第2話 衝撃的な出会い

 そんな、不愉快な出来事があった日から四日後。

 綾乃は職場近くの居酒屋で、待ち合わせをした旧知の人物と、二人で食事をしながら飲んでいた。そして今回呼び出された詳細な理由を問われた綾乃が、件の出来事について順を追って話す。


「……と言う事があったんです」

「何なの!? その人の親切を徒にする無神経極まりない、かつ恥知らずな言動の数々はっ! そいつ、一体どんな男よ?」

 親戚ではないものの昔から家族ぐるみの付き合いがあり、親元から遠く離れて一人暮らしを始めたばかりの綾乃の、保護者兼アドバイザーを自任している眞紀子は、話を聞き終えた途端に激昂した。そして中ジョッキを乱暴にテーブルに置きながら身を乗り出すようにして綾乃に問い質したが、彼女は困惑しながら首を振った。


「それは……、携帯電話を駅員さんに預けて帰ったきりだから、どんな人かは分からないんです。名前は……、確か姉だと名乗った人が宇田川さんって言っていたから、苗字は宇田川さんだと思うけど……」

「本当に預けて帰ったの!? 綾乃ちゃん、どれだけ人が良いのよ? そんなのは線路に投げ落として、電車に引かせて粉砕させてしまいなさい!」

 六歳年上であり、既に医師としての経歴も重ねている眞紀子が舌鋒鋭く言い放ったが、綾乃はたじろぎながらも常識的な事を口にした。


「で、でも……、眞紀子さん。そんな事をしたら、飛び散った破片で誰かが怪我をするかもしれないし、万が一電車が脱線したら大事になっちゃうから、駄目だと思います」

 困ったように、しかし冷静に指摘されて少し頭が冷えた眞紀子は、面白く無さそうに再び中ジョッキを持ち上げた。


「まあ、それは無いにしても……。その電話で警察や消防とかにイタ電かけまくって、そのアホな持ち主がこっぴどくお灸を据えられれば良かったのに」

「眞紀子さん、それ警察や消防の人に迷惑だから、絶対に駄目です!」

 物騒な報復措置を口にしてからビールを一口飲んだ自分に対して、綾乃が引き続き真面目に反論して窘めてきた為、眞紀子は完全に怒りを忘れて苦笑した。


「もう……、綾乃ちゃんって本当に可愛い上、性格が良いんだから……。こんな可愛い綾乃ちゃんを罵倒した下衆野郎……、許すまじ……」

 取り敢えず怒りは静めたものの、ブツブツと眞紀子が悪態を吐いていると、綾乃が口調を改めて声をかけてきた。

「それで、今日は眞紀子さんにちょっと相談に乗って欲しくて、呼び出しちゃったの……」

「あら、何? 遠慮なく言って?」

 上機嫌に微笑んで話の先を促した眞紀子とは対照的に、綾乃は俯き加減で話を続けた。


「今回の事で、やっぱり私、都会暮らしに向いていないんじゃ無いかって思って……。辞表の書き方を、教えて貰えないかと……」

 暗い表情でいきなりそんな事を言われて、眞紀子は面食らった。と同時に、綾乃に濡れ衣を着せた上、罵倒した相手に対する怒りが再燃する。


「綾乃ちゃん。いきなり何を言い出すの。偶々、変な勘違いの自惚れ野郎に当たっただけで。人に礼の一言も言えないそんな奴、どうせうだつの上がらないチビでオタク野郎に決まってるわ。そんなの気にしちゃ駄目よ? せっかく星光文具なんて大手メーカーに勤め始めたばかりなのに、実家にでも帰る気?」

「そう、しようかなって。周りの人が皆垢抜けていて、自分が野暮ったいのが気になってしょうがないし、仕事も最近ミスが続いた上に、ちょっとした事で上司に怒られてしまって。それに加えて、都会は怖い人ばっかりだし」

 それを聞いた眞紀子は(本当に間の悪い時に怒鳴りつけてくれたわね)と心の中で怒りながらも、それを抑えながら綾乃の顔を見据えた。


「綾乃ちゃん、ちょっと顔を上げなさい」

「眞紀子さん?」

「あのね、急に社会に放り出されて慣れない事ばかりの上、初めての一人暮らしで不安で寂しいのは分かるつもりだけど、仕事で色々悩むなんて事は当然よ? そんな最低男を理由に職場放棄だなんて、おじさまとおばさまが許しても、私は許しませんからね」

