脅威と救い
「おせーよ」
「ごめんごめん」
ファンサーに勤しんでいた魁斗の方が先に着席しているというのは、いくらなんでもおかしいだろう。
それは魁斗も同意見なようで、仕方ない奴と言いたげに苦笑している。
「桜緋がいたのに迷ったのか?」
「桜緋、大講堂がどれか分からなかったから」
「あー……そらしゃあないわ」
上空から見ても建物の区別つかなきゃそりゃあなぁ……と呟く魁斗。
ほんと、あれは仕方がなかった。
「そういえば、ファンの子たちにはサインしてあげたの?」
「ああ。そりゃな」
「全員?」
「おう。ったりめーだろ」
「全員……」
あの人だかり。ざっと四十人はいた。
学校の一クラス分に相当する人数を相手にしてきたというのか。
「つっても、サインしてたら、どんどん人が来てなぁ……結局、五十人くらいは相手した気がする」
「なんかもう……すごいな」
「ははっ。慣れだ慣れ。慣れるもんだって」
表向きは呑気に笑っているが、そんなにもファンができたことに対する感謝と誇りは、きちんと忘れていないらしい。
実は時折、千尋から視線を外しながら今まで魁斗は会話していたのだが、その外した視線はというと、魁斗に熱い眼差しを向けてくる、客席についたファンにやっているのだ。
演奏会を見に来たのだか、魁斗を拝みに来たのだか、わかったものではない。しかし、そういう理由であっても、演奏会の客入りが良くなるのなら、それはそれでいいのかもしれない。
魁斗も、きっとそう思っている。妹の演奏を一人でも多くの人に聴いてもらいたい。そんな気持ちが胸にあるのだろう。本当に、魁斗は困ったシスコンだが、いい兄貴だ。
そろそろ開演の時間だ。
照明が落ちて、暗くなるはず。
しかし、時間が経っても、一向に照明は落ちなかった。
「……おかしいな」
「そうだね……」
「何かトラブルか?」
「うーん……なんとも言えないけど……」
魁斗は幕が降りたままの舞台を見ながら目を細め、千尋は辺りに視線を走らせた。
『おい、まずいかもしれん』
「え?」
隠形している桜緋の切羽詰まった一声に千尋が反応するのと同時に、入り口から若い女性が通路を小走りに駆けてきて、魁斗に話しかけた。
会場内のため女性は小声だったが、隣に座る千尋にも、その内容は十分に聞き取れた。
「森川さんの保護者の方でしょうか」
「はい。兄ですが」
「私は吹奏楽部の副顧問です。実はさっき、千歳さんが急に倒れて、今から救急車を……」
「俺も行きます」
話を最後まで聞かずに魁斗は立ち上がった。
踵を返して通路を戻っていく。無論、千尋も続いた。その後を、副顧問の女性が付いて来る。
通路を早歩きで戻りながら、魁斗は小声で桜緋に問うた。
「桜緋」
『……』
桜緋は沈黙を返したが、魁斗は気にせず確認した。
「邪気、なんだな」
知らない方が良かっただろうに、と桜緋は思った。しかし、ここまで確信を持っているようでは、こちらも下手に隠すことも、誤魔化すこともできなかった。
揺らぎようのない現実として、肯定せざるを得ない。
『……ああ。そうだ。その通りだ。……すまない、気づくのが遅れた』
「――――分かった」
魁斗の応えは意外にも静かなものだった。愛する千歳の一大事だ。いつもの魁斗なら、衆目の中でも声を荒げるくらいはしただろう。
後を追う千尋は不思議に思ったが、魁斗の背中しか見えず、その表情は分からない。しかし、その広い肩は小刻みに震えている。
そうか。魁斗は単に声を抑えているのではない。
邪気という人間の医療科学ではどうしようもない事象。それに最愛の妹が巻き込まれたという底知れない不安。
それらに呑まれないよう、魁斗は必死に己を律しているのだった。
***
保健室の寝台に横たわった千歳は大粒の汗をかきながら、浅い呼吸を繰り返していた。
保健教諭と思しき若めの女性がタオルで丁寧にその汗を拭っている。
迷路のような校舎内を移動してきたため、千尋は軽く目が回っていたが、千歳の状態を目視した途端、そんな眩暈は吹っ飛んで、代わりにゾクゾクとした寒さが身を襲った。
なんだ、これは。
恐ろしさが心の底から込み上がってきた。
こんな症状が、邪気のせいで?
