人事部のジョー episode2(帰国子女 白鳥編)

市川比佐氏

第1話

横浜野毛の居酒屋『虎次郎』は、午後七時前というのに、既に多くの客でごった返していた。

柳通り沿いの手狭な雑居ビルの一角に、ひっそりと店舗を構え、早二十年。関東近郊では珍しい、阪神ファンの集まる居酒屋である。

「おお、城山部長、こっちです。先に一杯引っ掛けておりました」

大手産機メーカーの安徳工機に勤める掛布茂雄は、白くなった頭髪を掻き分けながら、大袈裟に手招きして城山を迎え入れた。

「遅くなって悪いな」

「いえ、今、試合始まったばかりですわ」

掛布はテレビ画面を指差しながら、落ち着かない様子で言った。

満員の甲子園球場。

黄色と黒の縞模様が、球場全体で波立っている。

ジョーは座布団に胡坐をかくと、画面に視線をやった。

安徳工機人事部部長、城山丈一郎。人呼んで、人事部のジョー。

社員二万人を束ねる大企業の人事部長は、常に暇がない。

「とりあえず、生一杯もらおうか」

そう言ってジョーは店員を拱くと、早速、大ジョッキを注文した。

店員は、手際よくジョッキにビールを注ぐと、ジョーのいるテーブルに置き、目礼して立ち去った。

店内の壁に掛けられた古いブラウン管テレビでは、プロ野球セ・パ交流戦の様子が映し出されている。

遅れてきたジョーは、既に顔を赤らめた掛布に追い付かんと、大ジョッキを一気にしながら、試合の様子に釘付けとなった。


―六月。

主力の不振が相次ぎ開幕スタートに出遅れた阪神タイガースは、首位奪回を目指し猛虎の如く戦線を立て直したが、五月中旬から始まったセ・パ交流戦ではパ・リーグの各球団に大きく負け越し、首位巨人に後塵を排した。

出鼻を挫かれた猛虎軍であるが、醜態を晒したのは阪神だけでなく、パ・リーグの好投手陣に打線が空を切り、セ・リーグ全体として不調の波に喘ぐのであった。

「最近のセ・リーグは兎に角情けない、このままソフトバンクが独走やないか」

交流戦では、ホークスが勝率七割という圧倒的な強さで勝ち進み、後続を突き放している。

対する阪神は交流戦順位十位と奮わず、肩透かしを喰らった。

『阪神の先発は能見。初回から苦しい場面が続きます。柳田に対してカウント、ノースリー。ネクストバッターサークルには昨日、決勝のスリーランを放ったイ・デホ、続いて交流戦以降、打率四割五分と当たりに当たっている内川の姿が見えます』

