第5話 近づきたくないデンジャラスゾーン

 綾乃も仕事に一区切り付けて立ち上がると、斜め前の席の先輩である宮前香奈も立ち上がり、二人で社員食堂に出向く事にする。

 そして廊下を歩き出した二人だが、部屋を出てすぐに香奈が心配そうに声をかけてきた。


「ねえ、綾乃ちゃん、どうかしたの? 何か今日変だよね? 午前中変な呻き声上げたかと思ったら、真っ青になって仕事してたし。さっきから溜め息ばかり吐いてるし。具合が悪いなら無理しちゃ駄目よ?」

 面倒見の良い香奈が、本心から心配してくれているのが分かった綾乃は、気配りして貰って嬉しいと思う反面、個人的な事で心配をかけてしまって申し訳ないと思った。その為、なるべく笑顔を心掛けながら、心配要らない事を告げる。


「ご心配おかけしてすみません、香奈先輩。大した事はありませんので」

「それなら良いんだけど」

 幾分不思議そうな顔をした香奈だったが、不必要に追及したりはせず、あっさりと話を終わらせた。そこで綾乃がふと思い付いた事を口にしてみる。


「先輩、ちょっとお聞きしても良いですか?」

「何?」

「その……、ここの社員数って結構居ると思いますが、遠藤弘樹さんと高木祐司さんって言う方が、どういう人達なのかご存知ですか? 所属は分からないんですが……」

(流石に名前だけでは無理かしら?)

 歩きながらさりげなく尋ねてみた綾乃だったが、それを聞いた香奈が急に足を止めて、驚きの声を上げた。


「はあぁ?」

「え?」

 香奈の反応に綾乃も驚き、同様に足を止めて当惑の表情で相手を見返す。すると香奈は如何にも疑わしげに問い返してきた。


「何? まさかあの二人を知らないとか、言わないわよね?」

「その、まさかです……。社内では結構知られた方なんでしょうか?」

 申し訳無さそうに綾乃が俯くと、香奈は無言で何度か瞬きしてから、小さく溜め息を零した。


「そうか、周りの新人達はキャアキャア言ってたけど、綾乃ちゃんはそういうタイプじゃ無かったわね。知らないのも無理はないわ」

「……すみません」

 思わず小さく頭を下げた綾乃の背中を軽く叩いて促しつつ、香奈は社員食堂への道を再び歩き始める。


「謝る事は無いわよ。浮ついた噂話に花を咲かせたりしてないって事だから。誉めてるのよ?」

「はい」

(まあ、そんな所が、同期の子達の中でも浮いてる感じがする原因なんだけどね)

 困ったように横目で綾乃を眺めてから、香奈は取り敢えず先程の質問に答える事にした。


「じゃあ取り敢えずその二人の事を、知っている範囲で教えるわね? 遠藤さんは商品開発部第三課の係長、二十九歳で彼女多数、ついでに言うとうちの社長の息子」

「しゃ、社長令息なんですか?」

 サラッと言われた言葉に綾乃が驚いて確認をいれたが、香奈は嫌そうに顔を歪めながら話を続けた。


「ええ。そうでなかったらあのチャランポラン男が、三十前に係長になれるわけ無いわよ」

「か、香奈先輩。こんな人目がある場所でそんな事……」

 廊下は彼女達と同様に、昼食を取る為に食堂や外部の店に出向く社員が行き来しており、その人達に聞かれてはと顔色を変えたが、香奈はあっさりしたものだった。


「皆言ってる事だし、本人もそれを耳にしてもヘラヘラ笑ってるから大丈夫よ。それに私、そもそもタレ目って生理的に受け付けないのよね」

 あまりにも露骨な蔑むような物言いに、綾乃は流石に同意するのを躊躇われた。


(えっと、確かに目尻が下がってたけど、その分人懐っこそうな印象だったけどな……。だけど私の所属先を調べたり、社内メールを送れた訳が分かったわ。思い切り公私混同したって事だよね。確かにチャランポランのバカボンかも……)

 香奈に負けず劣らず失礼な事を考えていた綾乃に、香奈が続けてもう一人の人物について言及する。


「高木さんも同じ二十九歳で、遠藤さんとは大学時代からの親友だそうよ。所属は営業二課で今の所は一応フリー? 取り敢えず遠藤さんみたいに同時進行してない分、マシだとは言えるけど、相手に飽きたらすぐにこっぴどく振るって噂なのよね」

