渇望のアニムス

夏目飛龍

第1話

犯罪率0.1パーセント。



これが、僕が住む町の平和の証だ。


町に生きる人々は、互いを慈しみ、憂い、支え合い、日々の暮らしを送る。そこには憎しみも怒りもなく、ただ喜びと愛が溢れている。人生を歩んでいく上で、これほど素晴らしいことがあるだろうか?


いや、ない……。あるはずがないよ。


たとえどれほど今が貧しいとしても、僕達は、今日も、清く正しく労働に励む。それが幸せの階段を上るために、必要なことだと信じて。







「早う起きんかケイト! いつまで寝とるか! 」


僕の名前を誰かが呼んでいる。どうも頭がはっきりしない。まあ、いいか……。もう一眠りさせてほしいものだ……。


「寝ぼけとる場合か。もう他の奴らはとっくに仕事に出かけちまったぞ? はよ支度せんか! 」


耳元で叫ぶ大きなしゃがれた声が、僕の意識を一気に現実へと引き戻した。慌てて頭の上にある目覚まし時計を掴んでみれば、針は7時を過ぎている。


「やっべ、完全に寝過ごした! またドヤされるやつじゃんかよ……。」


「やれやれ全く。わしから副場長には話をしておいた。ケイトは具合が悪いから、少し遅れて行くとな。ほれ、分かったらさっさと行かんか。」



「本当かよゼン爺。これで副場長に怒られないで済むよ、助かった。じゃ、行ってきまーす。」



大慌てで、僕は、着の身着のまま部屋を飛び出した。


「おーい、工具を忘れとるぞー! って行ってしまったか。相変わらずそそっかしいやつじゃわ。」

部屋でポツリとぼやく時雨ゼンゾウ、愛称ゼン爺、の声は僕にはとうに届いてはいなかった。



部屋を勢いよく飛び出した僕は、長く曲がりくねった坑道をひたすら走り続けていた。坑道の幅は狭く、人一人がようやく通れる程度しかない。天井も頭を打ちそうなくらい低く、黒や茶色のゴツゴツした岩肌がどこまでも続く。側面には居住部屋の扉が隙間なく敷き詰められ、見るだけでも息苦しさを感じるつくりだ。所々突出した岩を、跳ねたりかがんだりして避けながら、がむしゃらに足を前に出す。聞いた話だと、今日の僕みたいに急いで仕事場に向かう途中で、突き出た岩に頭を打ちつけて死んだ人もいるらしい。ただ、今の僕には縁のない話だ。突き出た岩の場所、途中に多々あるカーブの位置から角度まで、体の隅々までしみ込んでいる。かれこれこの廊下を一千往復はしているのだ。


あくせく走っていると、最後のカーブが見えてきた。あそこを曲がれば仕事場は目の前だ。


カーブを曲がるとすぐに、視界が開けた。広大な空間に、先程までと変わらない無機質な岩壁と湿り気の多い空気。壁の高い位置に大量に並べられた松明も、薄暗くあたりを照らすのに精一杯だ。坑道の出口から見下ろすと、無数にうごめく黒い虫たちのような人々の群れが、せわしなく働いている。地下につくられたぼっかりと空いたこの大きな穴が、僕の仕事場だ。そして、「地下」に暮らす僕たちは、「地上」の人たちから、皮肉を込めてこう呼ばれている。


「アント」


働きアリのように、穴を掘り土砂をどかし、採掘された鉱石を休みなく地上に届ける。死ぬまで働き続けるものたちと。


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