先頭の本多を出塁させると、続く中村に粘られ、挙句に送りバントで得点圏に走者を置いてしまった能美。

柳田、内川、イ・デホの強力クリーンナップを前に、絶体絶命の状況。マウンド上には、早々、金村投手コーチが現れた。

アルプススタンドからは、選手の名を付した応援シャツを着た女性ファンの黄色い声援が響いている。

金曜日ということもあり、遠方から甲子園球場に駆けつけたホークスファンも多い。

女性ファンの目当ては、若手のイケメン選手に集められた。

「最近は野球好きの女性も増えて、球場は華やかになったものや」

苦しい戦況を前にジョーは、然も退屈そうな口振りで言うと、

「ミーハーな女性ファンが大挙して、古参客はさぞ顔を顰めておりますが、彼女らは仰山、金を落としてくれますから、経済効果はありますよね」

と、掛布は調子を合わせた。

十年前であれば、野毛といえば、安酒屋やストリップ、場外馬券売り場や安風俗などが犇めき合い、その客層は男性に限られたが、最近では女性の姿も多く見られる。

実際、ここ虎次郎にも、少なからず女性客の姿があった。

「うむ。しかし、男の世界に女が入って、いいことばかりやない。逆も然りやが―」

ジョーは再び店員を呼び付けると、早々二杯目のジョッキを注文した。

飲むと説教癖の出るジョーである。

いつしか話題は、野球から会社批判へと流れたが、これもまた、ジョーにとっては日常風景である。

「こういう男の多い会社では女の方が早く仕事を覚えるもんや」

「はは、そうかも知れませんな。最近の男はだらしがないですからね」

掛布は取り留めもない様子でジョーの話を受け流すと、再びテレビに集中した。

結局、能見は走者こそ出したものの、ホークス打線は後続が倒れ、三者残塁となった。

しかし四球と安打で球数を浪費した能見は、季節に相応しくなく、玉の汗を額に浮かべていた。

緊迫した展開に焦燥感に駆られたジョーだが、無事、零点で初回の守備を終えたことを確認すると、再びビールを喉に流し込み、声調を整え、こう言った。

「うむ、しかし、それだけやない。親父共は自分の仕事が取られるのが癪に障るため部下に仕事を教えんのやが、若い女には下心丸出しで好き好んで教えるからな」

「確かに、そういう社員は多いですな。仕事上の男女関係は面倒な問題を引き起こしやすい、社内恋愛などすべきではないですな」

テレビの画面がコマーシャルへと移り変わると、二人は視線をテーブルへと戻し、イカの酢物をつまみに談話を続けた。

「そういえば、販売部に白鳥っちゅう女がおりますでしょう」

「白鳥?」

突如、掛布が発した聞き覚えのない名前に、解せないといった様子でジョーは首を傾げた。

掛布のいう『販売部』とは昔の名称で、正確にはグローバル・マーケティング部と呼ぶ。

ここ数年の風潮で、安徳工機に存在するあらゆる部署の名称が横文字化したが、しかし仕事の実態は伴っておらず、古い社員はいまだに販売部と呼ぶ傾向がある。

掛布は、話題が男女関係へと及んだことをいいことに、ある若手女子社員を引き合いにしたのである。

「白鳥を知らんのですか、部長」

「ああ、知らん」

「超が付くほどの問題社員で、皆、手を焼いているようです。曰く付きで知られていますよ」

自分の知らない所で、そのような問題社員がいたとは―。人事部長たる者、全社員の尻穴の皺の数まで知っているべきであるのに、ジョーとして不覚である。

「ほう、そんなに有名な社員がいるのか」

ジョーは刮目しながら応えると、

「ええ、これを見て下さい」

と掛布は、なにやら携帯電話を取り出し、ジョーの目前にやった。

ジョーは掛布の携帯電話を受け取ると、目を細めながら小さい画面を覗き込んだ。

「なんだ、これは?」

「最近流行の『SNS』とやらです。ソーシャル・ネットワーク・サービスといって、インターネット上で個人のプロフィールを公開して、共通の趣味の友達を作ったり、昔の友人を探したり、また色々なイベントも開催されているようです」