信じられなかった。信じたくなかった。
「三十九度の発熱です。原因も分かりませんし、今は一刻も早く病院に搬送して検査をするしか……」
保健教諭の説明も、ろくに耳に入らなかった。
邪気がこのように身体へ大きな影響を及ぼす事態は千尋も初めてだ。しかも、症状が重い。
隣に立つ魁斗をちらりと見れば、その顔面は蒼白。今にも倒れそうな顔で、魁斗は横になっている千歳の近くに寄った。
「千歳……」
真っ赤に染まった頬に触れると、ジンジンと熱が伝わってきた。
頬を撫で、額に触れ、髪を撫でてやる。しかし、千歳からは何の反応もなく、ただ苦しげに呻きながら息を繰り返している。
「……すまねぇ」
兄貴は何もしてやれない。最悪、医者でも治してやれないかもしれない。
「……千歳」
このまま妹は邪気に呑まれてしまうのか。
そして自分は何も、してやれないのか。
無力感に打ちのめされる魁斗を千尋は黙って見つめていたが、不意に後ろを振り返った。
(桜緋?)
隠形しているはずの桜緋の気配がない。
遠慮して外しているのだろうか。
「救急車が到着しました」
事務員が顔を出し、ばたばたと搬送の準備が始まった。
「魁斗」
「ああ……」
苦痛に悶える千歳が寝台からストレッチャーに移され、そこから外に停まった車両に運び込まれた。
二人も一緒に乗り込んだが、やはり桜緋がいない。もしかしたら、原因を探りに行っているのかもしれない。千尋は魁斗に声をかけながら、そう考えていた。
***
「……邪気が、これほどに」
二人の傍からいったん離れた桜緋は戦艦三笠の甲板に佇んでいた。
荒々しい潮風が髪を乱し、激しく顔を叩いたが、一切気にしない。
「前にも、あったな。こんなことが……」
あれはもう千年近く前のことだ。また似たようなことが起こるとは思ってもみなかった。
邪気が広がり、人々の身体を蝕む。人々は抗いようもなく、邪気による熱病に冒されて死んでいく。
あんな悪夢を再び繰り返してはならない。
「……私は確かにあのとき、お前を排除した」
お前はもう、表に出てくることはできない。だが、胸騒ぎは止まらない。邪気が桜の気を纏っているたび、私は恐ろしさに駆られるのだ。お前なのでは、と思ってしまう。いや、今は目の前のことを。単なる憶測に振り回されてはならない。けれど、もしかしたらお前が今回も……?
違う。そうじゃない。昔のことは過ぎたこと。現実と過去を混同してはならない。冷静に、事実を見極めなくては。
乱れる思考を無理やり整理し、桜緋はその場を後にした。
一連の元凶を祓って、人々を救う。
それが、自分の為すべきことだから。
***
「なぁ、千尋」
検査の結果、原因不明の熱病とのことだった。
邪気という概念が一般人には存在しない。原因不明と診断されて当然といえば、当然だった。
魁斗の呼びかけに、尋は売店で買ってきたコーヒーを渡しながら応えた。
「なに?」
千尋を見据える魁斗の瞳には、鬼気迫るものがあった。妹を救う。それだけを追求する兄の意志があった。
「原因は邪気なんだよな」
「そう、だけど……何、言い出す気?」
たぶん突拍子もないことを魁斗は考えている。そして、それを本気で実行しようとしている。是が非でも。
そして、その予想は正しかった。
「俺に千歳を苦しめてる邪気を移せ」
千尋は瞠目した。
何を言い出すのだ。そんなこと、できるわけがない。自分は確かに邪気と惹かれ合う。だからといって、千歳を蝕む邪気を魁斗の身体に移すなどという芸当が、自分にできるわけがなかった。
「分かってるさ。無茶だってことは、俺にだって。……けどよ、お前なら成功する可能性はあるだろ」
「何言って……僕は邪気も祓えない。移すなんて、なおさら……」
「いや、できる」
魁斗は断言した。まるで、根拠があるかのように。
いや、あるのだ。根拠が。
「……どうやるつもり」
「桜緋と力を合わせりゃ、できなくない。……そうだろ?」
嗚呼、そういうことか。
千尋も腑に落ちた。確かに、桜緋とならできるかもしれない。だけど、わざわざ魁斗へ移さずとも、桜緋に祓ってもらえば良いのでは?
