第12話 彼の部屋にて……
「お邪魔します……」
美香を起こさないように、小声で言う。
慎也は美香を背負い、私より先に、部屋に入っていく。
「千秋さん……。すいませんが、そのクローゼットの下にシーツが置いてあるので、出してもらえますか?」
「ここ……?」
「ええ、そこです」
「……、……」
私に指示を出しながら、慎也は美香を下ろし床に寝かせると、ベットのシーツを剝ぎだす。
クローゼットには、洗ってのり付けまでしてあるシーツが三枚、きれいに角を揃え畳んだ状態で置いてあった。
几帳面な慎也らしい。
部屋もしっかり片づいていて、独身男性の部屋とは思えないほどの清潔さだ。
慎也の部屋は1DKで広くはない。
建物も、アパートと言うか、マンションと言って良いか、微妙なところだ。
かなり年季の入った感じだし。
ただ、慎也の部屋の中は、慎也らしいコーディネイトがなされていた。
カーテンやベットカバー、クッション、座布団などは、ブルーの同じ生地で統一されており、とてもオシャレで居心地が良く思える。
「よっ……、っと」
慎也は、美香をお姫様抱っこの状態で抱えると、シーツを替えたベットに寝かせた。
「ありがとう……。ごめんなさいね、何から何まで……」
「あ、いえ……。この部屋には、結構、酔って担ぎ込まれてくる人がいますので」
なるほど……。
だから、シーツが常備されているのか。
「でも、ここに女性が入るのは初めてなんですよ」
「そうなの?」
「あ、高梨さんは別ですよ。あの人はカウント外で……」
「うふふ……」
「だから、ちょっと緊張しています。千秋さんがお気に召すか心配なので……」
「あら、とてもオシャレだと思うわ。綺麗に片づいているし」
「そうですか? ああ、それなら良かった」
「それに、私も男性の部屋に入るのは初めてだし……」
喋りながら、慎也は、小さな座卓周りの座布団を勧めてくれる。
私が、男性の部屋に入るのは初めて……、と言ったのを聞き漏らしたのか、そのことについて、慎也は何も触れなかった。
言った本人的には、かなり勇気を振り絞って告白したつもりだったが、空振りに終わったようで、少し恥ずかしい。
「美香さん……、よく寝てますね。寒くはないだろうから、薄掛けだけで良いかな?」
「そうね、少し汗をかいているみたいだし……」
慎也は押し入れを開け、畳まれた布団の中から薄掛けを取り出す。
押し入れの中も、キチンと整理されている。
私は押し入れにギュウギュウ押し込むタイプなので、見習わなくては……、と密かに思う。
「さあ、これでいいかな? 千秋さん、酔い覚ましに麦茶でも入れましょうか」
そう言うと、慎也はキッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。
麦茶の入ったグラスが座卓に置かれ、しばらくすると、私と慎也の会話が途絶えた。
寝ている美香はいるものの、他に誰もいない状況で二人になるのは初めてなので、この馴れないシチュエーションを、私は持てあましていたのだ。
きっと、慎也も同じなのだろう。
手でグラスを弄びながら、うつむいている。
「み、美香ったら、首は真っ赤だけど、顔は白いわね」
私は唐突に話題を振る。
美香は普段から、肌が白い割に厚化粧なせいで、今も、酔っているのに顔だけがやたらと白い。
首も腕も、胸元も、かなり赤く染まっているのに……。
居酒屋の暗い照明では分らなかったが、蛍光灯の下で見ると、ハッキリ分ってしまう。
しかし、慎也は曖昧に笑っただけで、何も言わなかった。
男性の慎也にこんなことを言っても、リアクションがしにくいのは当然だ。
化粧がどうのと言うのを、慎也にほのめかした自分の感性が恨めしい。
「言うんじゃなかった……」
と心の中で、自分自身にダメ出しをしたが、後悔は先に立たず、また会話は途切れてしまった。
「千秋さん……。さっき、男性の部屋に入るのは初めて、って言ったじゃないですか」
「ええ……」
麦茶の氷がすべて溶けてしまった頃、慎也が口を開いた。
グラスは水滴だらけで、コースターにも滴っている。
「僕は、それについて、今、考えていたんです」
「……、……」
「だって、千秋さんみたいな魅力的な人が、男性の部屋に入るのが初めてだなんて、信じられなくて……」
「し、慎也君……?」
慎也は、聞き漏らしたわけでも、スルーしたわけでもなかった。
話ながら、慎也の耳が赤く染まる……。
「僕は、千秋さんと初めて逢った瞬間に、この人しかいない……、って思いました」
「……、……」
「そのくらい魅力的なんですよ……、千秋さんは」
「……、……」