「眞紀子さん……」

 真顔で言い聞かせる眞紀子に綾乃も背筋を伸ばして、神妙な態度で聞き入る。その目の前で、眞紀子は小さく肩を竦めた。


「仕事が出来ない? 結構じゃない、当り前よ。まだ入社して三ヶ月も経過してないのよ? それで仕事が全部完璧にできるって豪語するなら、とんでもないKYの勘違い野郎よ。……どこの誰とは言わないけど」

「それもそうですね」

 茶目っ気たっぷりにウインクしながら眞紀子が言うと、誰の事を当て擦っているのか容易に分かった綾乃は、小さく笑いを漏らした。


「寧ろ、ちゃんと出来ないって自分で理解しているだけマシよ? どっかの誰かさんと違って、《恥じる》って事を知っているって事だもの。それに入って三か月未満の社員に完璧に仕事をこなされたら、それこそベテラン社員の立つ瀬が無いわ。そうじゃない?」

「うん……、そうですね。ありがとう、眞紀子さん」

 自分を叱咤しつつ元気付けてくれようとしているのが充分理解できた綾乃は、眞紀子に心底感謝した。それを受けて、眞紀子も笑顔を見せてからしみじみとした口調で告げる。


「本音を言えば、確かに綾乃ちゃんは都会向きじゃないとは思っていたけど、それは変にスレたりして欲しくないなって、思っていたからなの。でも理不尽な罵倒を受けてもちゃんと携帯電話を届けてあげた、常識を弁えた優しい綾乃ちゃんでホッとしたわ。それが《残念男》の物だったって事だけが、私としては非常に残念だけど」

「酷い、眞紀子さん」

 堪えきれずにクスクス笑ってしまった綾乃に、眞紀子は笑みを深める。


「職場で叱られたって事も、それだけ手をかけて貰っているとも言えるでしょう? 使い物にならないと判断されていたら、一々手間暇かけて指導しないわよ。時間と労力の無駄だもの。だから変に萎縮しないで、今までの綾乃ちゃんのまま、もう少し頑張って欲しいわ。本当の事を言うと、辞表の書き方なんて知らないしね」

 そう言って明るく笑った眞紀子に、綾乃は幾分照れくさそうに告げた。


「うん、やっぱり私、もうちょっと頑張ってみるね? 眞紀子さん」

「良かった。愚痴とかだったら幾らでも聞いてあげるから、遠慮無く連絡してきて頂戴」

「えぇ? でも眞紀子さんだってお仕事が忙しいでしょう? おばさまが『最近眞紀子が、全然実家実家に帰って来ない』って言っていたもの」

「それはそれ、これはこれよ。第一、最近家に帰らないのは、両親が口を開けば『見合いをしろ』の一点張りで、本当にウザいだけで」

「あの……、お取り込み中すみません」

「はい?」

「何か用ですか?」

 そこで唐突に男の声が割り込んだ為、綾乃と眞紀子は揃ってテーブルの横に立っていた男二人に、怪訝な顔を向けた。


 二人とも濃紺のビジネススーツ姿であり、綾乃達と同じく仕事帰りと思われた。どちらも上背があり、座っていると完全に見上げる感じになっていたが、自分に近い方に立っている男を綾乃がキョトンとしながら眺めていると、その男は僅かに狼狽したように視線を逸らす。

「ほら、さっさとしろよ」

「…………」

 隣の男が苛ついた様子で肘でつついたが、その男が黙り込んだままの為、小さく舌打ちした。ここで眞紀子が、不審人物を見るような目つきで二人を睨む。


「あの、私達に何の用ですか?」

 その視線の鋭さに、怪しまれてはかなわないとばかりに、眞紀子の方に立っていたその男が、恐縮気味に口を開いた。


「ええと、すみません。俺は遠藤弘樹と言います、そしてこいつは、友人の高木祐司です」

「それで?」

「俺達、君達のテーブルとは、そこの仕切りを挟んだ向こうのテーブルで飲んでいたんだけど、さっきからなかなか面白い会話が聞こえてきて……」

 そう告げられた瞬間、女二人はすぐ側にある高さ一・五メートル程の上部が半透明の仕切りをチラリと眺めてから、二人連れに視線を戻した。


「あの……、すみません、気が付かなくて。つまらない愚痴をお聞かせして、お酒を不味くしてしまいましたね。本当に申し訳ありませんでした」

「綾乃ちゃん! そんな事で一々謝らなくて良いのよ? 居酒屋なんだから好き勝手に話しちゃ駄目なんて決まりはないし、店内に響き渡るような声を出して、他人の迷惑になるような事はしていないんだから。気に入らなければ、他の話が聞こえない席に移りなさいよ!」