それを素直に口にしたら、魁斗は馬鹿かと言うように肩を竦めた。
「祓えんなら、こんな状況になる前にやってただろ。……千歳が倒れた時点で、俺らから離れて、祓いに行きゃ良かったんだ。千歳がまずいことになった、なんて言わずに、黙ってな。だが、それをしなかった。なぜか。……桜緋は、千歳の邪気を祓えないからだ」
「その通りだよ」
少し乱れた髪を手で押さえながら、桜緋が顕現した。
「桜緋」
「少し対策を練っていた。大変な時に外してしまって、すまなかった」
「構わねぇ。……桜緋。今の聞いてたんだろ? 答えは、どうだ」
桜緋は、まっすぐ魁斗を見据えて即答した。
「できない」
「……不可能、ってことか?」
「できない。無理でも、無茶でも、無謀でもない。――できないんだよ、魁斗」
「理由を聞かせろ」
桜緋は千歳の眠るベッドの端に腰掛けて理由を語り始めた。その視線は魁斗だけを捉えている。無鉄砲な考えはさっさと捨てろ、と目で言い聞かせているのだ。
「……確かに、お前の言う通り、私の精霊としての力と千尋の体質を利用すれば、邪気を千歳から移すことは、道理上は可能だ」
「なら」
「言っただろう。できないと」
桜緋は視線を落として、静かに眠っている千歳の方を見た。さっきまでは、苦痛によって表情が歪んでいたけれど、今は薬のおかげで穏やかな表情をしている。
魁斗も千歳に切なげな眼差しを向けた。そして、そっと頬を撫でてやる。
「……千歳は、お前よりも強い霊力を持っている。分かりやすく言えば、千歳は霊的にタフだ。お前よりも」
厳しいことを口にしているが、桜緋とて、この兄妹を救いたいと強く思っているのだ。
千尋が幼少から深く愛し、自分に対しても好意的に接してくれる、この兄妹には健やかで、幸福であってほしい。だが、今の状況を無理に動かしてしまえば……
「そんな千歳が、ここまで消耗する邪気をお前に移した日には、お前は――確実に、死ぬ」
「……俺は」
魁斗は顔を上げて、真っ向から桜緋を見据えた。
強い意志と覚悟の滲んだ、兄の――男の顔だ。
「それでも構わない」
しかし、桜緋はあっさり否定した。
「構うさ」
「どうして……ッ」
激昂して立ち上がりそうになった魁斗を千尋が慌てて抑えた。
「魁斗!」
「千尋は引っ込んでろ!」
「ここ病院だし、第一、千歳ちゃんが寝てるんだよ!?」
千歳という言葉に反応した魁斗から力が抜けた。
そうだ。千歳が寝ている。そこで。怒鳴ったりしたら、きっと……
(病院でうるさくしないの、兄さん)
兄を諌める千歳の、いつもの声が耳の奥に甦り、喉と鼻の奥がジーンと痺れる。
落ち着きを取り戻した魁斗は、再び椅子に腰を下ろした。
桜緋は一連のやり取りを静かに見ていた。
「……すまん」
「いや。私も配慮に欠けていた」
「……で、なんで実行可能で、かつ俺の承諾もある行為を、お前はやらない。できないと言い切る」
「仮に、お前が千歳から移した邪気に呑まれて死んだとしよう。……邪気から解放されたことにより快復した千歳は、自分は最愛の兄を犠牲にして命を繋いだという業を、死ぬその瞬間まで背負って生きていくのだぞ」
「っ……」
「妹想いであることは良いことだ。だがな……妹も、兄を想っているということを、忘れるな」
桜緋の静かな説教は、魁斗の胸を深く抉った。だって、そうだろう? 要するに、兄貴は苦しむ妹に何もしてやれることはない、ということではないか。
魁斗は、とうとう反論をやめて項垂れた。
理解した。納得した。だが――悔しい。
「……応急処置でしかないが」
桜緋は低く呟き、千歳の額に掌を乗せた。
桜緋の白い手が仄かに発光し始めた。そして、しばらくしてから手を離す。
少しだけ、千歳の顔色が良くなったように見えるのは気のせいではないだろう。
「これほど高濃度の邪気を全て取り除くことはできないが、一時的な処置くらいは施せるからな。これで、しばらくは容体が急変するようなことはないだろう」
「そう、か……ありがとな、桜緋」
魁斗も少しは安心できたらしい。微笑んで礼を口にした。
すると、西日がカーテンの隙間から差し込んできた。そろそろ日が沈む。
千尋も、そろそろ帰った方がいいかもしれない。
「千尋」
桜緋が立っている千尋に目を向けた。
「千歳を、治したいか?」
否、と言うわけがない。即答した。
「当たり前だよ」
「いい返事だ。……千尋。私たちなら、この邪気の大元を叩ける」
「本当に?」
「ああ。……最近この地域で流行っている邪気は、全て桜の気を纏っている。今この瞬間、千歳に巣食っているものもそうだ。私は桜の精霊だ。桜である私なら、魔に染まってしまった桜――邪気の源を見つけられる。そこで、だ。……千尋の力を借りたい」
「……僕の体質ってこと?」
「そうだ。お前の体質なら、大元を誘き出すことができる。お前が誘き出し、私が叩く。完璧だろう? ……まぁ、もっと早く実行していれば、という悔いもあるが」
「今からでも遅くはないと思うぜ」
魁斗が不敵な笑みを浮かべて口を挟んだ。
「救えるなら、救ってほしい。それが邪気にやられてる人間らの、共通の願いだと思うからよ。――終わり良ければ全て良しってやつだ」
千尋と桜緋は魁斗に頷いて見せた。
強気な台詞を言っていても、妹が魔に冒されているという焦りと恐怖は消えていないのだから。早く、魁斗を心から安心させてやりたい。
魁斗と千歳だけじゃない。邪気の被害を受けている全ての人々を、だ。
「ああ。言ったからには、すぐに動こう。……今晩にでも」
「方法は?」
千尋の尤もな問いに、桜緋は挑戦的な笑みを返した。
「千尋の夢の中。そこに、元凶を誘き出す」
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