第30話 引き際と折れ時

「あの、幸恵さん。一緒にお昼を食べませんか?」

 弁当が叩き落された翌日も、綾乃はめげずに昼時に商品開発部にやって来た。部屋に残っていた者達は、一気に緊張感を増した表情で女二人を見やったが、その日はそれまでとは違う経過を辿る。

 綾乃と相対した幸恵は僅かに不機嫌そうな顔を見せたが、綾乃の問いかけに十数秒黙っていた後に、ボソッとぼそりと呟いた。


「……因みに、メインのおかずは何?」

「チキン南蛮です!」

 初めて幸恵から比較的まともな会話の反応があった事に嬉しくなりながら綾乃が答えると、幸恵はあまり気のりしない口調ながらも、一応言葉を返した。


「まあ、それなら……、偶々今日は食べたい気分だから、食べてあげても良いわ」

「本当ですか!? 是非食べて下さい!」

「じゃあそっちで待ってなさい。お茶を淹れてくるから」

「はい、分かりました」

 周りの者はこれまでのような揉め事が生じなかった事に、揃って胸を撫で下ろし、殆どの者が安心して食事に出かけたが、仕事中の者や自分の席で弁当を食べている幾人かの者は、時折綾乃が座っている応接セットの方にチラチラと視線を向けた。そんな中、大して時間を要さずに幸恵が手早く二人分のお茶を淹れ、コーヒーテーブルにカップを置いてソファーに座る。


「いただきます!」

「……いただきます」

 そして綾乃は笑顔で、幸恵は無表情で挨拶をしてから、弁当を食べ始めた。

 綾乃はチラチラと幸恵の顔色を窺いつつ、しかし余計な事は言わずに食べ、幸恵は綾乃と視線を合わせずに、ただ黙々と食べ続ける。その為、前日までとは違った意味の緊張感が室内に満ち満ちてきたが、当然本人達はそれに気付かないまま、順調に食べ終えた。


「御馳走様でした!」

「……御馳走様でした」

 そして何も聞かずに空のタッパーを受け取り、満足そうにいそいそと荷物を纏め始めた綾乃を見て、幸恵が思わず声をかける。

「その……」

「はい、何でしょうか?」

 手の動きを止めてキョトンとしながら見返してくる綾乃に、幸恵は視線をあちこちに向けて逡巡してから、諦めて口を開いた。


「……料理が上手なのね。美味しかったわ」

 短く幸恵が感想を述べると、綾乃は一瞬何を言われたか分からない表情をしてから、すぐに満面の笑みで頷いた。


「ありがとうございます! お口に合ったようで良かったです」

「もう気が済んだでしょ? 毎日作るのは大変だろうし、もう作って来なくて良いから」

 続けて幸恵が短く、これ以上作ってこないように告げたが、綾乃が迷いながらも抵抗を示した。


「えっと、でも……」

「気分が乗っていて、昼食抜きでぶっ続けで仕事をしたい時もあるし、逆に気分転換に外に食べに行きたい時もあるのよ」

 毎日作らせたら綾乃の負担になるだろうと思い、かなりこじつけに近い理由を捻り出してみた幸恵だったが、ここで漸く綾乃は納得してみせた。


「えっと……、そうですね。じゃあ、メルアドを教えて頂けませんか?」

「……どうして?」

 いきなり飛んだ話に、反射的に幸恵が難しい顔をすると、綾乃が幾分申し訳なさそうに告げる。

「これからはお弁当を作るのは止めますが、予め幸恵さんの都合を確認して、お昼を誘う手段が欲しいので……。時々は、ご一緒して貰いたいかな、と」

 もじもじとしながらも自分の希望をきちんと述べた綾乃に、幸恵は色々諦めた表情になりながら、ポケットから携帯電話を取り出した。


「分かったわ。ちょっと待って」

 そうして首尾良く幸恵と携番とメルアドの交換を済ませた綾乃は、笑顔で頭を下げた。

「ありがとうございました。今度は予め、都合を聞きますね? お邪魔しました!」

 そして足取りも軽く綾乃が商品開発部の部屋を出ていくと、それまで自分の席で仕事をしていた弘樹が、幸恵の元に歩み寄り、ニヤニヤ笑いながら軽く幸恵の肩を叩く。


「上出来だ」

「……五月蝿いです、遠藤係長」

 肩に乗せられた手を払いのけながら、幸恵はぶすくれた顔で弘樹に文句を言ったが、その顔と耳が照れの為か少し赤くなっているのが丸分かりだった為、弘樹は必死に笑いを堪える羽目になった。