「眞紀子さん! そんな喧嘩腰で言わなくても」

 咄嗟に立ち上がって頭を下げた綾乃だったが、向かいの席で眞紀子が吠える。すると遠藤と名乗った男は、二人に更に申し訳無さそうな顔をして、再度口を開いた。


「いや、その……。やっぱり一言、言っておかないと駄目かと思いまして……」

「何を?」

 喧嘩を売る気かと、顔を顰めながら眞紀子が遠藤と名乗った男を睨みつけると、彼は若干たじろぎながらも、横に立つ男を軽く綾乃の方に押しやった。


「こいつが先程、あなた達の話題に上っていた、『無神経』で『恥知らず』で『礼儀知らず』の上、『勘違いのKY野郎』で『うだつの上がらない』『オタク野郎』なんです」

「はい?」

「え?」

 一瞬何を言われたのか分からなかった綾乃達が固まっていると、遠藤はいらついたように、友人の背中をどついた。


「ほらっ! いつまでも、何馬鹿みたいにつっ立ってんだよ、祐司!」

(え? そうなると、まさかこの人が、例の携帯電話の持ち主? その人が聞いている所で、私、思いっきり悪口を言っちゃったの!?)

盛大に悪態を吐いていたのは眞紀子であり、しかも彼は恩人に対してまともに礼を言わなかった事に加えて、綾乃がかなり精神的ダメージを受けていたのが分かって、申し訳なさと気まずさで顔を強張らせていたのだったが、テンパっていた彼女はその顔を見て、自分に対して怒りまくっていると、完全に誤解してしまった。

 その為、「祐司」と呼ばれた男が軽く息を整え、綾乃に視線を合わせてから詫びの言葉を口にしつつゆっくりと頭を下げようとしたが、それを最期まで行う事はできなかった。


「その……、この前は」

「いっ、やぁぁぁ――っ!!」

「うわっ!」

「お客様!?」

 そこで綾乃の絶叫が店内に響き渡ると同時に、彼女が渾身の力を込めて祐司を突き飛ばした為、彼はちょうど注文の品を運んでいた店員に背後から勢い良く衝突し、彼もろとも通路に料理を巻き散らしながら倒れ込んだ。


「げっ!」

「綾乃ちゃん!?」

「やだっ、怖い、もう実家(うち)に帰るぅ――っ!」

「綾乃ちゃん、ちょっと待って!」

 てっきり報復を受けると勘違いしてパニックを起こした綾乃は、泣き叫びつつバッグを掴んで一目散に店から走り去って行った。それを追い掛けようとして同様に自分のバッグを掴んだ眞紀子だったが、何を思ったか無表情で、背中を酒や料理にまみれにして、悲惨な事になっている祐司を見下ろす。


「おい、大丈夫か?」

「ああ、何とか。ぐあっ!」

 弘樹の手を借りて立ち上がろうとしたところで、眞紀子から物凄い勢いで向こう脛を蹴りつけられ、祐司は再び足を押さえて床に座り込んだ。


「ちょっと! 何す、うがっ!」

 そして、さすがに顔色を変えて抗議しようとした弘樹の顔面に、眞紀子が伝票が挟み込まれたアクリル板を押し付ける。

「綾乃ちゃんを怖がらせた挙句に泣かせて、これ位で済む事を感謝しなさい。この屑野郎ども!」

 言うだけ言ってさっさと会計の前を素通りして店を出て行った眞紀子を見送り、弘樹は諦めた様に手の中の伝票を見下ろした。


「……払っておけって、事なんだろうな」

 そして溜め息を一つ吐いた彼は、再び祐司に手を伸ばした。

「おい、大丈夫か?」

「駄目かもしれない……」

「そんな事を言っているうちは、大丈夫だろ」

 苦笑いして祐司を引っ張り上げて立たせた後、巻き込まれてしまった店員に改めて謝罪し、おしぼりを貰ってから後片付けをやって来た店員に任せて、二人は自分達のテーブルに戻った。そして弘樹が、心底同情するように呟く。


「本当に、お前最近、女難の相が出てるよな……。例の『あれ』と言い『これ』と言い、気の毒に」

 そこで周囲の客の好奇心に満ちた視線を浴びつつ、おしぼりで手やジャケットの背中側を拭いていた祐司が、僅かに眉根を寄せながら低い声で頼んできた。


「取り敢えず、手伝って貰えるか?」

 全て言わなくても、その内容が分かった弘樹は、疲れた様に頷いてみせる。


「星光文具で『あやの』って名前の、新入社員を探すんだろ? 乗り掛かった舟だし、それ位はやってやるよ。普段のお前の姿からすると、今のお前は不憫過ぎる。ここの支払いも持ってやるから、気を落とすな」

「サンキュ。助かる」

 それから男二人は静かに飲みながら幾つかの話をしてから、早々にその店を後にした。

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