の思惟に従って楓雅の周囲をふわふわと飛び回る。

 蛍の季節はとうに終わった。だからこそ、季節外れの蛍を思わせる燐光は、正直に綺麗だと思えた。本来なら、この時期には見ることのない光だ。

 小さな光の群れを目で追っていた楓雅は、いつの間にか巫女が目を開けてこちらを見ていることに気がついた。


「……美しいな。霊気の光か」


 素直に感想を述べると、なぜか巫女は悲しげに微笑む。

 何か気に障ることを言っただろうかと不安になったが、巫女はそっと首を振って否定した。


「そんな顔をしないで、楓雅。貴方は悪くないわ。ただ、そんな風に言ってくれた人は貴方の他には宮司様だけだったから……」


 それを聞いて腑に落ちた。

 なるほど、そういうことか。

 巫女の持つ力は普通の人間を軽く超えている。逸脱している。巫女という立場がなければ、異質なものとして忌避されていただろう。

 だが、巫女であったとしても、もうこの女は普通の人間と交わった生活は送ることができない。仮に、巫女が人里で暮らそうと思っても、人々の営みの中に馴染むことは難しい。巫女の霊力は、彼女が巫女であるからこそ人々に受け容れられているのであって、ただの女になってしまえば、恐らく化け物として扱われる。人間は異質なものを過度に恐れてしまうから。、しまうから。

 もう巫女は普通の人間として、女として、平凡な生を送ることはできないのだ。

 そして、それを本人は当然のことだと納得して、受け止めている。しかし、それでも自分を理解してくれる者には飢えてしまうのだろう。巫女である。その前に何より、自分が人間の女である。それらを知った上で、この常軌を逸した能力を有する自分を認めてくれる者を欲してしまうのだ。

 人間という生き物のは臆病で、脆くて、儚い。

 接点を持たず、遠目に人々の生きる様を見てきた楓雅でも、そんな印象を抱いている。

 この巫女とて、精霊の楓雅から見れば壊れやすく、崩れやすく、柔らかいものだ。……ただ、彼女から与えられるものは、とても温かい。

 そんな彼女が、このような痛みを堪えて無理に笑っているなど、耐えられない。


「――俺がここにいるときくらいは」


 一人で生きざるを得ない巫女。なら、せめて独りにはしない。

 楓雅は手を伸ばして、巫女の頭をわしゃわしゃと撫で回した。子供の頭にしてやるのと、同じように。結い上げた髪を崩さないように気をつけているので、動きが少しぎこちないが。それでも、楓雅は目の前にある頭を撫でた。


「年相応な人間の娘らしく、振る舞っていい」


 巫女が大きく目を見開いて、背の高い楓雅を見上げる。頭を撫でてくる楓雅が穏やかに笑っているのを認めると、巫女はぱっと下を向いて、込み上げる嗚咽を必死に飲み込んだ。


「巫女?」

「な……何でも、ない……っ」

「おいおい。どう見ても泣いてるだろうが。ほら、顔上げろ?」

「平気、だから……っ」

「お前……変なところで気が強いというか、矜持が許さないのか?」

「泣いてなんか、いませんっ……!」


 意地を張る姿が幼く見えた。

 その姿は凛として、強かで、まっすぐな巫女ではない。脆く、儚く、孤独と寂しさを抱えた一人の女だ。


「全く……」


 強情な女だ。

 泣き顔だけは見せまいとする巫女に淡く苦笑し、楓雅はその顔を覗き込もうとはせず、ただ背中を撫でてやっていた。


 ***


 巫女との平穏な日々は、一年ほど続いた。

 数日に一回といった頻度で社を訪ね、周辺を散策したり、社の仕事を手伝ったりと巫女と共に時を過ごした。

 邪気を祓う使命の合間。束の間の癒しの時。


「楓雅」


 巫女が呼んでいる。

 巫女が自分を呼んでいる。

 笑顔で呼んでいる。

 ずっと、この時が続けばいい。

 そう、願っていたのだ。

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