「だから……。そんな、見え見えのウソをつくのは止めて下さい」
「……、……」
「僕は、千秋さんの過去に何があったって、千秋さん一筋ですし、千秋さんを信じていますから」
「……、……」
うつむきながら話す慎也の表情は、怖いくらいだ。
その表情から、真剣にそう思っていることが伝わってくる。
「ち、違うのよ……、慎也君」
「分っています……。言いたくないことだってありますよね。千秋さんは、大人の女性なんだし」
「いえ……、違うの」
「良いんです。言いたくなければ言わなくても。でも、ウソは……、ウソだけは辛いです」
「違うの……」
「今日の美香さんを見ていても思いました。好きな人にウソをつかれるって、……、……。寂しいです」
「慎也君! 本当に違うの」
「違う……? 何が違うんですか」
「私ね、本当に、男性の部屋に入ったことがないの」
「えっ?」
「それどころか、男性とお付き合いしたのも、慎也君が初めてなのよ」
「……、……」
私は勢いですべて言い切った。
恥ずかしくて、座卓の上の手が少し震える。
私はずっと引っ掛かっていたのだ、自身の黒歴史を慎也に伝えていないことを……。
慎也が、何か重大な誤解をしたままなのではないかと言う不安もあった。
だから、いつかちゃんと伝えなくてはと思っていたのだ。
こんな形で伝えることになるとは、思ってはいなかったけど……。
ただ、慎也は言ってくれた。
何があっても信じてくれると……。
今の私は、慎也の言葉をすべて信じられる。
だから……。
恥ずかしいけど、言って良かったと思う。
「あのね、慎也君……」
「はい……」
「美香と私は、大学からの付き合いなの」
「……、……」
「私のことは、美香が全部知っているわ」
「……、……」
「だから、もし、私の言葉が信じられないのなら、美香に聞いてみて」
「……、……」
「私が彼氏いない歴35年だったことも、異性関係を諦めきっていたことも、美香なら知っているから」
「あ、いえ……。すいません。疑うようなことを言って……」
「ううん……。普通じゃないのは私だから。でも……」
「でも……?」
「慎也君が、私のことをそんな風に思ってくれていたなんて……」
「千秋さん?」
「ありがとう……」
「……、……」
私は、涙が出るほど嬉しかった。
いえ、本当に涙が出そうだ。
しかし、悦びに浸る私を、少し冷ややかに見ている、もう一人の私もいる。
「そんな旨い話、あるわけないわよね。これって、夢よね」
と、胸の内でささやいてくる。
「千秋さん……」
慎也が座卓の周りを回り、私に、にじり寄って来る。
そして、座卓の上に置いた私の手を、ギュっと握った。
あ、これって、もしかして、慎也がキスを求めているのかしら?
慎也の顔が近づく……。
やはりそうだ。
慎也が目を閉じる。
わ、私も閉じるべきかしら……?
戸惑いながらも目を閉じると、左の頬に、生暖かい鼻息を感じた。
……、……、……。
多分、この唇の柔らかい感触は、キスをしていると言うことだ。
背筋に電流が走る。
腰の辺りが、痺れるように熱い。
な、何……?
き、キスって、こんなに気持ちが良いの?
そんなの、聞いてない。
でも……、……。
私は、夢でも良いと思っていた。
こんな経験をするとは、ずっと思って来なかったから……。
慎也は身じろぎもしない。
優しく口づけをし、いつまでもその姿勢を保ってくれるのだった。
ああ、これは夢だ。
でも、夢なら、もう少し、こうしていさせて欲しい。
私の手を握っていた慎也の手が、不意に離れた。
その手が、次は肩に触れる。
私は、慎也が動き出したことで、今、起っていることが現実だと知る。
肩に触れた慎也の手は、優しく、なするように背中にまわる。
私は、現実だと認識したので、目を開けて確かめたくなった。
目を開けて、私も慎也と同じように、手を慎也の背中にまわしたい。
抱き合うって、こういうことなんだと、少しだけ冷静になった私が思う。
キスだけで現実を見失いそうなのに、その上抱き合ったら、私はどうなってしまうのだろう?
そっと目を開ける。
慎也の耳が見える。
この時になって、初めてメガネが邪魔なことに気がつく。
ああ、こんなことなら、コンタクトにしておけば良かった……、と思う。
今更何を……、と、美香にツッコまれそうな後悔をしている。
そう言えば美香はどうしたかな?
ぼんやり、そんなことを考える。
慎也の頭の向こうに、美香が見える。
まだ、横になったままの身体は、先ほどと同じ格好だ。
顔はこちらに向いており、目が開いている。
ああ、酔いが醒めたのか……。
良かった……。
って、……。
んっ!
