子兎とシープドッグ

篠原 皐月

本編

第1話 情けは人の為ならず?

 その日一日、ついていない事ばかり続いた綾乃は、気詰まりな事が多かった飲み会から、通勤電車で帰宅途中、目の前の座席が空いた事でちょっと慰められた気持ちになりながら、静かに腰を下ろした。

 

(はぁ、やっと座れた。今日は嫌な事ばかり続いたから、一日の最後にこの程度の良い事があっただけでも嬉しいな……。あれ?)

 深く座ろうとして身体の右側に感じた違和感に、彼女が僅かに首と身体を捻ってその場所を見てみると、黒い携帯電話が座席の側面に、へばり付くように存在しているのが目に入った。それを確認した綾乃が困惑する。


(さっき降りた人の物かな? でもあのおじさんは、身体の横に鞄を置いていた迷惑な人だったから、それにこれが押し付けられていたと考えると、あの人の物じゃなさそうね。その前に座っていた人が、降りる直前まで操作していたか、眠りかけていたりして、慌てて立ち上がって取り落としたとか、しまい損ねたのかしら?)

 無意識にそれを取り上げてしまってから、綾乃は途方に暮れた。


(困ったな、どうしよう……。見て見ぬ振りも出来ないし。このまま終点まで行って、そこで発見されたら、持ち主がそこまで取りに行くのかな? それに万が一、質の悪い人に持って行かれて悪用されたら、大変だよね?)

 少し悩んだ綾乃だったが、どこで乗り降りしているにしろ、あまり遠くまで行ったら面倒そうだし、連絡が遅れたら落とした人が余計に心配しそうだと判断を下した。


(電車には運転手さんしかいない筈だし、渡せないよね? ちょっと面倒だけど次の駅で降りて、駅員さんに忘れ物だって渡してから帰ろう)

 そしてせっかく座れた上に、自分の最寄り駅はまだ先だったにも関わらず、綾乃は気分良く次の駅でホームに降り立った。そして初めて降りる駅に戸惑いながらも、表示を見ながら改札口へと進む。


「えっと……、改札口に向かっていけば、駅員さんは居る筈だし……」

 その時、手にしていたその携帯電話が、突如鋭い電子音を響かせた為、綾乃は驚いて反射的に立ち止まった。そして一瞬動揺したものの、すぐに安堵した表情になってそれを見下ろす。


(落とし主か、その知り合いからの着信かしら? 知り合いの人でもその人経由で駅員さんにこれを届けた事を知らせて貰えば、持ち主の人が安心できるよね?)

 そうして綾乃は(これで一件落着!)と気安く通話ボタンを押して応答したが、ここで予想外の事態が発生した。


「もしもし? あの、この電話」

「てめぇ! ふざけんじゃねぇぞ!?」

「え?」

 いきなり電話越しに罵声を浴びせられた綾乃は、目を見開いて絶句したが、相手の容赦が無さすぎる暴言は、更に続いた。


「お前みたいなケバ女、死んでもごめんだっ!! 人様の携帯をパクリやがって、この恥知らずの女狐がっ!!」

「……私っ、携帯を盗んでなんか」

 幾ら何でもあんまりな言われように、何とか気持ちを奮い立たせて綾乃が抗議しようとしたが、電話の向こうの男は綾乃の台詞を一刀両断した。


「あぁ!? 『メアドも携番も教えてくれなかったから、ちょっと借りた』とでも言うつもりか、このド腐れ女! それとも拾ってあげたお礼にデートしてくれとか、恩着せがましくいけしゃあしゃあと抜かすつもりか?」

「ひ、酷いっ……。私、そんなんじゃ……」

 律儀にまだ携帯電話を耳に当てながら泣き出してしまった綾乃の横を、ホームを歩いている者達が怪訝そうに見ながら通り過ぎて行く。漸くその視線に気付いた彼女が、恥ずかしさと情けなさでハンカチを取り出して涙を拭こうとすると、何故か電話の向こうが一層騒がしくなった。


「何だ? 今度は柄にも無く泣き落」

「あのっ! ごめんなさいね、この馬鹿がいきなり失礼な事を」

「何すんだ、姉貴。返しやがれ!」

「これは私のでしょう!? 何を勝手に使ってるの! 第一、盗ったのを前提でいきなり相手を罵倒するなんて、何を考えてるのよ!」

 先程の男に加えて女性の声が割り込み、どうやら姉弟喧嘩をしているらしいと、綾乃は涙を拭きながら状況を判断した。


「元はと言えば、姉貴のせいだろうが!? あんな場に引っ張り込んでおいて。しかもいきなり泥酔するな! そして今頃、正気に戻るな!」

「あんたの喚き声で覚醒したのよっ! それにそもそも、あんたが上手く立ち回れば良かっただけの話でしょうが!? 普段、女を山ほど侍らせている癖に、何やってるのよ!」

「あんな姉貴と類友の、肉食女と女もどきの群れの中に、飛び込んだ事はない!」

「何ですってぇぇっ!?」

「……あの。少し宜しいですか?」

 延々と続く罵り合いを聞いている間に、頭が冷えた綾乃は涙も引っ込み、比較的冷静に電話の向こうに声をかけた。するとそれで我に返ったらしい女性が、慌てて問い返してくる。


「あ、ごめんなさい。何かしら?」

「あなたのお名前を、お伺いしたいのですが……」

「あ、ああ、ごめんなさい。私は宇田川貴子と言います。それで、その携帯ですが」

「宇田川貴子さんですね。分かりました。私、これを車内の落とし物だと言って、駅員さんに預けて帰らせて貰います。宇田川さんの名前を伝えておきますので、申し訳ありませんが五分程したらもう一度これに電話して、駅員の方と直に受け取り方法の相談をして下さい。それでは失礼します」

「ちょ、ちょっと待って! ごめんなさい、さっきは弟がいきなり暴言を」

 もうそれ以上会話する気の無かった綾乃は、問答無用でその携帯電話の電源を落とし、沈黙したそれを見下ろしながら再び涙ぐんだ。


「もうやだっ……、こんなとこっ」

 そんな泣き言を言いながらも綾乃は駅の窓口に向かい、事情を説明して電源を再び入れた途端に鳴り出した携帯電話を駅員に押し付け、逃げるようにその場を後にした。


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