「あ、あの……、『遠藤さんみたいに同時進行』って……」

「二股三股四股って事」

「本当に居るんですね、そういう人……」

 思わず疑問を呈した綾乃だったが、淡々と返されて言葉を失う。それを見た香奈が、肩を竦めつつ客観的事実を述べた。


「タイプは違うけど二人ともそれなりに顔立ちは整ってるし、遠藤さんは社長の息子、高木さんは営業部のホープで将来性はあると思われてるの。加えて遠藤さんは誰彼構わず愛想が良いし、高木さんは無愛想だけどその冷たい所が良いって、社内独身女性の格好の的なのよ。私は趣味じゃないけど」

「はぁ……」

 半ば呆然と綾乃が相槌を打つと、通路の向こう側から社員食堂へと入ろうとしている一団が目に入った。それ見た瞬間綾乃は表情を凍らせ、横から香奈が呆れた口調で解説を入れてくる。


「噂をすれば影ね。相も変わらず取り巻きを引き連れて、ご苦労な事。遠藤さんの周りに居るのがその四股かけられてる連中で、高木さんの周りに居るのが恋人の座狙いの連中よ」

(うっ、やっぱりあの二人……)

 さり気なく香奈の背後に隠れるように移動しつつ、こっそり様子を伺いながら観察すると、そんな綾乃の行動を不審に思いながらも、香奈が斜め後ろを振り返りつつ再度確認を入れた。


「でも綾乃ちゃん、本当にあの二人の事、今まで知らなかったの?」

「……はぁ」

(いつもあんなに引き連れて歩いていたなら、気付いててもおかしくないのに、やっぱり私、相当鈍いのかな?)

 日頃気にしている事を思い返した綾乃が密かに落ち込んでいると、香奈が急に厳しい口調になって言い出した。


「言っておくけど綾乃ちゃん、あの二人に不用意に近付いちゃ駄目よ? あの取り巻き連中に睨まれて、えげつない嫌がらせをされるから」

「え?」

「以前、私の同期が連中の隙を見て果敢にアタックしたけど、バレて嫌がらせされた挙げ句、自主退職に追い込まれちゃったのよ」

「…………」

 予想外の事を聞かされて、完全に絶句した綾乃に、香奈が容赦なく追い討ちをかける。


「あの連中も一見仲良さげだけど、陰で本人達に分からない様に結構激しい鍔迫り合いをしている筈だし。あの二人にとっての一番、唯一になろうとしてね?」

「怖っ……」

 思わず涙目で本音を漏らすと、香奈は真顔で言い聞かせてきた。


「でしょう? だから綾乃ちゃんみたいな若くて可愛いタイプは、あの二人を見かけたら回れ右した方が良いわ。普通に挨拶しただけでも、取り巻き連中に嫉妬されて難癖付けられかねないもの。あの人達揃ってアラサーで、色々崖っぷちで焦ってるしね」

「いえっ……、それはっ」

 後半はどこか面白がっているように聞こえたが、可愛いと言われた事に綾乃がわたわたと動揺しつつ、漸く先程のメールで気になった内容の意味が理解できた。


(なるほど、あの人が直接社内で謝りに来れない訳が分かったわ。誰の目に触れるか分からない場所でそんな事をされたら、絶対噂になって下手すれば「何あの二人に頭を下げさせてるのよ!」とか難癖を付けられて、忽ち制裁対象……)

 そこまで考えて通路に立ち尽くしたまま真っ青になった綾乃を見て、香奈は少々焦りながら声をかけた。


「ねぇ、綾乃ちゃん、本当に大丈夫? 何だか、顔色が真っ青よ?」

「だっ、大丈夫です! 何でもありませんから、お気遣い無く!」

「そう? それなら良いんだけど……」

 そんなやり取りをしながら何気なく食堂の入り口に目をやると、例の一行が中に入るところだった。そして中心にいた人物の視線と、綾乃のそれが絡み合う。


(え、何か今、目が合った?)

 そう思ったのはほんの一瞬で、すぐに一行は食堂内に消えたが、綾乃は恐れおののいた。


(どっ、どうしよう……、もう結構ですって言っても引いてくれないみたいだし。変に関わり合いになりたくないのに……)

 結果として「やっぱり今日は食堂は止めて外に行きましょう」と、常には無い強引さで綾乃が香奈をその場から引きずって行き、そんな綾乃の態度に、香奈はひたすら首を捻る事になった。

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