「!!!」
私は、突如、海老のように飛び退いた。
慎也の手が、振り解かれるのを感じる。
「美香ッ!!」
私は思わず叫んだ。
慎也は、何事が起ったのか分らないような顔をしていたが、反射的に美香の方を見た。
「あら……、ごめんなさい。私、邪魔をするつもりはなかったんだけど」
美香は、シレッと言うと、ペロッと舌を出した。
「ちょ、ちょっと、いつから起きていたの?」
「ん? あ、今よ。目が覚めたら、二人が……」
「そ、そう……。どう? まだ酔いが残ってる?」
「あ、少し、頭が痛いかも。でも、このくらいなら大丈夫かな」
美香は身体を起こすと、辺りを見回した。
「ここって何処?」
「慎也君の家よ」
「あ、そうなんだ。じゃあ、解散しちゃったのね?」
「そうよ、美香が寝ちゃったから……」
「私、そんなに長く寝てた?」
「えっと、今、11時だから、3時間くらいかな?」
「そうなんだ……。って、11時? もう、終電が近いじゃん」
「そうよ……。だから、美香が起きなければ、ここに泊まるつもりだったのよ」
「千秋も?」
「……、うん」
「そう、じゃあ、もうちょっと寝ていれば良かったわね」
「美香!」
まったく、マイペースと言うか、何というか……。
ただ、美香はすっかりいつもの感じに戻っているようだ。
妙な気を回す辺りは、本調子と言って良い。
「し、慎也君……。美香が起きたから、帰るね。私達……」
「あ、はい……」
「ごめんね、何か、お騒がせして……」
「いえ……」
私は、ぎこちなく、慎也に帰ることを伝える。
さっきまでしていたことを考えると、照れくさくて慎也の目を見られない。
「えっ? 千秋は泊まっていけば。私、独りで大丈夫だよ」
「な、何を言ってるの。そんなことをしたら、川田さんに怒られるわ」
「そうなの? せっかくのチャンスだったのに、ゴメンね」
「美香!」
「もう……。千秋、大声出さないでよ。ここの壁薄そうだから、隣に聞こえるよ」
「……、……」
「まあ、でも、今日は千秋に送ってもらおうっと。私、哀れな失恋をした、詐欺に引っ掛かりそうになったバカな女だから、皆さん心配だろうしね」
「……、……」
一応、皆が心配しているのは分っているのか。
美香は、美香なりに考えるところがあるようだ。
ただ、もう大丈夫だろう。
あとは時が癒してくれるに違いない。
終電を乗り継ぎ、横浜駅には何とか辿り着いた。
普段ならここから更に電車だが、日曜日なので、もう終電はない。
仕方がないので、二人でタクシーに乗ることにする。
タクシーなら、先に降りるのは美香だから、都合が良かったりもする。
「ねえ、千秋……」
「何?」
「もしかして、さっきのファーストキス?」
「……、……」
「そうだよね、付き合ってすぐにキスするわけがないよね、千秋が」
「……、……」
「何か、良い雰囲気だったわよ」
「……、……」
「千秋、凄く気持ち良さそうな顔をしていたし……」
「……、……」
私は、タクシーの運転手に聞こえるのではないかとハラハラしたが、何も答えなかった。
どうせ、答えれば更に聞いてくるに決まっている。
それに、慎也の頭に隠れて、美香の位置から私の顔なんか見られるわけがない。
カマをかけたってダメよ。
私には、美香のやり口はお見通しだ。
「そう言えば、さあ……」
「……、……」
「川田さんって、結婚しているのかなあ?」
「さあ……」
「何か、雰囲気的に独身な気がしない?」
「そう?」
「うん、私、そんな気がしてるんだ」
「……、……」
「今度さあ、慎也君に聞いておいてくれない?」
「美香、川田さんが気になるの?」
「うん……。何となく……」
「……、……」
「それに、千秋が慎也君とキスしているのを見たら、私もすぐにまた次の恋がしたくなっちゃった」
「そう……。じゃあ、聞いておくわ」
「よろしくね」
「……、……」
こう言われると、私達の痴態を見られたのも、悪いことばかりではなさそうな気がしてくる。
それにしても、今日、初めて知り会った川田さんが気になるなんて、失恋したばかりなのに美香の精神はタフなものだ。
私には失恋の経験はないが、きっと、慎也を失ったらいつまでも立ち直れないだろう。
「あ、そこで1人降ります」
そう言うと、美香は財布を取り出した。
「これで払っておいて……」
と、私に五千円札を渡す。
私が財布に戻そうとすると、
「いいから……。今日は、千秋にいっぱい感謝してるんだから」
美香はそう言い、素早くタクシーを降りた。
車は動き出した。
私は、美香が気になり、後ろを振り向く。
美香は、小さく手を振っていた。
美香の姿が見えなくなるまで、それは続いていた。
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