「なるほど。しかし、ワシはそういう類が苦手でなぁ…」

ジョーは眉間に皺を寄せながら、霞む目線で携帯電話を眺めた。

どうも最近、老眼が激しくて、細かな文字が見えにくい。

「ほんで、これが白鳥の紹介ページです」

そういうと掛布は慣れた手付きで画面を操作した。

掛布が指し示す先には、白鳥の顔写真とともに、経歴や趣味などが事細かに記載されている。

ジョーは、そこに書かれた輝かしい紹介欄を見て、みるみると剣幕を荒げた。

「アンジョリーナ? こいつは日本人じゃないのか」

そこには「Shiratori "Angelina" Kaori」と、ダブルクオーテーションで強調されたミドルネームとともに、華々しい紹介欄があったのだ。


資格 スイーツコンシェルジュリー、ワイン検定

趣味 ヨガ教室、ジム通い、ジュースクレンジング


「西洋かぶれか、訳の分からんことばっか書いてあるぞ」

ジョーは、そこに書かれた言葉の意味が殆ど理解出来ずにいたが、一緒に掲載されていた写真の数々を見て、何となく白鳥の為人を把握したつもりになった。

「この女が、自己顕示欲が強いということはよく分かった。ほんで、この白鳥とやらが、何か問題を起こしたのか」

「ええ、上司の言うことを聞かない、仕事を選り好む、取り巻きを作って社員を虐める。挙句の果てに、自分の上司をパワハラで訴えて出向に陥らせた輩ですよ」

白鳥の在籍する販売部では、昨年、部下に執拗に業務改善指導を迫ったとして、ある管理職が懲罰出向になっていた。

「ほう、こいつがか―」

ジョーは、深い溜息を吐くと、記憶を辿るように瞑目した。

掛布の説明はこうだ。

上司の指示を受け入れない白鳥に対し、痺れを切らした担当課長が厳重注意すると、一転して居直った白鳥が、パワハラ、過剰指導だと、あることないこと労働監督局にタレ込んだのだという。

近年は労働環境の改善が内外で取り沙汰され、長時間勤務や公然の叱責はパワハラと見做される傾向にある。

上司が威張る時代は終わり、むしろ最近ではパワハラを恐れ、上司が部下に対し満足に仕事を振れない状況にすら陥っている。

白鳥はそうした時流を逆手にとり、都合の悪い担当上司を出向へと追いやったというのだ。

「結果的に、当該課長は下請業者に懲罰出向になったが、噂を聞いた他の管理職も、戦々恐々としてしまって、部下に仕事の指示すらまともに出来なくなっている状況です」

現時点では単なる掛布の酔談に過ぎないと思われたが、仮にこれが真実であるとすれば、とても許し難いと、ジョーは感じた。

「世知辛いな、今の時代は部下を叱ることも出来ないのか」

ジョーは、明日は我が身と思いながら、苦い味のするビールを流し込んだ。

安徳工機は、大手メーカーとして先陣を切り、全社的に女性の雇用を促進していた。

社内で活躍する女性社員を大々的に宣伝したり、また役員方針で女性の管理職枠を増やすなど、男女雇用機会均等の実現化に向け、年々拍車をかけてきた。

しかし一方で、製造現場などの一部の部署では女性の定着率が悪く、社内で課題になっているのも、また真であった。

特に岐阜本店工場での女性社員の定着率の悪さは顕著であり、作業服やヘルメットを着用したり、深夜勤務や危険作業を伴う製造現場特有の劣悪な労働環境に抵抗し、一旦、新卒で配属されても、三年も持たずに他部署へ異動する始末であった。

横浜のみなとみらい本社は、そういった多くの女性社員が異動を希望し、もともと男性比率の高い安徳工機において、唯一、本社だけが女性比率が半数を超える現状である。

人事は三年でローテーションと謳う中で、社員間の待遇差を解消するのも人事の重要な責務であるため、ジョー自身、頭を悩ませていた。

「しかし、なぜそんな問題のある社員がうちの会社に入社できのだ、興信所は仕事をしているのか」

急に酒のペースが落ちたジョーは声調を落とすと、先のように問うた。

ジョーのいう興信所とは、人事部お抱えの下請け業者であり、社員だけでなく、安徳工機に就職を希望する学生の為人や経歴を調査する専門機関である。

今となっては全国津々浦々に拠点を張り巡らす興信所であるが、しかし、その存在を知る者は人事部でも限られた人物のみである。

「部長、興信所はちゃんと機能していますよ」

掛布は、ツンと澄ました様相で、煙草を蒸しながら言った。

「ジョーさん、あのね、本当に優秀な学生は首位のジョイックスに入社しますよ。うちは業界二位なんだから、おこぼれ学生しか入ってきません。白鳥も、ジョイックスを落ちてうちに入ってきています」

