心の余裕

長い1日を終え帰宅の途に就く。

地元の駅舎と比べると空調設備が整っているとは言え12月になるとさすがに寒い。


男性サラリーマンのコートは似たような色合いが多いが、マフラーは比較的カラフルだ。おしゃれなシティーボーイならマフラーの色や巻き方はきっとこだわるポイントなのだろう。私はおしゃれでもシティーボーイでもないので、黒のコートに紺色のマフラーだ。


東京に出てきて1番驚いたのは終電でさえ混雑していることだ。私のような地方出身者には日付が変わった後もこれほど多くの人が出歩いていることは想像できなかった。


しかも、飲みの帰りならば話はまだ分かるが、少なくない人が仕事帰りなのである。こんな時間まで仕事をしていたのでは、家では食事をして寝ることしかできないだろう。しかも今日はまだ木曜日。明日(正確には今日)の朝また奴隷貿易船のような満員電車に揺られて会社に行くのだ。


生きるために仕事をしているはずだが、これでは仕事をするために生きているような状態だ。わざわざこんな生活スタイルを選択する理由が分からない、と昔の私なら思うだろう。


しかし、今は私もこの人たちと同様に終電で家に帰り、翌朝満員電車に揉まれるという生活スタイルになっている。



自分のアパートに着く頃にはすでに1時を回っていた。

当然のことながら電気もついておらず冷え切っている。


コートをかけてPCの電源を入れた後、暖房のスイッチを入れてお湯を沸かす。最近は終電で帰ることが多くなっているため、流れるようにこの一連の動作をできるようになってしまった。


お湯がわくとカップラーメンを作り、適当な動画を見ながら食べる。食べ終わるとシャワーは浴びずに歯磨きだけしてベッドに入る。これを帰宅から1時間以内に行う。


入浴した方がベッドも清潔に保たれるし、疲れもとれることは分かっている。しかし、この時間に入浴するとせっかく炭水化物を摂取してきた眠気が吹き飛んでしまう。


だから最近はシャワーはもっぱら朝だ。

疲れは取れにくくなるかもしれないが、洗顔を1度短縮できるのは効率的かもしれない。


ファンというわけではないが、最近よく見ているYoutuberがいる。私と同じくらいの年齢で半年前に転職して以降、動画のアップロード頻度・クオリティーがみるみる上がっている。動画の内容はゲーム実況と本・マンガの紹介だが、時折以前の職場の仕事内容や人生観(と言えば大げさかも知れないが)を語る動画もアップしている。


今日の動画はまさに彼が以前の職場を辞めようと思ったきっかけについてだった。

ラーメンを啜りながら視聴する。



「はい、今日は今まで数多くコメントを頂いている、転職しようと思ったきっかけについて話していきます!


普通『転職』って聞くと前の会社に不満があったり、良い待遇を求めてっていう理由が多いと思うんですけど、僕の場合全く違うんですよね。昔の動画でも触れましたけど、前の職場にいるときは毎日ものすごく充実してましたし、給料も今の職場の2倍近くありました。


でも、問題が1つあって『充実し過ぎていた』んですよねー。


自分の専門を活かせる仕事内容で、案件もいくらでもあったんで、終電になってしまうこともしばしばあって。こんなこと言うと『ブラックだ』と言われちゃいそうで、いやー、確かに人によってはブラックなのかもしれないですけど、残業代は全額出ましたし、自分のスキルもどんどんアップしている感覚があったんで僕は好きだったんですよ。


で、終電で帰るとやることってご飯食べて寝るくらいしかないわけですよ。そして、週末は平日の疲れをとるために寝るだけになってしまう。まあ、なんとか頑張って動画もアップしてましたけど。


それである日ふと気づいたんですよ『何も考えてないなーって』。

自分はただ目の前の仕事をこなしてるだけで、自分の意思で仕事してるわけじゃないって。


もちろん就職するときは企業研究なんかもしましたけど、そのときだけだったなと。それで、思い切って今まで全く使ってなかった有給で1週間全部休んでみたんですよ。


そうしたら、『今、春なんだ』とか『今日は雨なんだ』とか『ここ新しくできた店だ』とか当たり前のことを初めて認識できるようになって。


何が言いたいかと言うと、『仕事が充実』してても、それは単に仕事以外に楽しさを見いだす心の余裕がなかっただけで、もう少し周りを見渡す生活スタイルにしたら、楽しいこと一杯あるんじゃないかって思ったんです。


で、その1ヶ月後には退職願出してましたね!」



あくまで明るい調子だったが、私の心には少し響くものがあった。



今の生活は確かに身の回りの物事にも目を向けられているとは言い難い。


今は暦の上では冬であるが、幼い頃に息が白いのを面白がり、道路のくぼみにできた氷を割りながら登校した『冬』ではない。


それに、彼の場合はまだ仕事が面白かったのが救いだったが、私の場合は仕事にそこまで入れ込んでいるわけではない。やらなければいけない仕事だからやっているだけだし、給料も大して良いわけじゃない。

スキルが全く身につかないわけではないが、明らかに雑務が多いので効率的なスキルアップにはほど遠いだろう。


彼からすると私など明日退職願を出すべき人間だろう。

しかし、私はそうすることはできない。



これが自ら幸せを掴んだ者と自分の人生を悲観するしかない者の差なのだろうか?



せめて、明日は日付が変わる前に帰ろう。

実現性の低い願い事をしながら眠りにつくのが、今の私にできる精一杯の行動だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る