 その日、幸恵は退社して自宅に戻ってからすぐに、祐司に電話をかけた。

「今、暇かしら?」

「ああ。話をするには、支障は無い。どうかしたのか?」

 訝し気なその声に、幸恵は軽く息を整えてから、改まった口調で告げた。


「言われた通り、頭は下げなかったけど、ちゃんと一緒にお弁当は食べたわよ」

「そうか」

「それに、『美味しかった』とも言いましたからね」

「お前の事だから、下手なお世辞は言わなかっただろうし、本当に美味かったんだろうな……」

 電話越しに、何やら苦笑する気配が伝わってきた為、幸恵は一瞬考え込み、すぐに気付いた事を口にした。


「あら? そう言えば、係長も私も既に食べた事がある、彼女の手作り弁当を、高木さんはまだ食べさせて貰っていないとか?」

「……つまらない嫌みを言うな」

「悪かったわ。つい、からかいたくなって」

 如何にも面白く無さそうな口調で言われた幸恵は、思わず吹き出してしまった。そのまま小さく笑っていると、祐司から苦笑交じりの声がかけられる。


「『高木さん』なんて呼ばれるから、余計に嫌みっぽく聞こえるんだ。お前とはこれからも友人付き合いはしたいと思うし、そっちが良ければ以前みたいに名前で呼んでも良いぞ?」

 それを聞いた幸恵は当惑し、次いで友人付き合い云々について考えてみてから、祐司に了承の返事をした。


「そうね。この機会に私も祐司とは、改めて友人付き合いを再開したいし、私の事も幸恵って呼んで構わないわよ? 他人に誤解されても、知りませんけどね」

「それこそ、そんな変な誤解をするような奴とは、友人付き合いなんかするつもりは無いがな」

 そんな風に、幸恵は祐司と幾つかの軽口を叩き合ってから、暫くぶりにすっきりとした表情になって、通話を終わらせた。


 一方の祐司は、予想外に友好的だった彼女との通話を終わらせてから、綾乃の携帯電話にかけてみると、予想以上のハイテンションな声が返ってきた。


「それで! 今日は幸恵さんにお弁当を食べて貰えたんです!」

「そうか、良かったな」

「はい! しかも『美味しかったわ』とか、『お料理上手なのね』って、たくさん誉めて貰えました!」

「あいつには珍しく、随分素直だな。気持ち悪い位だ」

「それに、今度お誘いしたいので、メルアドを教えて下さいってお願いしたら、メルアドと一緒に携番まで教えて貰っちゃったんですぅぅぅっ!! 嬉しいぃぃぃっ!!」

「…………お疲れ様」

 とても会話の合間に口を挟む事すらできず、祐司は携電話片手に顔を引き攣らせた。

 実は綾乃は、公子から「幸恵さんの前で騒ぎ立てると彼女が気分を悪くするだから、嬉しくてもグッと我慢して押さえておきなさい」とアドバイスを受けた為、幸恵の前では喜びを抑えていたのだった。その反動で祐司がそれについて言及した途端、彼女の理性のタガが外れて喋りまくってしまったのだが、詳しい事情など知る由もない彼は、話を続けるかどうか僅かに迷ってから、何とか気合いを入れて口を開いた。


「その……、幸恵と仲直り、と言うか和解、と言うのも少し変だが、とにかく何とかなって良かったな」

「はいっ! これから幸恵さんともっと仲良くなれる様に頑張ります!」

「ああ、それから俺の方も、今後は幸恵と友人付き合いをしていこうと言う話になって、互いに名前で呼ぶと言う事になって」

「そうだったんですか。それなら尚の事良かったです!」

「うん、……そうだな。ところで話は変わるが、幸恵の方の問題は今回の事で片が付いたと思うし、そろそろ保留になっている俺への返事」

「ぅあぁぁぁっ!! しゅっ、すみゅばせん! 私、今日、眞紀子さんに電話しないと、いけなかったでした!」

「え?」

 さり気なく祐司が話題を変えようとしたところで、いきなり綾乃が奇声をあげ、微妙に噛む口調でまくし立てた内容に、祐司の顔が軽く引き攣った。しかし電話の向こうの綾乃は、そんな祐司の戸惑いなど全く構わないまままくし立てる。


「この間幸恵さんの事で、色々相談に乗って貰ってましたし、散々愚痴も零してたから絶対心配してます! 今から電話しますので、申し訳ありません、失礼しますっ!!」

「あ、ちょっと待った!!」

 慌てて祐司は制止の叫びを上げたが、如何にも慌ただしく電話が切られ、耳に無機質な信号音のみが届いた。そこで、祐司ががっくりと項垂れる。


「……切られた」

 しかし一分も経たないうちに着信音が鳴り響き、祐司は即行で相手を確認もせず、嬉々として電話に出た。

「はい、もしもしっ!?」

「あら? 随分張り切ってるのね、祐司。例のお好み焼きの綾乃ちゃん、だったかしら? 二人仲良く順風満帆? 結婚式には呼んでね?」

 しかし電話越しに能天気で楽しげな声が聞こえてきた瞬間、祐司は前にも増して暗い顔で俯いた。


「姉貴……」

「え? ちょっと何か、いきなり声が暗くなった感じがするんだけど、どうかしたの?」

「姉貴。俺、ちょっと浮上できないかも……」

「はぁ? あんた何を言ってるの?」

 怪訝な声で問いかけられた祐司は、この間の話していなかった経過を、溜め息と共に姉に語って聞かせたのだった。

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