「畜生…」

ジョーは、苦虫を潰したような顔をすると、再び顔を上げて話し始めた。

「しかし、少なくとも入社当時の調査結果は残っているんだろう、教えてくれ」

掛布はPCを取り出すと、なにやら操作をし始めた。

興信所の調査結果など極秘情報の詰め込まれた人事データベースにアクセス出来るのは、課長級以上、管理職のみである。

「白鳥香織は、一九八八年生まれの二十七歳。今年で入社三年目となります。入社時期と年齢のズレに違和感があるでしょうが、学生時代に二度、留年しております」

「うむ、続けてくれ」

「白鳥は、所謂、帰国子女で、芝白金に生まれ、小学校に上がると同時に、父親の仕事の関係でアメリカへと渡り、日本に戻った後もインターナショナルスクールに通っていたため、英語は堪能ですが、一方で、甘やかされて育ったのか、異常にプライドが高い」

「なるほど、家柄が良いお嬢様タイプか。まあ、ありがちなパターンだな」

掛布は説明を続けた。

「ええ。ちなみに、母方の血筋も相当のもので、加賀で十八代続く染物屋の末裔でして。人柄は控えめですが、地元のミス・コンテストに選出されるなど、かなりの美人で知られております。これが母親の写真です」

掛布は、興信所が集めたデータの中から母親の写真を取り出すと、ジョーの目前に差し出した。

「ほう、確かに絶世の美人だな。しかし白鳥本人には全く似ておらん」

「そして、こちらが父親の写真です」

ジョーは、父親の写真を見ると、目を丸くして言った。

「なんや、このチンチクリンのハゲは。娘と瓜二つやな!」

「残念ながら、父親に似てしまったようです」

「そりゃ、性格が歪むわな…」

ジョーは哀れむような目で言った。

テレビ画面には、相変わらずソフトバンクと阪神の中継が続けられていた。

しかし、戦況はというと、ソフトバンク先発の摂津が巧みにシンカーとカーブを使い分け、阪神打線を完全に封じていた。

鳥谷、上本、西岡、ゴメス、マートン…、セ・リーグを代表する好打者が、面白いように打ち取られ、球場は葬儀会場のように静まり返っている。

二人はそんな阪神打線の低落に目もくれず、冷酒の入った御猪口を傾けながら、会話を続けた。

「参考ですが、白鳥は、高校時代に交際していたイタリア人と男性経験を済ませております」

思い掛けない掛布の発言に、ジョーは冷酒を吹き出しそうになった。

「興信所はそんな情報まで調べているのか!」

「ええ、しかし、そのイタリア人男性は他にも多くの交際相手がいたことが判明しております。なにやら外国人クラブに入り浸りだったとか―」

「ほう、いわゆる二股、三股を掛けられていたということか。それにしてもそのイタリア人、かなりのゲテモノ食いだな」

「まあ、白鳥とは酔った勢いでの行為だったらしいです。しかし、白鳥本人は、イタリア人の彼氏がいると豪語していたようですが」

ジョーは、再び掛布の携帯画面を眺めた。

確かに、そこには、白鳥とともに外国人らしき友人の姿が多く映っている。

「なるほど、非常に男根崇拝的な顔をしておる、外国人の逸物しか受け入れんという顔だな」

大方、状況を理解したジョーは気を取り直して問うた。

「学生時代の経歴は分かった。入社後についてはどうだ」

「ええ、先ほども申し上げました通り、相当の問題社員のため、仕事に関しては実績という実績がなく―」

「なるほどな」

ジョーは、掛布が言い掛けたのを封じるように、

「入社以来、販売部か。このままいけば来春で四年目となる。そろそろ配置転換の時期だな」

と、片肘をついて呟いた。

人事は基本的に三年でローテーション、例外はない。

これは会社創設以来、続く人事の基本原則である。

男性、女性、若手、ベテラン、役職に関わらず、人材を固着させない目的で、流動的に配置転換をする。安徳工機における人事の基本中の基本だ。

「いずれにしても、その白鳥という社員、ただでは済まされんぞ」

ジョーは、徳利の底に残った冷酒をかき込むと、

「この女が苦悶の表情を浮かべるのが見たい」

と、不敵な笑みを浮かべた。

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